リリエル・ハードゥエルは聖女じゃない
「エレナ・アボット!お前は聖女であるリリエルをいじめた!そんなお前は王太子妃に相応しくない!よって婚約を破棄する!」
(ええええ〜)
王子クリストファーの言葉に誰よりも驚いたのはいじめられていたとされるリリエル本人だった。
***
王立ステラ学園、貴族の子息令嬢が集まる歴史あるこの学園に子爵令嬢であるリリエル・ハードゥエルが入学したのは一年前の春のこと。
子爵家の庶子である彼女は自分が貴族の血を引くとは知らず、平民として育った。愛らしい容姿に無邪気な性格の彼女はやがて王子と恋に落ちる。
というのが、全校生徒が認識しているリリエル・ハードゥエルである。
「失礼ながら殿下、聖女などという称号は我が国にはないはずですが」
婚約破棄を言い渡されたエレナは落ち着いた声で告げる。一学年の終わりに開かれる終業パーティでは生徒たちは制服ではなくドレスアップした姿で参加する。エレナもいつもの制服姿ではなく、薄紫色のドレスに身を包み、いつもストレートの黒髪にはゆるくウェーブがかかっている。真っ直ぐにクリストファーを見つめる紫色の瞳は静かに怒気を孕んで輝いていた。
「たしかに、今はない。しかし、過去には聖女と呼ばれる存在がいたのはエレナも知っているはずだ。このリリエルを見ろ!淡い髪色に淡い瞳、まさに絵画の聖女そのものではないか」
リリエルはストロベリーブロンドに水色の瞳をした小柄な少女である。今日は若草色のドレスに身を包んでいる。
「…その条件に当てはまる女性ならこの会場にごまんとおりますが」
エレナは頭を抱えたくなったが、侯爵令嬢として育ててきた鋼の自制心が何とかそれを押しとどめた。
「ふん、それだけな訳がないだろう。リリエルは動物に好かれる!」
「はあ?」
エレナの自制心はほぼ限界に達していた。
「わからんか?リリエルの慈愛の心が動物たちを引き寄せているのだ!」
エレナはついに頭を抱えた。
「さらに、リリエルは薬草に詳しく大勢の生徒の怪我を治している。人を癒してこその聖女だ!」
「知りませんが、聖女ならなんか聖なる力で治したりするのでは?」
「エレナ、それは少し非現実的だろう」
「…」
エレナの額に青筋が浮かぶ。
「そして、リリエルの祈りは天候を変える。現に、先日私が優勝した馬術大会ではリリエルが祈ってくれたおかげで大雨だったのが晴れたのだ!」
エレナはもう色々と諦めた。
「分かりました。ハードゥエル様が聖女だと言う話は一旦保留にしましょう。私がいじめたというのはハードゥエル様の証言ですか?」
「ふん、リリエルは優しいからそんなこと自分で言い出せるわけがなかろう!だが、俺は分かっているぞ。リリエル、怖がらなくていい証言してくれ」
ここでようやくリリエルは顔を上げた。目尻には涙を浮かべ、苦しそうに自分自身を抱きしめている。
「発言をお許しいただきありがとうございます、殿下。誓って申し上げます!私リリエル・ハードゥエルはエレナ・アボット侯爵令嬢にいじめられてなどおりません!」
「え」
「ふん」
((((でしょうね…))))
クリストファーが固まり、エレナが鼻を鳴らし、全校生徒が心の中で同じ言葉を吐いた。
アボット家の令嬢ともあろうものがいじめなんてせこいマネする必要はないのだ。その気になれば子爵家ごと社交界から消せるのだから。
「だが、スカートを破られたり、ドレスを汚されたりしてたではないか!」
「スカートは机に引っ掛けて破いてしまって、ドレスは不注意で薬をこぼしたと申し上げたではないですか」
「だが、ドレスに溢れていた毒々しい液体が薬とは思えないのだが…」
王子の呟きをかき消すようにリリエルは主張した。
「加えて申し上げさせて頂きます。私は伝承にある聖女などではありません!エレナ様の言う通り容姿はよくある特徴ですし、動物に好かれるのは動物の生態に詳しく適切な接し方ができるからですし、怪我の治療は素人に毛が生えたようなものですし、雨が上がったのは偶然です!!!」
エレナは腕を組んで何かを考えている様子でリリエルを見ていたが、すぐに貴族令嬢らしく優雅に微笑んだ。
「ハードゥエル様、言いたいことは他にもあるのでは?」
「それは…あるのですが、この場では」
リリエルが困ったように言葉を詰まらせる。
「よいのです。私が許可しましょう、言いたいことは残らず言ってしまいなさい」
リリエルは何かを決意したように顔を上げた。
「恐れながら申し上げます。私はクリストファー殿下をお慕いしておりません」
リリエルの言葉に顔面蒼白になるクリストファー。『え、そうなの?』と驚いた顔をする生徒達。
「学園の皆様が私の噂をされているのは知っていました。ですが面と向かって言われた訳でもないのに否定するのはおかしいと思って…」
生徒たちは気まずそうに目を逸らす。
