第7話 桜色は思惑を乗せて
「桜が見たいのだけれど」
いつものように二人ゆったりと自宅で過ごしていた土曜日昼食後のひと時、ティルテが前触れもなくそんなことを言い出した。
「急にどうしたんだ?」
「先週ネットを見ていたら、お花見特集ってページを見つけたのよ。そうしたら画面一面がピンク色一色じゃない? こんなに派手な花の咲く木がこちらにはあるんだあって、ちょっと感動しちゃって」
「それで、本物を見てみたくなった、と」
彼女が言うには、彼女の住むトゥアサ世界にも春に花を咲かせる木はいっぱいあるけれど、こっちの桜のような派手な咲き方をするのはないそうだ。
それはそうだろう。日本のソメイヨシノは派手に咲いてパッと散るように改良されている上に、今植わっている全ての木は一本の原木から始まったクローンなのだから。
クローンであるが故に花の時期が揃うので、群生しているとあたり一面桜色にもなるのだけれど、環境が変わったり病気が蔓延すると一気に全滅する確率も上がる。
俺は彼女の提案に乗ることにして二つ返事を返すと、そのままマグカップ片手にスマホで週末の天気を確認した。
3月30日(土)PM1:06
現在の気温 17℃ 晴
「げ、まいったな、明日から雨じゃないか」
雨の中桜を見ても綺麗じゃないし、なにより今年は開花が早く、既に満開の時期は過ぎかかっていた。
この雨であらかた散ってしまうだろうなと考えつつ、桜見物のプランを考える。どうせなら昼と夜、彼女には両方見ておいて欲しい。
(近場で見栄えのする桜は、と)
花見特集と書かれたサイトで近所の桜名所を探す。
いくつか出てきた場所から、夜桜でも有名な都心の公園に的を絞った。
公園までは地下鉄に乗って20分ほどの距離だ。
家から最寄りの地下鉄駅は、バス停や駅とは真逆に5分ほど歩いた先にある。
既にこっちの服に着替えていた彼女と共に、俺たちはさっそく花見に出かけることにした。
§
初めて乗る地下鉄に、例によって彼女が目を丸くしている。
真っ暗な地下をひたすら駆け抜ける箱だから、初見でその気持ちは分かる。
目的の駅に着くと、少なくない人が一斉に電車を降りていく。
俺たちもその人の群れに混ざって改札を出た。
人の流れは公園に向かっているようで、流されるまま歩調を合わせて進む。
最後の階段を上ると公園の中だった。
目の前に桜色、足元も桜色。
階段を上りきったすぐの所で彼女が思わず足を止めてしまう。
後ろからも前からも人、人の流れ。
俺はその邪魔にならないように、彼女の腰にそっと手を置いて、前へ進むように促した。
ゆっくりとした歩調で公園の遊歩道を進む。
相変わらず彼女の視線は上を向いたままだ。
少し離れたところから、バンド演奏の音が風に乗って響いてくる。大きめのカメラを抱えた人もそこかしこで見かける。
少し曇ってしまったけれど、ときおり吹く風に桜色のウエーブが舞って、その中に立つティルテの姿が幻想的に輝いた。
彼女に見惚れていて、少し距離が空いてしまっていた。
気がつくと彼女の横に人がいて、なにやら話しかけている。
彼女が困惑した様子で辺りを見回していた。
どうやら俺を探しているようだ。早足で彼女の方に向かう。
近づく途中、ようやく彼女と目が合ってアイコンタクトを交わす。
横に立つ人はカメラを持った初老の男性で、笑顔で彼女に話しかけていた。
「どうかしましたか?」
その男性に向けて俺が声を掛ける。
「あっ、亮輔」
ティルテが俺を呼ぶ。
その声に反応して、男性がこちらに顔を向けた。男性の手には名刺が握られている。
「あぁ、すみません。こちらのお嬢さんの彼氏さんでしたか」
男性がちょっとすまなさそうな仕草で俺の方に向き直った。
俺はやや低めの音で声を掛けた。
「彼女がなにか?」
「いえ、実はわたくしこういう者でして。アマチュアで写真を撮っているのですが……その、彼女があまりに美しいものでスナップを数枚」
少し訝しげに見つめる俺に対して、その男性はそう言いながら名刺を渡してきた。
「遠山さん……ですか」
