第10話 夏のボーナス
地獄の始まりだった5月、そして地獄のまっただ中だった6月。
俺たちはろくに休みのないまま地獄の2月を乗り越え、ほぼ1ヶ月ぶりにまともな休みにありついた。
相変わらず魔物の侵攻は止むところがなかった。
複数箇所への同時出現はもはや日常になってしまい、一息つく間もなかなか得られなくなりつつある。
敵の数の増加は頭打ちになったようだが、その代わり敵の強さが全体的に底上げされてきたように感じる。とはいえ、1撫でが2撫でに増えたくらいで、少しばかり手間が増えた程度だが。
その一方で、いくらか剣を交えなければならない敵も比例して増えてはいるので、討伐に掛かる時間は相変わらず延びている。
このペースで敵が固くなると、夏を過ぎる頃にはいよいよ不味いことになりそうな予感がしていた。
さておき、久しぶりのまともな休暇だ。
家事も何もかも溜まっているので、この2日できっちり片付けるぞとティルテと一緒に打ち合わせていたところだ。
朝食は女神様ご飯で既に済ませた。
掃除と片付けは俺の分担で、洗濯は彼女が。それから対外的な色々はもちろん俺がやる。
掃除は手早く終わらせて、今彼女は洗濯中だ。
そんなわけで、俺は今銀行のATMコーナーに来ていた。
実は5月6月の分は言うに及ばず、4月分も連休との絡みで記帳できていなかった。
なのでまたいつぞやのように、とんでもない金額になっているんだろうなと期待と怖さがない交ぜになった妙な気分だ。
通帳をATMに吸い込ませる。3ヶ月分の入金と、引き落としの数々。印字される甲高い音が他に誰もいないATMコーナーにこだまする。
吐き出された通帳を、今日は確認しないままバッグにしまい込んだ。たぶんまたとんでもない金額になっているのは間違いないので、気分としては『もうどうにでもなれ』だ。
§
7月6日(土)AM11:49
現在の気温 32℃ 曇
「ただいま」
「おかえりなさい」
薄緑色をした七分袖Tシャツと七分丈ブルーデニムという装いの彼女が、ちょうど洗濯物を取り出しているところだった。
「ねえ亮輔、乾燥機は下着とタオルと?」
「あとはパジャマくらいかな。服はハンガーに掛けてくれ」
まだまだ梅雨の時期で、洗濯物はあらかた部屋干しだ。乾燥機があるのが幸いだった。
彼女が洗濯物をリビングにあるパイプハンガーに引っかけていく。
俺はそれを見て、お茶を入れようとキッチンでお湯を沸かし始めた。
「ティルテ、お茶入れるけど、ホットとアイスどっちがいいかな?」
「んー、ちょっと蒸し暑いし、アイスがいいかな」
「了解」
戸棚からオレンジ色の缶を取り出して、紅茶の用意。
彼女は洗濯を終えてダイニングに戻ってきた。
「おつかれ、今アイスティー入れるから、もうちょっと待っててくれ」
アイスティーは濃さが命。
ホットの時は使わない茶葉をたっぷり使って、蒸らし時間もいつもよりずっと長めだ。
氷が冷蔵庫の角氷しかないのは仕方ないが、背の高いグラスからはみ出すほどに盛った氷の上から、深紅の液体を垂らす。
湯気を立てながら溶け落ちる氷。
戸棚の上の方からガムシロップを探し当て、ストローと一緒に食卓へ。
「おまたせ」
「わ、綺麗な色」
「とっておきの茶葉でございます。お好みでシロップを」
「なあに、そのもったいぶった言い方」
彼女の明るい笑顔がこぼれた。俺もその笑顔につられて笑う。
労働のあとの束の間の休息。ゆるりとした空気が流れた。
「ああそうだ、通帳を確認しなきゃな」
リビングに置いておいたバッグから通帳を取り出して、飲みかけたアイスティーの前にもう一度陣取る。
「……うぁ……」
思わず声が漏れる。
4月、5月の分は予想の範囲内だったが、6月分が去年の12月以上の事になっていた。
「……分かってたこととは言え、これは別の意味で酷いな」
彼女も通帳を覗き込んでくる。
俺は彼女にも分かるように指差しで数字を確認しながら話す。
「ここが4月分で、その3つ下のここが5月分。どちらも7桁ある」
さらに言葉を続けた。
「それで、ここが6月分だ。8桁あるだろう? 5月分のざっと7倍くらいはあるかな」
