第11話 決心
8月3日(土)PM2:13
現在の気温 33℃ 晴
俺はソファーにもたれながら、スマホの画面をじっと見ていた。
ベランダに干した洗濯物の影が、視界の片隅で風に揺れる。
梅雨もとうに明けて真夏になっていた。
結局6月に続き7月も臨時出動が相次ぎ、休みらしい休みのない状況に変わりはなかった。そんな中、俺とティルテは効率の良い戦い方を実戦の中で模索していた。
その効果は徐々にではあるが現れていて、戦闘時間のむやみな延長は少なくなりつつある。
その一方で、魔物の急激な増加と強化に対して、これまでとは違う事が人知れず起こっているのではないかという考えにも至った。
そちらの方は彼女が持ち前の機動力を生かして、魔物討伐が行われている現場たる彼女の世界、トゥアサ世界での調査を進めるということになった。
そんなわけで、俺は久しぶりに独り身の週末を過ごしている。
今日は朝から順調に家事をこなして、この時間はもうすっかり寛ぎモードに入っていた。
特にやることもなくだらだらしながらスマホの画面を手繰るが、独りでいる事が落ち着かないのか、拭えない違和感が朝からまとわりついていた。
そしてふと、いつもより少し豪華に夕食を用意しようと思い立った。
今も異界の地で一人奮闘している彼女が戻ってきたときのために。
「なにを作るかなあ」
最近は時間もないせいで、俺も彼女もろくなものを食べていなかった。だからこういう日くらいきちんとしたものを食べておきたい、とは思う。
彼女が好んで食べるものを思い浮かべてみる。割と洋食系が多い気がする。
(真夏だしやっぱり豪快に行こう)
スマホの画面を睨みながら洋食メニューにすることに決めて、まずは野菜をしっかり摂れるメニューを探す。
夏野菜でラタトゥイユ、というのが目に付いた。これなら野菜をザクに切ってスープで煮込んでトマト缶を入れればできあがるから、簡単で良さそうだ。
サブはそれで良いとして、メインはがっつりと肉にしたい。シンプルに肉を焼くことにして、少し目先を変えてビステッカにすることにした。
それから付け合わせとして彼女の大好きなキャラットラペも作ろうと思う。
冷蔵庫にはニンジンとタマネギくらいしか材料がなかったので、買い出しに出かけることにした。
最寄りのスーパーまでは歩いて10分。
じりじりと夏の太陽が照りつけるアスファルトの上を、黙々と歩く。
風もなく、ひたすら鉄板の上で炙られるような熱気がまとわりつく。
スーパーにたどり着いた頃には汗がにじんでいた。
しっかりとクーラーの効いた店内は極楽だ。買い物カートを軽快にコロコロと転がしながら、メモに書いた食材をピックアップしていく。
野菜コーナー、魚介コーナー、精肉コーナー、順番に売り場の外周を回っていく。
欲しかった物を一通りカゴに入れてから、メモにはなかった保存食も少し買い込んでおこうと思い立った。
『かんたん冷製コーンクリームスープ』
そんな文字が見えて立ち止まる。
(へえ、こんなものまであるのか)
冷たい牛乳で作る冷製スープのインスタントだ。
ティルテは討伐の時に初めて飲んでから、インスタントのコーンスープがお気に入りになっていた。それ以来、討伐の荷物にコーンスープは定番になっている。
討伐用にホットのコーンスープをいくつかと、その冷製コーンスープを一つ買い物かごに入れた。
§
8月3日(土)PM3:31
現在の気温 32℃ 晴
汗だくで帰宅したあと、買ってきた食材の仕分けを終えて、リビングのソファーに体を沈める。
再びゆるゆるとスマホを見ながら過ぎる時間。彼女が帰ってくるのはいつになるだろうか。そろそろ下ごしらえでもはじめようか。
そんな事を考えていたら、スマホが鳴った。
母さんからの電話だった。
「もしもし?」
