八月の出来事B面・⑧
満天の星空だった。
「東京とは言っても、まだまだ星が見えるもンね」
由美子が背伸びをするようにして言った。
「まあガッコの周りは、雑木林だから」
振り返ると中肉中背の人影が立っていた。暗い中で白目だけが星明りを反射して目立っている。暗闇の中に一層濃い黒としてしか認識できないが、声からして孝之に間違いない。
「都心なんかだと一等星もあやしいけど、これだけ暗ければね」
「残念なのは大学の方ね」
由美子は長めの髪を揺らして西の方を見た。そちらには清隆大学の理系学部があり、不夜城の如く活動していた。
おかげで建物からは明かりが漏れ、さらに周囲の道には街灯が皓々と点いている。
西方上空を見る分にはあまり邪魔にならないのだが、沈んでいく星を狙おうとすると望遠鏡に光が入ってしまう。まあ武蔵野とは言っても東京で、これだけの夜空を堪能出来ているのだから、少しぐらいの不自由は我慢するべきだろう。
由美子は改めて周囲を見回した。
観測会を行っているのは高等部C棟の屋上である。
南側に一階層高いB棟があるが、どうやら防犯上の理由なのか、立ち入ってはいけないようだ。おかげで折角の星空も、南側が少し見えづらい。しかし西側から差す大学からの明かりと合わせても、及第点の星空であった。
屋上では、天文部は大きく三つに分かれて活動していた。
一つは地学科準備室から引っ張り出した望遠鏡による観測隊である。由美子も先程そこに混ざって、念願の一つだった木星を見る事ができた。もう一つの土星が観測に適した時刻になるのは、もうしばらくかかるらしい。
一つはどこかから持ってきたマットレスを敷いて、そこへ寝転がっての観測隊である。真ん中にピラミッド形の置物を置いて放射状に寝転がる姿は、新興宗教の儀式と間違えられてもおかしくない姿だった。
そちらは流星…、流れ星の観測を行っているらしい。たまに時刻と方角、個数を申告する声が上がる。
最後の一つは、いま由美子が混じっている観測隊、肉眼による星の観測である。
平たく言えば星を眺めてまったりする集団だ。もちろん他の二隊に交代要員を派遣するという重要な任務があるが、実態は雑談をしているただの集団だ。
「あそこに見えるバッテンは、はくちょう座ね。先っぽの明るい星がデネブ。一等星。その縦軸の反対側がアルビレオ。肉眼だとはっきりしないけど、双眼鏡程度でオレンジと青の二連星だということが分かるよ」
何代か前の部長と紹介されたガリガリに痩せた男らしい人影が、夜空を指差していた。言われたとおりの場所に、たしかに十字に星が並んでいる。
「あの『銀河鉄道の夜』にも出て来る星で、とてもきれいなんだ」
どうやらこのOBはアルビレオ推しのようだ。
まあ教科書で習ったぐらいの知識しかない由美子にとっては、ありがたい解説である。他にも、はくちょう座に関連して、七夕で有名な織姫(こと座のベガ)と彦星(わし座のアルタイル)も教えてもらった。
「哲郎。あの銀河超特急に乗るのです」
「それは別の銀河鉄道だろ」
誰かがしたお約束のボケに、誰かがツッコミを入れていた。
由美子の見上げている星空に、一筋よぎる物があった。
「あっ」
すぐに寝転がっている流星観測隊から報告が上がる。
それと同時に、横にいたOGの一人が「カネ! カネ! カネ!」と声を上げたのにはビックリした。
「ん? 知らないの?」
横に来た人影が、孝之の声で語る。
「流れ星に願いを三回唱えると、叶うっていう話し」
「あ~」
そういえば、そんなロマンチックな話を耳にしたことがあった。孝之は苦笑したような雰囲気を出した後に解説を続けてくれた。
「でもね、流れ星って長くてコンマ二秒しか光ってないんだ。だから我が天文部は、コンマ二秒で唱えられる願いを吟味した結果、叶いそうな願いは、お金が欲しいという意味で、カネカネカネと三回唱えるという伝統が…。あれ? どうしたの藤原さん。頭抱えて」
