チー牛は地獄で地獄をみる
恐い。もう嫌だ。何もかも嫌だ。どうしてこんなことに…
真は夢中になって駆けた。すべての元凶のあの質屋へ。
息が上がり肺が裂けそうになるが、脳から放出されたアドレナリンと『死の恐怖』が走る足を止めることを許さなかった。
やがて見覚えのある路地についた。この先に自分を狂わせたあの店がある。
街灯もなく真っ暗なので手探りで進むが、ところどころ不法投棄されたゴミが散乱しているため、その都度躓いて転びそうになる。
しばらく進むと、やっと見覚えのある西洋風の立派な木製のドアと暖かなオレンジ色の灯りを煌々と放つウォールランプが見えてきた。
ドアには『CLOSE』と書かれたプレートが掲げられていたが、なりふり構っていられなかった。
すみませんと叫びながらドンドンドンと強くドアをノックすると、しばらくしてギギッという音と共に重い木製のドアが開かれた。
「誰かしら?」
白髪の少女はしばらくの間、全身汗だくで息の上がった真を迷惑そうに車いすから見上げていたが、やがて事情を察したのか店の中に招き入れてくれた。
「わふぁ…あの時のスケベさんね。…なんでそんなに汚れているの? こんな夜更けに訪ねてこられて、はっきり言って迷惑なのだけれど」
少女は眠い目をこすりながら面倒くさそうに尋ねる。
髪は下ろしていて、大正チックな袴姿ではなく葵い菖蒲模様の浴衣を身に着けていた。どうやら寝る直前だったか、寝ていたところを叩き起こされたらしい。
ただ、前回と同様に黒のキャスケット帽が少女の頭を隠すようにすっぽりと覆っている。
真はがくっと両膝をついて今まで起きた出来事を洗いざらい話すと、かじりつかんばかりの勢いで懇願した。
「助けてくれ…こんなこと想定していなかったんだ。なぁ、頼むよ!」
少女は捲し立てる真に対して軽蔑の目差しを向けていたが、やがてはぁ…っと面倒くさそうに溜息をついた。
「あら、そう。絵の中の少女が具現化してあなたに無償の愛を捧げている…。よかったじゃない。何が不満なの?」
「全っ然よくない!!! あんな頭のおかしいメンヘラ女だって知らなかったんだ!こんなの、俺の望んだことじゃない…!」
「それはあなたが望んだことの『結果』よ。あなたみたいな依頼人はこれまで腐るほど見てきたけど、夢や願い事が叶うことは必ずしも『幸せ』につながるとは限らない」
少女は車いすのひじ掛けに頬杖をつきながら、さも当然といった風にさらりと言い放った。
余りにも救いようのない言葉に、真は愕然とする。
「あと、あなたもうすぐ死ぬわよ。『自分の命を捧げます』って質札にそう書いたじゃない。その女に殺されるか、病気か事故かは分らないけど」
真ははっと思い、店内の振り子時計に目をやるともうすぐ0時になろうとしていた。
時計の針が0時になると、前回この店に来てから丁度3か月になる。自分の命が流れてしまうことも現実になるなんて…
真の中でもうすぐ『死ぬ』という実感がじわりじわりと現実味を帯びて、狂いそうな程の恐怖感に襲われた。
「死にたくない…嫌だ…」
真の目から大粒の涙がボロボロと零れ落ちる。すでに顔面は涙と汗と血と鼻水でおぞましいことになっていた。
「まだ死にたくない!何でもしますから、お願いだから助けてください!!!」
嗚咽を漏らしながら額を床にこすりつける真を、少女はただじっと見つめていた。
「ウチは慈善活動をやっているわけじゃないのよ。そんなに『自分の命』が質流れになりたくないのなら、また別の『大切なもの』を持ってきなさい。まぁもう時間も余りないようだけど」
コツコツと振り子が揺れ、すでに0時まで30秒を切っていた。
「命以外なら何でも捧げる!俺の身体でもなんでもくれてやるから、死ぬことだけは勘弁してください!早く!!!」
少女は其れを聞くとふっと嘲笑を浮かべた。
「なるほど。確かにそれはあなたにとって本当に大切なものみたいね」
その瞬間、ボーンボーンという0時を告げる鐘の音が部屋中に響き渡り、真の視界は真っ暗になった。