近づいて、後退して、そうしてまた
「……まだ、見られたくないんです」
ユリウスはイザベルに視線を注ぐ。
(……わたしか)
向けられた翳りのあるそれにイザベルは何も言えなかった。代わりにスカートを強く握る。
(見たいなんて思わないけれど)
顔を見せる時も同じような表情をしていたから、服の下に何かがあるのかもしれない。それくらいは子供のイザベルでも察しがつく。
「ベル、一緒に出ようか」
「はい」
イザークは大人しく従う娘の手を取ってドアへ向かう。そうして廊下に出たイザベルは、重たくなってしまった口を開く。
「お父様、どうして皇子殿下はここに来たの?」
今、彼はドアを隔てたあちら側にいる。だから尋ねても聞こえはしない。
せがんでも教えてはくれない──そう薄々分かっていても、一度きっぱり言われないと諦めきれない。
「教えてお父様」
イザークは困ったように後頭部を掻いた。
「大人の事情なんだ」
「そうだとしても、わたしにお父様がいるように、ユリウスにだって家族がいるでしょう?」
違う疑問をぶつける。
「…………彼の母君はお亡くなりになっている」
「お母様がいないの? それでも皇帝へいかが」
名を出すとイザークは顔を険しくした。その極端な表情の変化に、イザベルは途中で口を噤んでしまう。
(お父様……怖い)
剣呑な雰囲気に呑まれてしまいそうで父から距離を取る。
「ごめん、怖がらせてしまった」
イザークは溜息をつき、「……顔に出てしまって駄目だな」と反省してから開いてしまった距離を詰める。
「いい子だからしないと思うけれど、ユリウスが自ら話すまで、彼の過去を無闇矢鱈に探ってはいけないよ」
「…………それは先に言ってほしいわ」
「まさかしちゃったのかい?」
「ううん、してない」
けれども、配慮する必要があるなら事前に伝えて欲しかった。もし、さっきの時間でイザベルがユリウスに尋ねていたらどうするつもりだったのだろうか。
「……秘密も、気をつけないといけないことも、多すぎて困っちゃうわ。突然このようなことに巻き込まれたわたしの身にもなってください!」
ぷぅと頬をふくらませ、ぷいっとそっぽを向く。
「家族が増えるのはいいことだし、大好きなお父様のお願いだから反対しないけど。これでもっと忙しくなるのは……お父様が倒れちゃうのは……イヤなの」
段々声が小さくなる。
公爵家当主のイザークはとてつもなく忙しい。それでもイザベルとの時間を捻出しようと、夜遅くに書類仕事をしているのを最近偶然知ってしまった。
そこにこの件ときた。心配が募ってしまうのも致し方ない。それに────
「……ユリウスにお父様を取られちゃうのもイヤ。お父様の一番はずっとわたしがいいの」
いつでも父はイザベルのことを優先してくれた。だから皇子であるユリウスが来たとしても、ここだけは譲れない。ララも大好きだが、父は特別なのだ。
イザークは何があっても変わらないイザベルの「お父様」だから。
するとイザークは表情を緩め、しゃがんで抱きしめた。
「当たり前だ。ベルはどんなものと天秤にかけても一番だよ。私の大切な宝物」
大きくて大好きな手がイザベルの頭を撫で、ぽつりと零す。
「ベルが一番なのは大前提として、その上でお父様は皇子殿下のことを見て見ぬふりできなかったんだ」
「…………ちょっとわかる。放っておけないわ」
きっと父が考えているのとは違うだろうけれど。たった二歳しか離れていないし、相手は皇子殿下なのに、「守らないと」そう思ってしまう。
「それと、彼の心は空っぽなんだ。だからベル」
イザークは娘の両肩に手を置く。
「君が思う楽しいことや幸せなことをユリウスに教えてあげて欲しい」
イザベルは目をぱちぱちさせる。
「わたしが?」
「そうだよ。何でもいい。花を愛でることや遊ぶこと。本当に何でも」
(…………急に言われても)
六歳のイザベルに頼むことでは無い。
「お父様でもいいのでは」
「私よりもベルが手を引いた方がうまく運ぶんだよ」
「よくわかんないわ」
「うーん。なら、いつも通り過ごしてごらん」
イザークはイザベルの手を包む。
「ユリウスにとってはそれだけでも新鮮だろうから」
それでいいのならとイザベルは了承した。しばらくしてドアが内側から開かれる。
細かく調べるためにシリルが光を求めたのだろう。ユリウスは窓際の温かな日差しが差し込む場所に移動していて。光の中へ駆ける娘を見守りながらイザークは目を細める。
「私はただ、何の罪もない子供は健やかに育って欲しいだけなんだ」
◇◇◇
ユリウスはちょうど服を整えていたところだった。診察を担当したシリルは顔を曇らせ、イザークと話し込み始めたので、イザベルは二人の間を抜けて彼に駆け寄った。
「……聞かないの?」
「何を?」
「……僕が一人にしてって言った理由」
「そりゃあ知りたいわ。でも、ユリウスが言いたくないなら無理に聞かない」
(お父様と約束したし、わたしだって答えたくないものは口が重くなるもの)
弾みをつけてユリウスの隣にダイブする。ふかふかのソファは優しく迎え入れてくれ、イザベルは笑みを携えて顔だけ上げた。
「だからいつか教えてね」
「……よ」
「?」
「イザベルならいいよ。さっきはアレだったけど……君は……違うって僕も……思うから」
ユリウスは手首近くにあるボタンを外して袖をまくった。
晒されたのはかさぶたになった皮膚や手先と同じ切り傷に、青あざが痛々しい──傷だらけの左腕だった。




