第26話 愛は静かに重なって
12月22日(日)AM8:55
現在の気温 6℃ 雨
翌朝、引っ越し業者がやってきた。
クローゼットは2階の俺の部屋に入れてもらった。
実はまだ余り片付いていなかったのだが、後から家族だけで上げる事なんてできないので、無理を承知で納めてもらう。
ソファーはとりあえず居間の片隅へ、ダイニングテーブルとチェアは物置で保管、パソコンデスクも分解して物置に入れておく事にした。
そして衣類をクローゼットに収めて、他の細々としたものは物置行きになった。
昼までにはあらかたの作業が終わって、物品のチェックも問題なく、引っ越し業者は帰っていった。
結局俺の部屋は元からあったタンスと新たに入ったクローゼットと荷物がひしめき、寝るスペースもないありさまになってしまった。今日の午後はこれを片付けてしまわないと、夜寝る場所がないのは確定的だ。
俺は半泣きになりながら黙々と片付けをしていった。
§
12月23日(月)AM7:02
天皇誕生日
現在の気温 3℃ 曇
なんとか布団2組分を広げるスペースだけ確保した部屋だったが、相変わらず荷物で溢れていた。
隣の布団ではティルテがまだ眠っている。
彼女を起こさないように寝床から抜け出て着替える。
壁にはマンションから持ってきたカレンダー。今日の日付に赤丸がしてある。それを見て自分のボディバッグを取って、用意した物が入っている事を確認した。
玄関から出て、門の横のポストに届いた新聞を取り込む。
今朝は上着を着ていても寒い。居間のファンヒーターを付けて、新聞に目を通す。
そういえば新聞なんて読むのも久しぶりだった。
なんだか小さい頃の事を思い出して、実家に帰ってきた事を改めて噛みしめる。
そんな風に過ごしていたら、階段を降りてくる足音がした。
居間のドアが開いて、パジャマにカーディガンを羽織ったティルテが入ってきた。
「ああ、おはようティルテ」
「おはよう亮輔……早いね」
少しあくびを噛みつつ、隣にすとんと腰掛ける彼女。
俺の方に頭をもたげて、まだなんとなく眠そうな目が半分閉じていた。
「なんかまだ眠そうだな。あんまり眠れなかった?」
「……なんだか寝付けなくて。狭かったからかな?」
「う、頑張って片付けます」
「別に同じ布団で一緒に寝ても良かったのに」
「それじゃ余計に狭いんじゃないかと思うんだ」
「亮輔がくっついてるのはまた別なんだけど」
そんな甘い会話がしばらく続いて、それでようやく目が覚めてきたのか、彼女が立ち上がる。
着替えてくると言って彼女は2階へ。そして入れ替わるように母さんが着替えて起きてきた。
「亮ちゃん、もう起きてたんだ。朝ご飯の支度するわね」
台所から響く水音。白木家の朝が始まった。
ティルテも降りてきてキッチンへ。そして最後に父さんが居間に現れた。
§
12月23日(月)PM12:46
天皇誕生日
現在の気温 8℃ 晴
家で昼ご飯を食べ終えて、父さんはどこかに出かけていった。母さんはキッチンで洗い物、ティルテは外で洗濯物を干している。俺は相変わらず部屋の片付けに精を出す。
今日はこの後、レンタカーを返しに戻ることになっている。そして夜は友達のやっているレストランで夕食の予定。
ティルテにもそれは伝えてあって、時間になった二人は少しばかりよそ行きの服に着替えてクルマに乗り込んだ。
こちらに来た時とは逆方向に高速を走る。
助手席にはティルテ。クルマの中で俺は今日訪問するレストランについて、彼女に簡単に説明をしていった。
レストランのオーナーシェフは俺の高校時代の友達で、海外でも修行をしてきたという本格派のフレンチシェフ。そして今年の1月に税理士を紹介してくれたのも彼だった事。今日はその時のお礼が半分と、あとは俺の近況報告ということ。
彼女はフランス料理と聞いて早くも目が輝いている。『アイツの料理はべらぼうに美味いから驚くなよ?』と釘を刺しておいた。
§
12月23日(月)PM4:09
天皇誕生日
現在の気温 8℃ 晴
予定通りに高速を走り抜けて、車を借りたレンタカー屋に戻った。
キーを返して、二人2日ぶりに街の喧騒の中に身を置く。
「なんだか懐かしいわ」