「だが、リリエルはいつも私を応援していると言ってくれたではないか!」
クリストファーが叫ぶ。
「それは、殿下が勉強や公務でご苦労なさっていると私に仰ったので貴族として申し上げたまでで…」
「だ、だが…」
「いい加減になさって下さい!見苦しいわよ、クリス!」
エレナがとうとう堪忍袋の緒が切れた様子でピシャリと言った。
クリストファーとエレナは幼馴染で兄妹のように育った間柄だった。婚約者となり学園に入学したことでエレナは王子と婚約者として適切な態度で接してきたのだが、もう我慢の限界だった。
「エ、エレナ、でもリリエルが…」
「私は人のせいにする人は嫌いよ!」
「ま、待ってくれ!謝るから」
エレナに駆け寄り膝を突いて懇願するクリストファー。
これではどちらが婚約破棄を突きつけたのか分からない。
「エレナ様、ひとつ申し上げてよろしいですか?」
苦笑しながらリリエルが口を開いた。
「何かしら?クリスへの文句なら大歓迎よ。あとで文書にまとめて陛下に提出しましょう」
ひいっとクリストファーが悲鳴をあげる。
「いえ、そうではなくて。殿下は本当はエレナ様のことが好きなんだと思います。事ある毎にエレナ様の話ばかりでしたし、馬術が得意なのもエレナ様と遠駆けしたかったからだと伺いました」
エレナがキョトンとした顔をする。
「私に気を遣う必要はないわよ。貴女に怒ってなんかいないわ」
虚を衝かれたエレナは素の口調で告げた。
「いえ、本当のことなんです。これは推測ですが今回のこともエレナ様の気を引きたかったからではないかと」
(マジかよ王子…)
(それはさすがにカッコ悪いぞ)
(まあ、そんなことだろうと思ったけど)
エレナがより一層鋭い目でクリストファーを睨みつける。
「それは本当ですか?殿下」
丁寧な口調が逆に怖い。
「だって、この学園に入ってからエレナは生徒会長のケヴィンにつきっきりで僕のことを避けていたじゃないか!君がケヴィンのことを好きなら僕も他に好きな人を見つけて別れようとしたまでさ!」
(あー、ケヴィン先輩か)
(それはしょうがないわ)
生徒たちの目が一気に同情的になる。
ケヴィンは公爵家の子息。クリストファーが爽やかなイケメンだとすると、ケヴィンはどこか憂いのある艶やかなイケメンだ。おまけに文武両道で生徒からの人望も厚い。
「それは、私が生徒会役員だからでしょう!それに王家は学園に影響を及ぼさないように生徒会への口出しは御法度。だからクリスに余計なことを話さないように気をつけていただけよ」
「でも、エレナはケヴィンみたいなタイプが好きなんだろ?芝居見に行った時もリオノールにメロメロだったじゃないか!」
「リオ様は推しだもの!」
リオノールとは王都一番の劇団の役者で、泣きぼくろがセクシーな男前である。たしかにケヴィンに似てないこともない。
(分かる!推しは推しだもんね!)
(リオ様しか勝たん!)
何人かの女生徒が拳を握りしめた。
「お二人とも、熱くなりすぎですよ。こちらを飲んで心を落ち着けて下さい」
すっかり蚊帳の外になっていたリリエルがいつの間にやらオレンジジュースを持って二人の前に現れた。
「ありがとう」
言い合いに疲れた二人はごくごくとオレンジジュースを飲む。
「エレナ、ごめん。それからリリエルも、誤解して巻き込んでしまってごめん」
落ち着いたらしいクリストファーが涙声で言う。
「もし、リリエルが私のことを好いていてくれていたら本当に傷つけてしまうところだった。気づかせてくれてありがとう」
「いいえ、おそらく殿下は心のどこかで私が殿下のことを恋愛感情で見ていないと気付いたからこそ、逃げ道にしてしまったのだと思いますよ」
リリエルは微笑んで言う。
「私からも、謝罪いたします。こんな馬鹿騒ぎに巻き込んでしまって申し訳ありません」
「エレナ様が謝ることではありません。むしろ、弁解の機会を頂けたことを感謝いたします」
二人の令嬢は目を合わせて微笑みあった。
「話は聞かせてもらったよ」
凛とした声と共に野次馬たちがサーと左右に割れた。
「会長!」
エレナが驚いたように叫ぶ。
生徒たちの間から現れたのは黒髪の美青年と赤髪の凛とした令嬢。生徒会長のケヴィンと副会長のメアリーだった。
「クリストファー殿下、失礼ながら申し上げますが、学園内でこのような騒ぎを起こされたらどうなるか分かっておいでですか?」
ケヴィンはエメラルドグリーンの瞳で真っ直ぐにクリストファーを見つめる。
「…すまない。一人の生徒としてどんな罰でも受ける覚悟だし、王子としても責任をとろう」
「今回はそのお言葉だけでよしとしましょう。次はないですよ」
「え?」
クリストファーが顔を上げるとケヴィンは生徒たちを見渡して告げた。
「ここで見たことは王子と令嬢のトラブルではなく、二人の生徒のちょっとした喧嘩だと思って忘れましょう。ここは学校です。誰もが一度は間違えて、成長していく場です」
