プロローグ
秋を感じさせる涼風が吹き抜けていく。
天高く馬肥ゆる秋
というが、本当に空が高くなったように見えるんだなと、最近は空を見上げていなかったことを思い出す。
ひざ丈ほどの草が生い茂り、まだ枯れ始めてはいない草原の中で大の字で寝転がっていた俺は体を起こすと、思わずつぶやいた。
「ここ・・・どこ?」
中学の時に事故で親を亡くし、それでもありがたいことに義務教育である中学までは卒業できた。もともと駆け落ち同然で実家を飛び出してきた・・・と聞いている両親は親戚とは没交渉で、母親は俺が小学生の頃に、謎の病にかかったそうで呆気なく他界した。
それからは、真面目が服を着て歩いているといわれた父さんと二人で暮らしていたが、忙しい中どうしているのか、参観日やPTA、そういった学校の行事などもそつなくこなし、弁当が必要な行事でも一部冷凍食品ではあったものの、立派な弁当を作ってくれた。俺にとっては自慢の父さんだった。ちなみに父さんは冷凍食品と電子レンジを発明した人をとても尊敬していた。
父さんは、若いころの話をあまりしたがらず、母さんの話は良くしてくれるのだが、どこかのお嬢様だったのか、ずいぶんと振り回されていて、それでも楽しそうに息子の俺に話をしてくれた。小学生の頃の記憶にある母さんを思い出してもどこか浮世離れした・・・というか、一般常識に欠けるところがあり、それでも誰彼構わず優しくするような、そんな人だった記憶がある。そのせいか、母さんが亡くなったと聞いた時はもちろん悲しかったが、今思い出しても病院で臥せっている母さんよりも、にこにこ笑って料理を失敗している思い出のほうが先に浮かんでくる。あれ?あの頃から父さんのほうが料理は上手だったのか?
中学3年の秋。進学を希望し、もともと成績はそこそこ良かったので、地元の高校ならどこでも行けるという事で、父さんにはその先の進学を考えた高校選びをしろと言われていたが、質素な生活をしている家計を考えると、高校を出たら働くほうが良いのではないかと思っていた。
父さんは理由は話さないが、まともに学校には行けなかったらしく、就職のときに学歴や資格でとても苦労をしたようで、俺にはそうなってほしくないという事で、せめて何か資格を取るようにいつも言っていた。
父さん自身も、会社に行き家のことをしながらも、いつも勉強をしていた覚えがある。大変だろうと思い、手伝いを申し出るといつも笑いながら断られ、子供が気を使うなと言われたのを覚えている。そんな父さんがあの日突然、事故で亡くなったらしいと聞かされたのだ・・・らしいというのは、父さんの遺体は見つからなかったからだ。
父さんは会社の仕事の関係で、2週間程災害のあった支社の手伝いに行くと出張に行った。そこで何らかの事故にあったようで、正確には事故にあった同僚を助けて、自分がまきこまれたらしい。同僚は助かったそうで、父さんの葬儀の時に俺の後見人として一生面倒を見るといってくれたが、まだ20代の彼に負担をかけるのも憚られ丁重にお断りした。
母さんのときも、感染症が疑われたため隔離からの死亡で、遺体との対面は出来なかったため、俺は両親ともに確定的な死を突き付けてくるものが薄かったのかもしれないが、喪失感だけは本物だった。
2週間だけいないはずだった父さんが、ずっと帰ってこないことになり、遺品の整理や預金などを相続する手続きをしたのだが、父さんの遺産はとんでもないものだった。本業のほかに、会社公認で副業をしていたことは知っていたが、何をしていたのか、俺名義の定期預金が8億ほどあり、すべて生前贈与の上税金も納められていたため、そのまま手元に来ることとなった。他にも、株式や特許など、いろいろな収入源があり、使わなければたまる一方の父さんの口座のほうは、税金だけでも大変な額になったが、権利など一通り引き継いだことで、生活には全く困らない・・・というか、金銭的な不安は全くない一生を送れることが確定した。