「はい。もしよろしければ彼女の写真を展覧会に出品させて戴けないでしょうか、と」
想定外の展開に、俺も彼女も言葉が出ない。
なんとかすぐ立ち直ったが、俺は少しうわずった声が出てしまった。
「ちょ、ちょっと待って下さい。いきなりそう言われても……ちょっと彼女と相談させてもらっていいですか?」
「ええ、ええ、それはもちろん」
俺は彼女の顔を右腕で抱え込むように抱き寄せて、小声で説明する。
「ティルテ、あのおじさんがティルテの写真をどこかの展覧会で発表したいんだとさ」
「てんらんかい?」
「そうだ、写真を趣味にしている人たちが、それぞれの作品を持ち寄って観客に見せるんだ。よほど綺麗に撮れたんだろうな」
「んー。別に私は構わないけど」
「ティルテがオーケーなら俺も問題ない。そしたら返事をしておくよ」
俺はおじさんに向き直りにこやかに返事をする。
「彼女はオーケーだそうです。俺も問題ないので、写真を使って戴いて構いませんよ」
「おお、それは助かります。本当に、私の中でもここ数年で一番良い出来になりそうなので。……そうだ、ちょっとどんな感じか見て行かれますか?」
「見れるんですか?」
「ええ、デジタルなので。画面は小さいですがこのとおり」
遠山さんはそう言いながらカメラを操作して、撮った写真をカメラのモニタで見せてくれた。
「あれ、これ地下鉄出口からすぐの所じゃないですか。二人並んでら、はは」
「もう、パッと見えたときから特別な感じでしたからね。お二人とも実に写真映りが良い」
「全然気がつかなかったわ」
3人でカメラを覗き込みながらしばしの歓談タイム。
どの写真を使うことになるかは現像をしてみないと分からないそうだが、デジタルなのに現像というのもおかしな話なので聞いてみると、この手のカメラの場合は生データから画像として取り出すときに、色々とパラメータをいじって調整や効果を出せるのだそうだ。
撮った写真は全てデータと紙焼きにして送ってくれるというので、遠山さんに住所を教えておいた。
「それでは、足止めして申し訳ございませんでした。ありがとうございました」
遠山さんはそう言って深く頭を下げると、地下鉄の方へ去って行った。
§
3月30日(土)PM6:29
現在の気温 14℃ 曇
空はもう光が落ちて暗くなってきた。
公園の街灯が青白く光り、桜の花を所々で白く照らしている。
公園の奥の方にはひときわ明るい一角があるのが見える。ライトアップされているのはあそこのようだ。
「ティルテ、あっちの明るい方に行こう」
辺りも暗がりが増えてきたので、俺は彼女と手を繋いで並んで歩く。
光のエリアが徐々に近づいてくる。それと共に周りの雰囲気も騒がしくなってくる。
あちこちの平場にシートが敷かれて酒盛りが始まっている。
まだ時間も早いというのに、ぐでんぐでんになって転がっている若い奴から、大きな桶でお寿司をつつく家族連れまで、色々な人がそれぞれに桜を楽しんでいた。
「すごいわね、人でいっぱい。それに桜の花も綺麗」
「そうだな。日本人は桜が大好きだからな。だからこうやって花を見るために集まってくる」
そんな事を話しながら、光のエリアを歩いて行く。
いつの間にか人の少ないエリアに来ていた。
これだけ人の多いこの広い公園で、奇跡的に開いた空間がそこにあった。
思わず緩んだ手。
するりすり抜けて、彼女がその空間の中に躍り出る。
次の瞬間、天使の光に舞う彼女がそこにいた。
いや、実際のところはライトアップされた光線の中にティルテが入っていっただけ、ではあるのだが。
でも、それはこの世のものにはとても見えない光景で。俺は言葉を失ったまま、その様子を少し離れたところから眺めることしかできなかった。
(そうだ、写真)
とっさに思いついてスマホを取り出す。
3月30日(土)PM6:46
現在の気温 14℃ 曇
『カシュ!』
ひときわ大きなシャッター音が響く。
(?)
今の音は俺のスマホからじゃなかった。よその誰かが撮影した音だ。
振り向いて確認しようとしたその機先を、制するように呼び声がした。
「白木くんじゃない?」
(え?)
