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複雑な心

 沸かした湯の入ったポットや茶葉、軽食用のサンドイッチなどを載せた台車を押して私は入室したのだけれど、今朝は珍しく、ユース以外の人は居なかった。

 一対一の空間に緊張する。拍車をかけるようにいつもなら私が入室しても目もくれず書類を裁いているユースが柔らかい微笑とともにこちらを眺めていて、私はどぎまぎしてしまう。


 懐に入れた退職届がますます重みを増す。とはいえ、まずはきちんと紅茶を淹れようと準備を始める。

 一挙一動、じっと見られていて落ち着かないものの紅茶を淹れ終わり、机上に置いたところでユースは口を開いた。


「もしかしたら今日は出勤しないかなとも思っていたから来てくれて嬉しいよ」

「…………お仕事を放り出すつもりはないもの。ただ」


 にこにこと朗らかな彼には言いづらくて口篭る。


「ただ?」

「……渡したい物があって」


(誰もいない今がチャンスよ。切り出さなければ)


 文官達がいつ帰ってくるか分からない。いつかは切り出さなければならないなら、早い方がいい。

 私は懐に手を入れてチェルシーさんに突き返された退職届を取り出した。


「退職させてください」


 勢いよく頭を下げ、腕だけ伸ばして退職届を差し出した。


(言った! 言えたわ!)


 ユースの顔を見るのは怖いけれど、きちんと伝えられたことにまずは安堵する。

 どのような反応が返ってくるのか。怖くて顔をあげられない。一秒が長く感じられて手先が震えてしまう。


「こうなるだろうなとは思ったが」


 トントンと机を小突いたと思いきや、ユースは立ち上がった。同時に私の手から届けがすり抜けたので顔を上げると、ユースは手に取った届けを揺らしている。


「辞めたいの?」

「辞めさせていただきたいです」


 ふーんと呟いた彼の声は低くて寒気がする。ユースはじりじりと私との距離を詰めて壁に追い詰めていく。


「本当に?」


 こくこく頷く。


「そっか。なら仕方がないね」


 目尻を下げ悲しそうな仕草をするのでこれは私の予想に反して認めてくれるのでは……? と淡い期待を抱いたところ、ユースは退職届を胸の高さまで持ち上げた。



「──認めるわけないだろう?」



 びりびりっと私の目の前で届けを二つに破ってしまった。にこやかな表情とは真逆な行動に動揺を隠せない。


「あのね、これには理由があっ……」


 弁明しようとすると彼はすぅっと目を眇め、退職届をますます細かく破いていく。無情にも紙切れとなった届けがぱらぱらと床に散らばった。


「言ったよね? 逃げることは許さないと。約束を破るつもり?」

「違うわ。離れたり逃げたりするつもりはないの。やり方として、侍女として貴方のそばにいることはやめようって考えて……」

「僕の想いを知っているのに? まさか本気にしてないわけ? もう一度、ベルの唇でも奪えば真剣に考えてくれるかな」

「十分伝わってます!」


 あの時の強引な口付けを思い出してしまって顔を真っ赤にしながら否定する。

 すると先程まで静かに怒っていた彼は滲み出ていた冷気を消した。


「ベル、仕事内容や人間関係に飽き飽きして辞めたいのならまだしも、違うならば侍女の職を辞めないで。君の姿を毎日見られることが一番の癒しなんだ。求婚の返事だってまだだろう?」

「うっそれとこれとは別……よ……」


 その話を持ち出されると弱い。私だって彼のことが好きなのだから「はい」と了承すれば良いだけなのに、応えることを躊躇している。


 想いを告げるには身分に差があり過ぎる。花嫁になってと乞われてもすんなり承諾するにはあまりにも彼の地位が高い。


(この国の皇帝陛下だもの。皇子殿下とは違うのよ)


 ランドール公爵家のイザベルと皇位からは程遠い第三皇子の関係だったなら、私は迷わず「私も好きよ」と告げていただろう。何度か姫が降嫁したこともある公爵家だ。皇家との繋がりもあるし、第三皇子ならば婿入りしてもそれほど珍しくは思われない。


 しかしながら今世では伯爵家だ。名門とはいえ、デューリング伯爵家とランドール公爵家ならばやはりデューリング伯爵家の地位は劣る。


 今の身分に不満はない。公爵家とは違って爵位に興味があって近づいてくる人は少なくなるし、穏やかな人生を送れている。ただ、それが皇族との婚姻となると障害になるのだ。


 だから伴侶には私ではなくその地位に相応しい人を迎えて欲しいという思いが捨て切れない。


(隣国の姫との婚姻もまことしやかに囁かれていたし……)


 今世の自分に関係ないからと気にもとめてなかったけれど、皇后として迎えるならばそちらの方が好ましいだろう。


「……返事を待つと言ったのは貴方よ。ここで絡めてくるのは卑怯だわ」

「そうだね。待つと言ったのに話を持ち出してごめん。けど、侍女の件に関しては待たないよ。というか辞めさせない」


 そうやって顔を近づけてくるので私はユースの胸を押して距離を取ろうとする。


「分かったわ。辞めない! 辞めないから離れて!」


 ここは一旦折れよう。見かけによらず、彼はこう! と決めたことに関して頑固なのだ。特に私が関わる件については絶対に譲らない。


「何度提出しても無駄だよ。絶対に受理なんてしないから」

「…………好きにして」


 ダメだ。間を置いて提出すれば許してくれるだろうという甘い考えを見透かされている。


 多少むくれつつも折れた私にユースは見るからに安堵して、今度は私をぎゅっと抱き締めて肩に顔を埋める。ふっと彼の口から漏れた吐息が肩に触れてこそばゆい。


「ど、ど、どうして抱きつくの!」


 久方ぶりの距離感についていけない。イザベル時代だったならば自然に受け入れていたけれど、今は意識してしまう。

 ドキドキと鳴る心臓の音を聞かれてはいないだろうか。


「抱きつきたかったから。昔はよくこうしていたじゃないか」

「昔とは違うのよ! 誰かに見られたらどうするのよ」


 私の邸宅ならまだしも、ここは皇宮だ。人目があるし、次の瞬間には執務室のドアが開いて文官が顔を出すかもしれない。


「見られてかまわないけど? むしろ好都合だ」

「なっ馬鹿なこと言わないでっ」


 余裕綽々なユースはいつ人が入ってくるか気が気でない私の訴えを無視して、しばらくの間抱きしめ続けていた。


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