「ケヴィン、しかし!」
クリストファーが言おうとするのをエレナが押しとどめた。
「生徒会の決定に王家が口出しするのは御法度ですわ」
「さて、みんなパーティに戻ろうか」
ケヴィンが指を鳴らすと一斉に音楽が鳴り出す。ケヴィンが後ろに控えていたメアリーの手を取り踊り出すと、生徒たちも状況を理解し踊り出した。
エレナとクリストファーはそっと生徒たちから遠ざかり壁際へと移動した。
「あら?ハードウェル様は…」
エレナは辺りを見回すがリリエルはどこかへ行ってしまったようだ。
「彼女には改めて謝罪しなくては」
クリストファーが項垂れる。
「そうですわね。クリスが今日、いえここ半年間していたことは男として最低よ」
うぐっとクリストファーは言葉を詰まらせる。
「でも、私も婚約者としては最低だった。クリスが他の令嬢と恋仲になるかもって噂で聞いてたのに何もしなかったんだから」
「そんなの、エレナは悪くない」
「たぶん、怖かったの。クリスが他の女の子のことを好きだって目の当たりにするのが」
エレナは困ったように笑う。
「私が本当に心を許せるのはクリスだけだから。クリスと結婚するって思って生きてきたし、そうじゃなかったらどうすればいいか分からなくなってしまう」
クリストファーはエレナの手を握った。
「本当にごめん。でも、僕も同じだよ。エレナに捨てられるのが怖かったんだ。だからいっそ自分から婚約破棄すればいいんじゃないかって」
「ヘタレのくせに変なところで思い切り良くならないでくれる?!」
「ごめん」
エレナはクリストファーの手を握り返す。
「もう二度とこんな事しないって約束して」
「うん、約束する。あとね、エレナ」
バサリと二人の頭上の窓の側の枝に止まっていた鳥が羽ばたいた。
「君が好きだよ」
***
「良かったあ」
一方会場を抜け出して寮の部屋に戻っていたリリエルは安堵のため息をついた。
『良くないよ!なんだあの甘酸っぱいカップル!胸焼けするかと思ったぜ』
リリエルの部屋の窓に止まっている一羽のカラスがそう言った。
「青春よねー、若いっていいわ」
『リリエルはもう300歳超えてるもんね』
「おだまり!」
『でも、魔女が聖女に間違われるなんてとんだ笑い話だね』
リリエルは300歳越えの魔女なのだ。学校というものに通ってみたいという好奇心で偽の子爵家をでっち上げ、ステラ学園に入学したまでは良かったのだが、人と違いすぎるリリエルは注目を浴びた。
「動物が寄ってくるのは動物の言葉が分かるからだし、怪我人の治療をしたのは薬を色んな症例で試したかっただけだし、天候を操るのなんて朝飯前なのよねー」
クリストファーに聖女と言われた時は笑いを堪えるのに必死で涙が滲むほどだった。
『そう考えると魔女も聖女も大差ないよね』
「そうよ!不吉な存在なんて言われてるけど、魔女だって人々の幸せを祈ってるんだから」
そう言いながらリリエルはドレスの胸元からビンを二つ取り出す。
「それにしても、用意してたコレまで使う羽目になるなんてね…」
リリエルが万が一のために用意したのが『自分の心に素直になる薬』と『飲んだ前後1時間ほどの記憶が曖昧になる薬』である。前者はエレナとクリストファーに渡したジュースに、後者はパーティ会場に用意されていた飲み物に片っ端から入れてきた。
「これで、騒ぎは忘れられるでしょう」
『でも王子とエレナまで忘れちゃったら意味ないんじゃない?』
「大丈夫よ。魔女の薬は同じ日に何種類も飲むと後に飲んだ方は効果を失うから」
リリエルは伸びをするとドレスを脱ぎ捨てローブに着替えた。
「さて、この学園ともお別れね」
『え、辞めちゃうの?あんなに学生になりたがってたのに』
「もう十分楽しんだわ。それに、万が一薬のことがバレたら火炙りにされちゃう」
冗談ではなく、魔女は不吉の象徴であり災厄をもたらすものと信じられているのだ。
『やっぱり、あんな間抜けな王子庇わなくて良かったのに』
「そんなこと言わないの。間抜けだけど悪い人じゃなかったんだから」
学園に入学したばかりのころ、礼儀作法も分からずおまけに普通の人間の暮らしにも慣れていなかったリリエルは他の生徒から奇怪なものを見る目で見られていた。唯一クリストファーは親切に様々なことを教えてくれたのだ。
「それに、私にはあなたがいるから寂しくないわ」
リリエルはカラスの頭を撫でた。
カラスはくすぐったそうに身を捩るとバサリと空へ飛び立った。リリエルも窓枠を蹴り、箒に跨り空へ飛び出す。
「さよなら、クリストファー、エレナ。いい国にしてね」
リリエルが再びこの国に足を運んで、間抜けだが優しい王として国民に親しまれたクリストファーと賢妃と称されたエレナの銅像に微笑むのはもう少し、いや、あと100年くらい先の話。