第2話 異世界の女神
(前の会社の支払調書、っと。こっちはなんだ?……)
俺は居間の片隅でデスクに座って、書類整理をしている。
異世界を救うために魔物討伐を始めて早半年だが、現代世界では俺は無職だ。だから会社勤めだった去年までと違って、今年は確定申告を自力でこなさなければならない。
今日はそのために溜まった書類を整理する日、とそう決めていたのだが……。
「参ったな、全然分からないぞこれ」
独り言が口をついて出た。
「さっきからうんうん唸って、何やってるのかしら?」
「え? 確定申告の準備だよ、これやっておかないと、あとから払わないで良いお金まで支払う羽目に……って、うわ!」
俺が驚いて振り向くと、そこにはティルテが驚いた顔をして、すこしたじろいだ様子で立っていた。
「人の顔見て驚かないでよ。失礼ね」
ちょっと怒った顔になって抗議してくる。
「……いや、すまないティルテ。近くに来てるの気づかなかったから驚いたんだ」
彼女は振り向いた俺の脇を交わすように身を乗り出して、デスクに広げた書類を見に来る。
「……すごく、面倒くさそう」
そう言いながら眉をひそめる彼女と、それを見つめたまま固まっている俺。
「……お察しの通り、面倒くさいです。すごく」
虚無の時間が数秒流れ、彼女はすぐそばのソファに腰を下ろした。
俺も書類やらレシートやらをそのままにして、デスクを立つ。
「あれ? 続けなくて良いの?」
ソファーに腰掛けた彼女が、きょとんとした目でこちらを見ながら話しかけてきた。
「ああ、なんかどっと疲れた……。それに実際に手続きとかするのは来年の2月頃だし」
「じゃ、お疲れさまでしたって事で、お茶、入れるわね」
「ありがとう」
彼女はそう言うとソファーから体を起こして、キッチンに消えた。
よく見ると彼女の衣装はいつもの女神服のままだ。今こっちに来たばかりだったのかと思うと、さっき驚かせてしまった事がますますすまなく思えた。
「亮輔、できたよー」
「今行く」
ダイニングに入ると、女神服にエプロン姿の彼女が紅茶のポットをテーブルに出してきたところだった。
カップがそれぞれのイスの前に1つずつと、クッキーをのせた皿が1つテーブルの真ん中に置かれていた。
そこに湯気をふわりと立てて、紅茶が注がれる。
「いただきます」
俺はそう呟いて、まだ熱々の紅茶をひと啜りした。
鼻の奥からふんわり香る、熟成の効いた紅茶の匂いが、少し疲れ気味だった気持ちを和らげてくれる。
彼女はといえば、やはり同じように紅茶に口を付けて少しずつ啜っている。
そんな様子を見ながら、ふと思う。
(魔物討伐が早半年ってことは、ティルテと共に行動するようになってから半年ってことか)
俺はちょうど半年前のことを思い出しながら、少し笑みを浮かべた。
「なに笑ってるのかしら?」
俺のそんな様子に気づいたらしい。
「いや、ティルテと俺が出会って、もう半年になるなと」
「こちらの時間じゃ、そんなになるのね」
「早いような、そうでもないような感じだけどな」
思えば最初の出会いはなかなか強烈だった。
§
俺はゴールデンウイークの真っ只中だった5月1日の朝、どうしても面倒を見なければならなかった研究室のインキュベーターの様子を見るために出勤しようとしていた。
いつものように玄関に立ててある姿見を覗き込んだとき、そこに映っていたのは俺と、なぜかもう一人、女性が。
俺はとっさに後ろを振り返ったが誰もいなかった。
ヤバいモノを見たという焦りで高鳴る鼓動。数回深呼吸をして鼓動を抑えると、もう一度ゆっくりと鏡の方を向いた。
するとやはりもう一人、確実に鏡の中にそれはいた。
これからなにが起こるのかわからないまま、俺は鏡の中に立つもう一人を凝視していた。
女性の姿をしたそれは、ギリシャ神話風の衣装を身に纏っていて、ウェーブの掛かった栗色のロングヘアーをしていた。
そのうち向こうもこちらに気がついたのか、鏡の中の姿が大きくなってきた。そうして普通に戸口をくぐるように、自然に鏡の中から出てきた。
開口一番、彼女が言った言葉はまだ今も鮮明に覚えている。
「あなたは勇者に選ばれました。これからわたくしたちの世界を救っていただきます」
さすがにこれには俺も二の句が継げず、彼女の方を見たまま固まっていた。
そんな俺を見つめたまま、一礼をして彼女が続けた。
「勇者様、ご挨拶が遅れました。私はティルテ、女神をしています」
俺が変わらず固まっていると、彼女は一方的に話を続けていった。