「本当だな、2日いなかっただけなんだけどな」
懐かしいけど、ちょっと騒々しい。そんな会話をしながら駅の方へ歩く。
そのまま二人のんびりとクリスマス色のデパートの中を見て歩くうちに時間が近づいた。地下鉄に一駅だけ乗って地上に出て、少し歩けば約束のお店。
「ここ?」
「そうだよ。彼一人でやってるんだ。大きい店は人間関係が疲れるってさ」
「まるで今日の私たちみたいね。人が多くて疲れるって」
「そうだなあ」
窓ガラス越しに中を覗くと、見覚えのある顔がオープンキッチンに立っていた。向こうも俺たちに気がついたようで、にやっと笑って手招きしてくる。
「もう入れるみたいだ」
俺はそう告げると、青色に塗られたドアを開いて彼女を店内に招き入れた。
「白木氏いらっしゃい。久しぶりだねえ」
白いコックコートに身を包んだ細身で背の高い男が、良く通る声で二人を迎え入れる。
「森君ごぶさた。1月は助かったよ、税理士の件ありがとう。おかげで万事解決したよ」
「それはそれは、お役に立てて光栄です……っと。それで白木氏の隣に立つ美しい姫君は誰だい?」
「ああ、彼女はティルテ。仕事場で知り合って、ただいまお付き合い中……だ」
「ほおー。白木氏も隅に置けませんなあ」
「いやいや茶化さないでおくれよ。森君のところに来ると調子狂うよなあ……」
「ははは。さあ、それじゃこちらのお席にどうぞ」
シェフに案内されて、お店の真ん中の席に案内された。
ティルテが壁際に、俺はその向かいに座る。
「飲み物は何にする?」
「彼女はお酒がダメだから、なにかドリンクを。俺は、そうだなあ白でグラスで出せる物ってある?」
「確か今3本あったはず。ちょっとお見せしようか」
シェフはそう言ってキッチンに引っ込むと、用意したワインクーラーに3本の白ワインを突っ込んで持ってきた。
「シャブリと、マコンと、ヴーヴレかな」
「今日はどれが合うかな?」
「ならシャブリが良いと思う。アミューズが魚介だしね」
「じゃ、それで」
ティルテには炭酸水が出されて、俺の方は先ほどのシャブリがグラスで。ワインを口に含むと、鼻に抜ける澄んだ香りが心地よかった。
そして、ティルテが少し物欲しそうにこちらを見つめている。
「ティルテも味見してみる?」
彼女は俺のグラスを手にとって、軽く傾けてほんのすこしだけ口の中へ。
「私の知ってるワインと全然違う。美味しいわね。悔しいなあ」
「悔しいって、やっぱりあんまり飲めない事がかい?」
「うん」
「お酒の飲める飲めないは体質だしなあ……」
そんな会話をして二人少ししょんぼりしていると前菜が出てきた。
「旬に入ってきてるので、ズワイガニとイカと季節の野菜をゼリーで寄せてテリーヌにしてみました。彩りに敷いたベビーリーフは多めにしたからサラダ感覚でどうぞ」
しょんぼりしていた彼女の目が再び輝く。
まったく食べる事についてはすごく熱心だ。それが彼女の良いところでもあり、俺と趣味の一番合う部分でもあり。お酒だけは残念だけれど、こんな時間を今後も大切にしたいと願う。
前菜が終わると、次はスープが出てきた。
「スープは蕪のポタージュを。今日は寒いからね、温まって下さい」
蕪とは思えない滑らかな舌触りが口の中に広がる。ティルテもこれには驚いているようだ。
「カブって、あの丸い根っこのお野菜よね?」
「そうだな。全然ざらつきがないのはすごいなこれ」
二人つるつるとスープを飲み干してしまう。やはりプロはすごいと俺たちは唸るのみだ。
スープを味わっているうちにキッチンから油の跳ねる音が聞こえて、そして香ばしく焼ける香りが漂ってきた。次は魚料理のはずだが、なにが出てくるのだろう。
「今日の魚料理はね、真鱈と白子のポワレ。アンチョビソースにしてみました。これも野菜多めで」
さっくりと香ばしく焼き上がった皮と、ふっくらと優しく香り立つ白身。白子が口の中でとろりと溶けて、ソースの一部となる。
普段と違ってティルテがなにも言わずに料理を少しずつ口に運んでいる。
俺もその気持ちは痛いほど分かるところで、とにかくハイレベルな料理が続いていた。
おそらくは彼女も同じことを考えているはず、食べ終えるのが惜しいと。