彼女は通帳の数字を目で追いかけているようだが、やはり今ひとつピンと来ないようで無言のままだ。
「ティルテさんまだイマイチ分かっていないみたいだな。別の言い方をすると、この6月分だけで家が一軒建つ、と言えば分かるかい?」
そこでやっと彼女の表情が変わって、眉をひそめてきた。どうやらようやく合点がいったらしい。
「……それなりに凄い金額だったのね」
「そうだよ。やっと理解してくれたか」
結局、6月分はやはりボーナス込みの金額で、去年12月と比べても3倍くらいに膨れあがっていた。
この2ヶ月は確かに休みなく剣を振るっていた感覚はあるが、俺自身としてはボーナス込みで3倍いただける程とは思えていないのだが。
「それでさ、ティルテ」
「なあに?」
「今後の討伐のこと」
ストローでアイスティーを回す彼女の表情に、少し陰りがよぎる。多分彼女もこの状況に思うところがあるんだろう。
「俺が戦っているすぐ傍で見てるから、もう分かっているとは思うんだが」
「……魔物が強くなってきてるわね」
「そう。数も増えちゃいるが、そっちはあんまり問題じゃない。ティルテの言うとおり敵の固さが上がってきてるし、強さもだ」
「亮輔はどう考えているの?」
「この調子で固さ、強さが上がっていくとするなら、おそらくこの夏のどこかで抑えきれなくなるんじゃないか、と思ってる」
彼女は黙ったまま、ストローを回し続けている。多分考えていたことは同じだ。
俺は言葉を続ける。
「俺のこの力、この1年で剣や体の捌きこそ多少マシにはなったが、基本的に変わっていない。ということは、このまま押し切られてしまう可能性が高いと思う」
「――力の成長が得られるトレーニングなり、新しい武器なり、何かがあれば良いんだけどな」
「……鍛錬で魔力や魔術が強くなるというお話は、聞いていないわ。残念だけど」
「そうか……」
重苦しい空気が俺たちを包む。
二人とも無言のまま、時間が無為に流れていく。
俺は頭の後ろで手を組んで天井を見上げ、彼女はグラスを両手で軽く掴んで俯いたままだ。
そのグラスの氷が『カロン』と音を立てて、二人を現実に引き戻す。
テーブルの上のアイスティーは2つともすっかり薄くなってしまった。
俺は自分のグラスを手に立ち上がって、彼女のグラスにもそっと手を伸ばす。
彼女がこくりと、ほんの少し頷く。そのまま2つのグラスを手にして、俺はキッチンへと入っていった。
グラスを洗って、ストローはゴミ箱へ。
彼女はうつむいたままダイニングチェアに腰掛けて動こうとしない。
俺は台ふきを手に、グラスの雫で濡れてしまったテーブルを拭きに掛かる。
その俺の手首を、彼女の白い指が握りしめた。
その手は、少し、震えていた。
「……」
か細い声で、彼女の声がする。俺は腰を落として膝をつき、彼女の目線に降りる。
彼女の声が、ようやく届いた。
「……ごめん、なさい……」
俺は彼女の目の前に相対しながらも、できるだけ優しい目をして、黙って聞く。
「……亮輔は、よく、戦ってくれてる。私が思っていた以上のことも、してくれてる。本当は、もっとありがとうって、言わなくちゃいけなかった……のに……」
「……こんな、先の見えた勝てない、戦いに巻き込んでしまって……私のわがままで……本当に、ごめんなさい」
彼女は時々嗚咽を漏らしながら声を絞る。
俺の右手の甲には、反射して光る珠が2つ、3つ、4つ。
声が途切れて、再び沈黙が辺りを支配した。
俺は空いている左手をゆっくりと彼女の背に回して言う。
「ティルテ、聞いてくれ。謝らなくていい。ティルテの戦いに手を貸すと決めたのは他でもない俺だから。だから、謝らないでくれ」
「……でも」
「それに、今すぐ負けると決まったわけじゃない。実際こうやってお茶をするだけの余裕がまだあるんだ。戦い方も、工夫するべき事は多いはずだ」
「……」
「負けるわけに行かない戦いなのは、俺も重々分かってるさ。だから、俺を信じてくれ。俺も、ティルテを信じてる」
彼女が椅子に座ったまま、体を捻って俺の肩の上に顔を預けてきた。
俺は優しく彼女の肩を抱き寄せる。肩越しに微かなすすり泣きが聞こえてくる。
『ありがとう』と微かな声が聞こえた気がした。