第6話 春とともにやってくるアイツ
3月も半ばを過ぎた。
実は俺はスギ花粉症を患っているのだが、今年は例年より発症が遅れていた。
多分週5日間異世界に行っているのが功を奏しているのだと思うが、花粉だけならあちらにもあるはずだ。
ただ、スギによく似ていても異世界のそれはスギの木ではないのだろうし、そうなれば花粉が似ていたとしてもスギではないので発症に至らないだけなのかもしれない。あるいは花粉以外の要因が欠けているせい、例えば大気汚染の原因物質だとか、PM2.5の類であるとかが、異世界では極端に少ないせいなのかもしれない。
と、そんな事を考えていたら、いつもより半月ほど遅れて発症した。
「う゛~、つらい」
「亮輔、大丈夫……じゃあないわよね、それ」
俺は箱ティッシュを抱えて、容赦なく垂れてくる鼻水と格闘していた。もう、喋るのも億劫だ。
「かふんしょう、ねえ。主な症状は目のかゆみと涙と鼻水。それから時々くしゃみ」
ティルテはそう言いながら何か考えている。
「ねえ亮輔。一度あっちの世界に戻って、状態回復の神術を使ってみるというのはどうかしら?」
なるほど、彼女は症状の表れを状態異常と捉えてきたようだ。俺はそれも一理あるなと思い、首肯する。
「それじゃ、早速行ってみる?」
俺はもう一度首肯して立ち上がる。少し試すだけなので、着替える必要はないだろう。彼女に導かれて、ティッシュ箱を手に持ったまま姿見をくぐった。
§
3月16日(土)AM9:03
現在の気温 10℃ 晴
「ああ、すっきりした」
数分もしないうちに俺たちは再び姿見を通って現代世界に戻ってきた。
彼女が掛けてくれた状態回復は効果覿面で、ものの数秒で涙目も鼻水もぴたっと止まってくれた。問題はこれがこっちの世界でどれくらい持続してくれるか、なのだが。
「面白いくらい良く効いてくれたわね」
「そうなんだけど、病気の元はなくなっていないんだよなあ。いつまで効果が続くのやら」
「花粉症の病気の元ってなんなの?」
「こっちでスギと呼んでる木の花から出る粉のようなものだな。花粉と呼んでいるけど」
「かふんが原因で病気になるから、かふんしょう?」
「そういうことだ」
普通に薬を飲んでいた方が良いかもしれないとは思ったが、なりゆきで変な方向に行ってしまった。まあ週5日あちらにいるし、週末さえ乗り切れれば薬は要らないかと思っていた。
§
3月16日(土)AM11:03
現在の気温 14℃ 晴
「へっくしょん!」
結局、半日もしないうちに症状がぶり返ってきた。
「思ったより早く元に戻っちゃったわね」
「う゛~」
「うわー、辛そう……」
ずびずびと鼻をすすったりかんだりしている俺を前に、ティルテが本気で憐憫の目線を送ってくる。
そんな室内の雰囲気に、さすがに自分がいたたまれなくなってきた。
「やっぱり薬でなんとかしようと思う。今からドラッグストアに行って買ってくる」
彼女もドラッグストアに付いて行きたいと言い出したので、俺たちは外出の準備を整えて街に出た。
ドラッグストアは駅とは逆方向の、会社に行くときのバス停を過ぎてもう少し先にある。ゆっくり歩いても10分とかからない場所だ。
まだ風が冷たいが、よく晴れた日だ。だが外に出たことで俺の花粉症は絶頂を迎えつつある。
鼻水もそうだが涙が止まらない。箱ティッシュを抱えて歩くというのは傍から見たらどうなんだろうなと考える余裕すらない。
ようやくドラッグストアにたどり着いた頃には、もう俺は1日分の気力を使い果たしてぐったりとしていた。
一方彼女はといえば、店に入ったとたんに小学生みたいにあちこちの棚を見て歩き回り始めた。
この時期、花粉症薬は売れ筋なのか特設コーナーができている。色々な薬があるが、正直種類が多すぎてどれが良いのかさっぱりだ。
ちょうど近くで商品を整理していた店員さんがいたので、聞いてみることにした。
「すみません、ちょっと花粉症の薬なんですけど……」
「はいいらっしゃいませ、どんなお薬をお探しですか?」
「花粉症なんですけど、医者に掛かる時間が無くて……鼻水がひどくて、鼻づまりも」
鼻声のまま、店員さんと会話する。なんだか話す内容もリピートしまくりで、頭が回っていない感じだ。ところが店員さんはさすがに慣れたもので、そんなことは気にせずに会話を続けてくれる。