それでも、父さんの苦労話を常々聞かされていた俺は、とにかく資格や学歴が必要なのだと、ひたすら勉学に励んだ。高校は通わずに高卒認定試験で済ませ、空いた時間で中卒以上の資格で受けられる資格試験や認定試験をひたすら取得し、年齢制限のある資格などは、年齢に達し次第取得を目指した。17歳の時に、海外ならば飛び級なども可能なのでは・・・という事で、欧州に渡り、そこからアメリカに移って、医学と経済学の博士号を取得して21歳で日本に戻った。なんだかんだ言っても両親の眠る日本が好きだったし、海外に長期滞在すると必ずなるといわれる、味噌、醤油、和だしなどへの強烈な欲求を経験してしまったのが止めだったのかもしれない。食文化は大切だと心に刻む出来事だった。
4年間の留学中に、日本ではあまり見ていなかったアニメなどのカルチャーも教えてもらった。というか、日本人のくせになぜ見ていない!!と強烈に責められた。授業で、世界の核兵器に対してディベートをした時よりも、圧力が高かったことは印象深い。
そんな感じで、留学中も増え続けていた資産を使い、エネルギー開発や医薬品開発などの事業を立ち上げ始めたのだが、その矢先に俺自身が病に倒れた。25歳の春であった。
おそらく、母さんと同じ病気。
最初は倦怠感と、微熱から始まったこの病気は、気が付けば常時39℃を超える体温になり、しだいに動けなくなり、寝たきりの状態が続くようになった。
感染症も疑い、抗体反応や免疫反応もすべて試験したが正常。
解熱剤も、一時的に熱は下がるものの、原因がわからないため薬効が切れれば再び熱が上がり、副作用が強く出始める前に投与は中止した。
高熱が出ているが、検査結果はすべて正常・・・正常である以上、治療が出来ない状態で半年。熱にうなされながらも、新たに取得を目指している法学の分野の勉強をこの機会にできないだろうか・・・などと考えていた。日本の場合は、基本的には六法が大切だが、関連法なども合わせればかなりの広範囲の法律を学ぶ必要がある。宅建士と行政書士はすでに取得しているが、次の資格は範囲が極端に広がるため、後回しになっていた。速読法や記憶術なども資格取得のために勉強してみたが、やはり写し取るだけでは理解までは進まず、また、理解だけでもスキルとしては身につかないことを、実際の仕事を通じて体験していたため、資格を取ってもそれは実務に挑む準備なんだと何度も感じたことを思い出す。
熱のせいか、意識はずっと朦朧としているが、動きずらい体を無理やり動かし、仰向けになって真っ白な天井を見上げる。
「あ、今期のアニメ、全然チェックできてない・・・また、怒られるな」
地球の反対側から病気を心配して、何より最新の日本のアニメの情報を求め連絡してくる友人のことを思い出し、苦笑気味に目を閉じる。
春に入院してすぐに退院した。今いるのは、自分で出資した薬品開発機構の研究施設にある病室だ。常時病状を非接触センサーによってモニタリングしているが、この半年高熱である以外全く異常は見られない。人間、熱では死なないものの、通常ならば発熱のためにカロリーも消費するため、必要以上にやせてしまったり、食欲の減退などに見舞われるのだが・・・それも全くない。意識だけは朦朧とすることがあるが、食事などは食べられるし、むしろ動いていないのでそれほど食べたくもない。摂取カロリーと消費カロリーのバランスが全く釣り合っていないことに、仲間の医師たちも首をかしげるしかないし、俺の知識にもそんな病気は全く思い当たらない。このまま寝てしまおうかと、朦朧としている意識をさらにその奥に沈めていこうと意識を手放す瞬間に・・・頬に風を感じた。夏も過ぎ、紅葉もまだ始まらないが、それでも夏の終わりを告げる、秋の風。
「もう秋か」
いつまで寝てるのかな・・と思って、異常さに気が付く。
完全に隔離されているこの部屋は、空調・温度など完璧に管理されている。
年中快適な代わりに、季節感など皆無である。
ハッとして目を開く。
久しぶりに見たと思う空はうっすらとした筋雲の浮かぶ、何となくいつもよりも高く見える青空だった。