振り向いた先には、少し小柄な女性がスマホを構えて立っていた。
「あ、やっぱり白木くんだね。お久しぶり」
「え? ええ?」
突然のことで気が動転しつつも、その声は聞き覚えがあった。
「坂本、さん?」
「今は、水谷、だけどね」
昔よりも少しショート気味になった髪以外は俺の知っている姿で、昔憧れた女性が目の前にいる。
心臓が逆波を立てて暴れる。
俺はまだ混乱する頭の中から必死で次の言葉をひねり出した。
「ああ、そうでした。結婚されたんですよね」
「白木くんはどう?まだ会社にいるんでしょ?」
今の俺を何も知らない彼女が、無垢な問いかけを被せてくる。それに対する、俺の答えは……。
「ええ、まあ」
(ウソだ)
「研究所の皆さん、元気にしてます?」
「ええ、所長もまだまだ元気ですし、このあいだも発破かけられましたよ」
(これもウソだ)
「そっか、相変わらず楽しそうだね」
昔と変わらない笑顔。その一方で、俺は……。
「私もやっぱり会社辞めなきゃ良かったかなぁ」
(!?)
「なーんてね。驚いた? 驚いたね?」
まるであの頃のまま、軽口を叩く彼女の嬉しそうな顔。俺は一気に脱力してしまった。
「白木くーん、今一気に疲れが顔に出たよ? だいじょうぶ?」
「い、いえ。先輩も相変わらず冗談きついですよ」
気が抜けた俺はちょっと苦笑いをこぼす。
「いやいや、なにか深刻な表情になってたからね。白木くんって悩み事があると眉に出るんだよね。相変わらずだなぁって思って」
「え?そんなとこまで覚えてるんですか」
「そりゃーまぁ、ねえ、それなりに見てた訳だし……」
「葉月!」
男性の強い声がして、先輩がそちらへ振り向く。
「葉月、あんまり離れたらはぐれるじゃないか」
俺より背の高い筋肉質の男性が、大股でこちらに向かってくる。
「あー、ごめんね和良さん」
男性が俺と先輩とで三角になる位置に立った。
「おまえはちょっと目を離すとすぐこれだ。心配したぞ」
「聞かれる前に紹介しておくわ和良さん。こちらの方は私が勤めていたときの後輩くんで、白木さん」
男性の言うことを気に留めず、そう言って先輩は場の主導権をさくっと握ってしまった。
「白木くん、それでこれがうちのダンナ。それから、頭の上にいるのが娘よ」
そう言われて旦那さんの頭上を見ると、かわいい小さな女の子が肩車されていた。
すぐさま旦那の方に目線を戻し、軽く会釈。
「はじめまして、白木と言います」
相手の方も目線は外さずに会釈してきた。
「……はじめまして、水谷です」
なんとも言えない間が残る。
ぎこちない男同士のやや無理矢理な挨拶。引き寄せた当の先輩はニコニコ顔だ。
「歩いてたら見覚えのある後ろ姿が立ってるじゃない? あれっと思って、声を掛けたら大当たり」
「葉月おまえなぁ……人違いだったら……」
「大丈夫よー、その時はごめんなさいして逃げるだけ」
「いやいや先輩、それはさすがにキツくないですか」
「いいじゃない、そのおかげでこうやってちょっと楽しいお話もできた訳だし。ね?」
そう言ってとにかく明るい先輩の影でため息の男2人。
「それで白木くん、うしろで心配そうにこっち見てる綺麗な女の方は? 彼女さんかな?」
「えっ?」
驚いて振り向くと、目の前にティルテが戻ってきていた。
「!」
声にならない声が出た。
「その様子だと図星ね」
先輩の追い打ちが掛かった。俺は先輩の方に向き直って、努めて平静を装う。
「ええ、まぁそうです、ね」
「ごめんねー、せっかくのデート中だったのに邪魔して」
「いえ、そんなことも」
「それじゃ、お話もここらへんかな。うちもダンナが心配顔だし」
「そう、ですね」
「じゃあね、白木くん。元気で」
先輩はそんな風にカラッと言葉を終えると、いつの間にか辺りに戻ってきた人ごみの中に、旦那さんともども溶け込んでいった。
「亮輔、今の女の人、誰?」
ティルテの言葉で我に返る。
「あ、あぁ、会社の元先輩だよ」
「すごく親しそうだった」
少し目線のキツさを感じる。
「俺が入社したときから、いろいろ面倒見てもらってたからな」
「……」
「……実は少しつき合ってました……」
なんとなく無言のプレッシャーを感じた俺は、バカ正直にそんなことを漏らしてしまった。
明らかにプレッシャーが増えたような気がする。
「……」
「……もしかして、怒ってるのか?」
「……そんなことはないわ」
「……そうですか……」
そう言いつつも、いつの間にか俺の腕を掴んでいたティルテからは、なにやらトゲのある波動が発せられていた。
そこで俺は一つ気がついた。
現代世界ではマナがないから魔力は感じられないはずじゃなかったか、と。
そして、俺自身の妙な動悸にも。