「あ、亮ちゃん。いたいた。今電話大丈夫?」
「なんか用だった?」
「今年のお盆休み、帰ってくるかどうか聞きたくて」
そういえば、去年は討伐に掛かりきりで、お盆も年末も帰省は一度もしていなかった。
「去年のお盆休みも、年末のお休みも帰ってきてないでしょあなた。たまには父さんにも顔を見せなさいよ」
「ごめん。仕事忙しくてさ……、今年は……なんとか調整してみる」
「うんうん。それからね亮輔、あの彼女さんとはまだお付き合いしてるの?」
「え、あ、あぁ、年末に会わせたティルテのことだろ? まだしてる」
「そう。それで、進展はどうなのよ?」
「え? なにの」
「はあ? 進展って言ったら一つしかないでしょう。お付き合いは続いてるのは分かったけれど、そこから先よ。結婚とか、そういうお話は出てきてないの?」
「い、いや。そこまでは」
電話口で微かに溜息の漏れる音がする。
「亮輔。あなたもうちょっとシャキッとしなさい。もういい歳なんだって自覚もあるでしょうに」
「や、いや」
「それにね亮ちゃん。ティルテさんがそうやってあなたと付き合い続けてるっていうことは、彼女もそれなりに亮ちゃんに惹かれているってことだからね。もうちょっと彼女の気持ちも分かってあげなさい」
「し、仕事がお互い忙しいからさ、なかなかそういう話ができないっていうかさ」
「そういう言い方をするってことは、二人の関係自体は良好って理解しといていいの?」
「ああ、まあ、多分……」
「多分って……情けないわね。そろそろはっきりさせなさいよ? 彼女の気持ちも立場もあるだろうから、無理にとは言えないけれど」
「……わかった」
「じゃあ、帰ってくる日取りが決まったら連絡ちょうだいね?」
「ああ、分かったらまた電話するよ、母さん」
突然に掛かってきた母さんからの電話は、一陣の疾風のように去って行った。
「はあ……」
なんとは無しに、溜息が漏れた。
(ティルテの、気持ち、か)
正直なところ、彼女の気持ちはこれっぽっちも分かっていなかった。
逆に俺自身の気持ちはどうなのか、それすらも。
§
8月3日(土)PM4:07
現在の気温 32℃ 晴
ラタトゥイユに使う野菜を切りながら考える。
ティルテがどう思っているかは分からないが、俺自身の気持ちは俺にしか分からない。
人間と女神という立場の差は超えられないのかも知れないけれど、すごく単純に好きか、嫌いかと言えば答えは間違いなく好き、だ。
去年の夏頃、不慣れな討伐に度重なる戦闘で、とてもそんな感情を持つ余裕はなかった。
秋になって多少余裕が出てきた頃には、24時間隣に彼女がいるのが当たり前になっていた。
そして、冬になって少しだけ一人の時間ができた。
……その時初めて、心の中に妙な引っかかりが生まれたのを感じた。
萌芽は多分、それ以前からあったのだろうとは思う。ただ俺自身が気づかなかっただけで。
それから、桜の下、不意に感じた動悸。
最後に、今日のこの不快な欠乏感。
「……やっぱりこれは、どう考えても」
以前会社に勤めていたとき、それから学生だった頃、それぞれに彼女と呼べそうな人はいた。だから、程度の差はあれ恋に落ちたときの自身の感覚というのは分かっている。そして、これはやはりきちんと彼女に伝えなければならない事だと、強く確信していた。
だが結局その日、彼女は帰ってこなかった。
そしてその次の日も。
§
「おはよう、亮輔」
「……おはよう、ティルテ」
ティルテの優しい声で目が覚めた。
薄暗い寝室を背景にして、俺の目の前に彼女の栗色の髪が広がった。
8月5日(月)AM7:01
現在の気温 28℃ 曇時々雨
俺はベッドから上体だけ起こして、彼女と目を合わせる。
「もう月曜日か。ティルテ、今回は時間に余裕あるかな?」