「それでですね、勇者様には今から私たちの世界に来ていただきたいのです。いろいろな準備はあちらの方で整っていますので、勇者様はそのまま来ていただいて大丈夫ですので。あ、戦うとケガとかされると思うんですけれど、私が万全なサポートをしますので、万が一死んでしまっても大丈夫です。きちんと復活させます。それから、少なくない報酬もお支払いします。あと、こちらの暦で週末はお休みになりますね。週休2日?と言うんでしょうか、とりあえずそのような感じで。そのお休みの日だけは勇者様の世界へ戻ってくることもできますので」
と、一気にまくし立てたせいか彼女は息が切れたらしく、次の言葉が続かない。
固まったまま話を聞いていた俺だったが、最後の一言が気になった。
「あの、ティルテさん、だったっけ?」
「は、はいっ」
「ちょっと聞いてもいいかな?」
「はい、なんなりと」
「週休2日で、休みの日はこっちに戻ってこれるって、今そう言ったよね?」
「はいそうですね」
「あなたの世界に行きっぱなしになる訳ではないんだ?」
「そうですね。戦いのない日はこちらに自由に戻っていただけます。もちろん、私がご案内しますけど」
「戦うのは、週末じゃなくて平日って事かな?」
「そうですね、こちらの暦に照らし合わせると、そういう事になりますね」
とっさに変な質問をしてしまったと、心の中で天を仰いだが仕方がない。とはいえ、平日に戦うって事は会社はどうするんだ?ということに気がついた。
「あ、あのさ。俺はこっちの生活があって、仕事もある。平日を戦いにあてると仕事ができないんだけど?」
「ええ、ですから報酬はしっかりお支払いしますので」
いや聞きたいのはそういう事じゃなくって、というかむしろさっさとお断りして解放して欲しかったのだけれど。
「それに、俺は戦ったこととかないから。いきなり頼まれても困るんだけど」
「大丈夫です。そこらへん、私がばっちりサポートしますので。死んでも平気ですよ?……まあ塵にでもなられるとちょっと困ってしまいますけど」
「……いや、塵にはなりたくないんですが。というか、なんで俺なんですか?」
俺がこう言うと、彼女は少し困ったような顔をして答えた。
「……なんでと言われましても、少し困るのですけれど。選ばれた、としかお答えできかねますし」
返事が少し途切れた。
俺は思い出したように腕時計を見ると、会社行きのバスの時刻まであと5分もなかった。
「と、とりあえず。俺今から会社に行かないといけないので、話の続きは帰ってきてからでもいい?」
「いえっ、あの、できれば即決でお願いしたいのですけれど」
「いや、突然現れてそう言われても俺も困るし。帰ってくるまでうちで寛いでいてもらって構わないから。お昼には帰ってくるから」
そう言って彼女の脇を強引にすり抜けて玄関を出た。
バス停まではダッシュで2分、ギリギリだったがなんとか間に合った。
会社へ向かうバスに揺られながら、今起きたことは夢だと自分に言い聞かせていた。
§
11月4日(日)PM3:19
現在の気温 17℃ 曇
「で、結局断り切れなかったのよね?」
すっかり寛ぎモードに入ったティルテが、クッキーをかじりながら話す。
「そうなんだよな。断る糸口がなかったと言うべきか」
「亮輔としても、なにか人生を変えてみたかったとか、そんな思いがあったんじゃないかしら?」
彼女が少し意地悪そうな顔をした。
「確かにあの頃は仕事もちょっと行き詰まってたしな……。それにしても突飛な選択だったと自分でも思うけど」
「結果としてはどうなのかしら? 今の状況で満足してるの?」
「そうだな。悪くはないと思ってるよ。危ないことがない訳じゃないけど、それでも会社勤めよりは楽しいし」
「そう、それは良かったわ。やっぱり亮輔を見込んで正解だった」
彼女はそう言って紅茶をもうひと啜りする。俺も釣られて啜ると、一つ彼女に質問をぶつけることにした。
「なあティルテ。今まで結局答えてもらってないんだけどさ、俺が選ばれた理由ってなに?」
彼女のカップを持つ手が止まる。
この質問をすると、彼女は決まって挙動不審になるのだが、今回もやはりおかしい。
「いい加減答えてくれても良いと思うんだけど」
ちょっとしつこく聞いてみる。
「……世の中にはね、答えのないことも多いのよ」
「なんだそれ、答えになってないよ」
「……察しろ……」
「え? 聞こえない」
彼女の顔が赤くなる。こんどは俺がいたずらな顔をする番だ。
結局今回も答えは聞き出せず、彼女と二人の休日は穏やかに過ぎていった。