エピローグ
「だから、ウサちゃんって呼ばないで!!」
アンズは混乱した記憶の不快感をタツに八つ当たりするように叫んだ。その途端、タツの体が突き飛ばされたかのようによろめく。
「ウサちゃん。ゆっくり息をして」
どこか痛めたのだろうか、タツは苦痛に歪んだ表情で一瞬呻いた。それでも、後に続いた声は優しく、包み込むような響きを持っている。
その声がアンズの胸に広がっていく。遅れて、アンズの頭にりゅーちゃんとの思い出が洪水のように押し寄せてきた。初デートで服装に悩んだ記憶や初めて手をつないだ温もり、キスで破裂しそうになった心臓の鼓動。
「なんで……」
思い出せるはずがないのに。と、アンズは両手で頭を抱えた。記憶の数々がアンズに実体を持って詰め寄って来るような感覚に襲われる。
「なんで……」
悲鳴に似た声をアンズは上げた。タツがその様子を苦しそうに見、オロオロと自分の手をアンズに差し出そうと持ち上げては力無く落とした。
「なんで……」
アンズは、それ以外の言葉を紡げない。そのまま空中に溶けるように音もなく消えた。タツがアンズの頭に触れる決心が付く前に。
「ごめん」
そう言ったタツの目尻から涙がひとしずく零れた。タツはすぐさま、パンッと頬を手の平で挟むようにして打つ。その動きに涙を拭う動作を紛れ込ませ、振り返った。
「もう安心していいですよ。ご依頼人」
ブランコを小刻みに揺らしていた少年がホッとしたような顔をする。今回の騒動の被害者だ。彼は周囲からりゅーちゃんと呼ばれているだけで、アンズとの面識はない。
去年の春、高校3年生になってすぐ、見知らぬメールアドレスから連絡が来るようになった。無視しても、返事してもお構いなく送られて来るメール。依頼人の少年は最初こそ、気味悪がっていた。しかし季節が変わる頃には慣れた。メールの内容がたわいない話ばっかりだったのもあって、放置していた。それが、卒業間近になって急に”公園に来い”というものだから怖くなって依頼してきたという経緯だ。
「えっと、料金は……」
心配そうにおずおずと依頼人が切り出した言葉に、イブキが答える。
「あータツさんの奢り♪心配しなくていいよん」
不安そうな依頼人の視線がタツを捉えた。タツは頷くと、手を振った。
「呪いは解けたから安心するといい」
何度もペコペコと頭を下げ、少年はふと考えるような顔になって、疑問を口にした。
「粗塩屋さんって何ですか?」
「俺らね、手の平から粗塩出せんのよ」
イブキがいたずらっぽく答える。
「あらじお?粗塩ってあの、料理とかに使う?」
「そーぉ。その粗塩。その粗塩まいて亡者を祓うのよ。出るとこみたい?地味だけどさ。生きてる人が食べても普通の塩となんら変わらないよ?そうだ、記念に少しもって帰る?」
茶化すような調子で軽く言うイブキにタツが咳ばらいして割り込む。
「”アンズさん”は、君が通う高校の、3年生のりゅーちゃんに執着しているだけだから、もう心配はいらない」
タツの言葉に依頼人の瞳から不安が溶けてゆく。
「それでもぉ、もし心配ならまた連絡してらっしゃい?粗塩サービスするよ?」
イブキが投げキッスの動きをつけて言った。依頼人は引き気味に愛想笑いをその顔にはりつける。
「ありがとうございました」
雑談も終わり、依頼人が公園から出ていくのをイブキとタツが見送る。
「りゅーちゃん?俺の胸かしてやろうか?」
軽薄な調子でイブキがタツをそう呼んだ。
「いらん」
タツは吐き捨てるようにしてそれを却下する。
タツにとって、アンズは初めての彼女だった。そして失ったのが数年前。
一部の人間は亡くなってからも生者の世界に息づき、生者に紛れて人生で一番好きな時間を繰り返す。悪意などないそれはしかし、時に生者を怖がらせる。怯える生者を守るのがタツとイブキの仕事だ。
祓ってやらねば、いつまでもいつまでも亡者は繰り返す。生者と違って時間が流れないから。亡者と生者は決して共に生きられない。分かっているのに、タツはどうしてもアンズを祓えないでいた。かといって、他の誰かに祓われるのはアンズを2度奪われるようで堪えがたい。
タツは眉間にしわを寄せ、目を閉じた。それをイブキは糸目の間からじっと見つめる。
図体ばかりがでかくなって、心は今だ昔に囚われたままのタツをイブキの瞳が寂しげに捉える。
会話が消えた2人の周りを桜がハラハラと舞い積もっていく。その薄紅色がいつか土に還るのをタツは拒み、イブキは望むーー。