「ちょっとお高いですけど、今年出たばかりの良く効く新しいお薬がありますよ?」
「そうですか、どんなものです?」
「調剤カウンターで取り扱っていますので、こちらへどうぞ」
店員さんはそう言うと、調剤コーナーの方へ歩き始めた。俺はその後に付いていく。
店員さんは調剤カウンターの呼び鈴を押して、奥で作業をしていた白衣の店員さんを呼び出す。そして一言二言話すと、どこかへ行ってしまった。間髪を入れず、白衣の店員さんが話しかけてきた。
「お待たせしました。花粉症のお薬をお探しという事で、新しいお薬に興味があると」
「はあ、そうですね」
「こちらになりますね」
白衣の店員さんはそう言うと、カウンターの下から紫色の小箱を取り出して続けた。
「スイッチOTCと言いまして、第1類医薬品とも言うのですが、これまでは医師の処方がないとお出しできなかったお薬が、薬局で直接買えるようになったものです」
「はあ」
「それで、これをご購入いただくにあたってですね、簡単ですが問診票にご記入いただいてよろしいですか?」
白衣の人はそう言って、カウンターの下からさらに1枚の用紙とボールペンを取り出してきた。
言われるがまま、用紙を埋めていく。あんまり悩むような内容もなかったのでさくっと書き終えた。
「ありがとうございます。それではお薬の飲み方を説明いたしますね」
そこから先は、調剤薬局と同じような感じで説明を受けたのだが、正直鼻の方が辛くてろくに覚えていない。
ともあれ俺は良く効くと太鼓判を押された紫色の小箱を片手に、調剤カウンターをあとにする。
(それで、ティルテはどこだ?)
パッと見たところ、視界に彼女の姿はなかった。仕方がないので通路を手前の方から順番に見ていく。結局店の端から端まで歩いた末に、コスメ売り場に彼女はいた。
「いたいた、ティルテ」
「あ、亮輔。買い物終わったの?」
「あぁ、こっちは目的の薬を買えた。ティルテはなにか欲しい物あったか?」
「んー、面白いものはいっぱいあったけど、買う物はとりあえずないかな」
「コスメとか、興味あるんじゃないのか?」
「こすめ?」
「あぁ、化粧品だよ。今いるここいらがそういった物の売り場だな」
「んー、数が多いしどう使えば良いか分からない物ばかりだから……」
彼女は目の前の商品棚をちらっと横目で見ながら、そう言った。
「そうか。じゃ、帰るか?」
「うん」
そうしてドラッグストアをあとにした。
来た道を2人で戻る。風は相変わらずだったが、行きと違って後から吹いてくるので楽だ。
玄関のドアを開けて、ティルテが一番に中に入る。
「ただいまー、って誰もいなかったわね」
彼女がそんなことを言って笑っている後ろで、俺は着たままの上着を服ブラシで払っていく。
「亮輔? 何やってるの?」
明らかに驚いた目で俺を見てくる。
「いや、外に出ると花粉が飛んでるだろ? 服に付いて来るからさ。ちょっとでも減らしてから部屋に入りたい」
「私もしといた方がいいかしら?」
「そうだな」
2人でブラシの掛け合い。
なにやらティルテの方が妙なテンションで、俺の服の隅々までブラシで払いまくってくる。そんな彼女のツボは時々分からない。
2人分の脱いだ上着を玄関のハンガーに掛けた。そして、ようやく俺たちはダイニングにたどり着く。
3月16日(土)PM12:05
現在の気温 16℃ 晴
買ってきた薬とスマホをテーブルに置くと、もうお昼だった。
「あぁ、やっと帰ってこられた」
「もうお昼ね、亮輔はまだ辛いだろうし、今日は私がお昼ごはん作るわ」
ティルテは腰エプロンを着けながらキッチンへ向かう。俺はその姿を目で追いながらすこしテンションを上げた。
「おっ、ティルテ様の神料理くるー」
「と言っても、パスタだけどね」
「ティルテ様の神料理ならどんなものでも」
「その、ティルテ様って言うのは恥ずかしいから止めてよ。あと、神料理も」
彼女が軽くこちらを睨んだ風だが、顔は笑っている。
「様付けなんて、あちらじゃ皆に言われているじゃないか」
「亮輔に言われるのは別なの」
「はいはい。じゃ、こっちも用意しますよ」
俺はテーブルの上を片付けて昼食のためのテーブルセッティングをする。
キッチンの様子を窺うと、トマトソースと鯖の水煮缶が出ていた。