「そうね。今のところ魔物は発生してないわね」
「それじゃ、朝ご飯、一緒に食べてから出ないか?」
「え?」
突然の俺の申し出に驚きを隠さない彼女。俺は続けて訳を話す。
「実はさ、ティルテが帰ってきたら一緒に食べようかと、用意してた分があるんだ」
「あー……、ごめんね、そんな事とは知らなかったから」
「いや、いいんだ。ティルテが無事に帰ってきてくれたのなら、それで」
俺はそこまで言って、洗面所に向かった。
パジャマのまま顔を洗って身だしなみを整える。着替えは、どうせこのあと討伐に出動するのだし、その時で良いかと思った。
ダイニングに戻ると、彼女が定位置の椅子に座ってこちらを見ていた。俺はその横を通り過ぎ、冷蔵庫に入れておいたキャロットラペとラタトゥイユの容器を取り出してテーブルに並べる。
「あ、キャロットラペ」
彼女の顔がひときわ明るく映える。
「ティルテはこれが大好きだっただろ?あと赤い方はラタトゥイユといって、夏の野菜をブイヨンとトマトソースで煮たものだよ」
「綺麗な赤ね」
「そうだな。今お皿を出すから先に食べてていいよ。パンとか食べるだろ?」
「あ、食器くらいは私が出すわ。あと、パンはお願い」
席を立った彼女が食器を戸棚から出していく。
一方俺は冷蔵庫の前で少し思案していた。さすがに朝っぱらから肉を焼くわけにもいかないしとか考えていたが、オムレツでも焼けばいいかと思い立つ。
冷蔵庫を開けて、卵を4つとバターを。冷凍庫からは食パンを2枚。
食パンはラップのままレンジで温める。
その隙に卵をボウルに割って、ちゃっちゃと混ぜる。
いつもの黒いフライパンをIHコンロに掛けて、加熱。バターを落としてオムレツを焼き始めた。
二人分のオムレツを焼き上げて、ダイニングテーブルへ。紅茶を注いだ2つのマグカップと一緒に彼女が待っている。
「お待たせ。メインはオムレツにした」
「いい香り。ちゃんとした朝ご飯ってほんとう久しぶりよね」
「ここ3ヶ月はまともに作って食べてる時間もなかったもんな」
「それじゃさっそく」
「「いただきます」」
オムレツからバターの甘く香ばしい香りがふわっと漂う。
彼女はオムレツを一口含んで頷いたかと思うと、さっそくキャロットラペをお皿にどっさり取っていた。俺はラタトゥイユの出来具合を確かめつつ、トーストと交互に味わう。
そのうち二人ともあらかた食べ終わり、揃って紅茶を啜っていた。
なんとなくのんびりとした空気。
これからまた戦いが待っているとは、とても思えないような。
ごちそうさまを言う前に、口を開いたのは俺だ。
「ティルテ、ちょっと頼みがあるんだが」
「なあに?」
彼女の目が真正面から俺を見つめる。
「来週さ、平日で3日間、休みが欲しいんだ」
「何かあるの?」
「実家に行きたい」
「そう」
「母さんから電話があってさ。去年一度も帰ってないし、たまには帰ってきてと」
「お母様って、去年の冬に会った方よね」
彼女の視線が少し下に下がる。
「そうだよ」
「……ちょっと考えさせてもらってもいいかしら?討伐に穴が空くのも困るし」
「そうだよな、それは重要だ」
二人揃って残りの紅茶も飲み干して、ごちそうさまを言って朝食は終わった。
俺が食器を片付けている間に、彼女は残った料理をパックし直して冷凍庫へ納める。
本当なら彼女を連れて実家に行ければ最上だとは思ったが、まだお付き合いにすら進展していない関係では、俺から言える事はない気がした。
とりあえず休みさえ貰えれば、今の状況なら上出来だろう。
8月5日(月)AM9:44
現在の気温 29℃ 曇時々雨
それから、俺は鎧に着替えて装備を整えて、二人で玄関の姿見に立つ。
「亮輔、用意はいい?」
「ああ。行こうか」
俺はいつもと同じように、ティルテに導かれて鏡をくぐった。