そして先ほどから気になっているのが、シェフが『野菜多め』を強調してくることだ。肉料理でなにか変わり種を用意しているに違いなかった。
シェフが最後の皿を繰り出してきた。
「肉料理は、野鴨のロティ。サルミソースで。野鴨は野生の鴨のことですね。弾が残ってるかも知れないので、食べるとき少し気をつけて」
俺も彼女も、皿を見つめたまま止まってしまった。見た目からして濃厚な、焦げ茶色のソースがたっぷり掛かった鴨の肉のスライスだけが、バラの花のような形で皿に盛られている。
「……シェフ。これさ、ワインは何が良いと思う?」
「料理がしっかり濃いからね……ローヌかブルゴーニュか。なにかあったかな? ボトルを開けるのならなんでもあるけど」
「いや、開けても飲みきれないし。帰りは電車で帰るからさ」
「じゃあグラスだね……彼女さんの分も口直し用に少しだけ出しますよ」
シェフはそう言うと赤ワイン用の少し大ぶりなグラスと、飲みかけのワインボトルを1本出してきた。
「良い具合にブルゴーニュのプルミエがありました」
二つのグラスに透明感のある濃い赤の液体が注がれていく。
俺たちは注がれるワインを横目に料理の方に取りかかった。
鴨肉はしっとりと軟らかく、噛むたびに味が沁みだしてくる。
そこにソースの濃厚なコクが合わさって口の中でほぐれていく感覚。案外ワイン無しでも行けるかなと思ってしまうのだが、そこでワインを一口含むと世界が一変した。
それまで口の中いっぱいに占領していた濃厚な余韻が全て消え失せて、新たな次の一口が無性に欲しくなる。ワインのマジック。
ゆっくり味わいたいのだけれど、それをさせてくれないこの組み合わせに、俺もティルテも心の中で嬉しい悲鳴を上げていた。
§
「……そうか、白木氏実家に戻ったのか。ご両親は元気にされてるの?」
森君がデザートの支度をしながら尋ねてきた。
「ああ、親は二人とも元気だよ。いや、前の仕事辞めちゃったからさ。それでとりあえず一昨日から実家暮らしなんだ」
「彼女さんは?」
「……実は同居してる」
「おいおい。なにそれ大丈夫?」
うわずった森君の声が響く。
「今は他の仕事してて、彼女と二人で飛び回ってるから部屋借りててもそこで生活してなかったんだよ。だからもう実家で良いかーって」
「それじゃ彼女さん……ティルテさん、でしたっけ、白木氏の実家暮らしじゃ抵抗感あるんじゃないですか?」
「いえ、亮輔さんのご両親にとても良くしていただいているので、不安はないですね」
「そうですか。白木氏は頼りになるし優しいし、親友の僕から見てもいい男だから、安心して付いて行ったら良いと思いますよ」
「そうですね。本当に頼りになる人で、私いつも助けてもらってばかりで」
そんな会話を3人でしていたら、デザートができてきた。
「まず彼女さんの方は、洋梨のグラタンですね。カットした洋梨をサバイヨンの上に乗せて、オーブンで焼いてあります」
「――それから白木氏の方は、タルトタタン。リンゴを煮込んで生地に乗せて焼き上げてあります」
「……お飲み物はどうします?コーヒー?紅茶?」
「「紅茶で」」
期せずして二人ハモってしまった。
シェフの目元が優しく微笑んだ。
§
二人、デザートを食べながら紅茶を啜る。
俺は隣のイスに置いていたボディバッグからラッピングを取り出して、彼女の前に置いた。
彼女に尋ねられる前に、口を開く。
「ティルテ、受け取って欲しい物がある」
そう言ってラッピングを彼女の目の前で解いて、小箱を出す。
小箱の中にはリングが一つ。
「指輪?」
「そう。婚約指輪。これは俺から君への意志を形にしたもの」
「……一生、君を大切に守ります。その証に、どうか受け取って下さい」
彼女がゆっくりと指輪を手に取り、柔らかな表情で眺める。
「俺が君に付けようか、貸してもらえるかな?」
指輪はいったん俺の手に渡り、そして彼女の左手薬指へ。
期せずして背後から拍手が聞こえた。
「おめでとうございます」
俺と彼女はちょっと照れた表情で答えた。
「「ありがとうございます」」
クリスマス直前の夜は、親友の祝福に温かく包まれて更けていく。