「いや、ちょっと目眩がした気が…」
「下に降りて休む?」
孝之の気遣いを受け、由美子は少し考えた。東京の熱帯夜はジッとしていても暑いので、喉が渇いてきたような気もする。
「そうね。抜けても大丈夫かしら?」
「地学室まで案内するよ」
そう言って孝之は、他の部員に声をかけた後に、屋上の端に建っているペントハウスの方へ由美子を案内してくれた。
出入口はサッシになっていた。ペントハウス内にある電源を切れない誘導灯非常灯の類が観測の邪魔にならないようにと、光を遮るための暗幕で出入口は覆ってあった。
端っこの方だけ捲ってくれた暗幕をくぐり抜け、由美子は階段室へと入った。孝之も続いて来る。
サッシを閉じる瞬間にも複数の人物が「カネ! カネ! カネ!」と叫び声を上げていた。
「意外と多いンだな。流れ星」
「ああ」
常夜灯の下で孝之は微笑んだ。普段は薄暗く感じる明かりも、暗闇の中から出てきた直後で眩しく感じた。
「まだペルセには早いけど、みずがめ座デルタと、やぎが残ってるから」
「?」
意味が分からずにキョトンとしていると、先に立って階段を下りながら孝之がもう少し分かりやすい説明をしてくれた。
「夏にはペルセウス座流星群が来るんだ。一番流れ星が多い日の事を極大日って言うんだけど、毎年だいたい八月の半ばなんだ。だから、それにはちょっと早いんだけど。まあ極大日じゃないからって流れないわけじゃないんだ」
「流星群?」
「読んで字のごとく流れ星の群れだよ。昔には、もっとすごい流星雨っていう現象も日本で観測されたらしいけど、こいつは見たかったなあ」
「なンで、ンな流れ星が多くなるって分かンだよ」
「それはね、地球が彗星…、尾を引く星だけど分かるかな? 特定の彗星の軌道を横切る時に、その軌道に残されていた尾の成分のチリが、地球の重力に引かれて落ちて来て、流れ星になるからなんだ。ペルセはスイフト・タットル彗星の軌道だね」
「ふーん」
二人はC棟の二階へと下りて来た。廊下を東へ行けば地学室であるが、由美子の足が止まった。不思議そうに振り返る孝之に、ハッキリと由美子は言った。
「飲み物買って行きたい」
「じゃあ一階かな?」
同じ二階でもD棟の学生サロンまで足をのばせば、そこに自動販売機がある。だがさらに階段を下って一階へ行けば、同じくD棟にある自販機コーナーも近い。そこならば種類も豊富だし、なんなら軽食も手に入る。
孝之が先に立って階段を下る。防犯のためか、それとも消し忘れなのか、ところどころの部屋の明かりが灯っていて、足元が不安になることは無かった。
だが流石に夜の校舎には不気味な雰囲気が漂っているので、黙っていると空気が重くなってくるような気がする。そのせいか孝之は先程と同じ調子で話し始めた。
「他に、みずがめ座デルタ流星群と、やぎ座流星群って七月にあったんだけど、その名残が今日はまだ残っていて、いつもより流れ星が多いんだよ」
「なるほどねえ」
もしかしたら中学の授業でやったかもしれなかったが、由美子は腕を組んで頷いた。
「あ、ちなみに、星座の名前がついているのは、その流星の放射点がそこにあるからなんだ」
「放射点?」
キョトンとする由美子に呆れることなく、むしろ優しい声のままで孝之が説明を続けた。
「流星群って、そこの一点から放射状に出現するように見えるんだ。まあ地球の公転軌道と、流れ星になるチリの方の公転軌道が交差する場所なんだけど」
由美子は頭の中で地球を想像してみた。自転をしながら宇宙を進む地球が、雲のような物へ突っ込んで行く。すると夜の面へ衝突した雲が、パチパチと弾けた。
二人は一階へおり、D棟の方へ歩き出した。すぐにある便所を通り過ぎ、左手にある自販機コーナーに辿り着いた。
定期券入れを取り出してからコンプレッサーの音をハモらせるそれらに目を走らせる。
「先に選んじゃうね」
「どーぞ」
孝之も付き合って、全国的に有名な乳酸菌飲料を選択した。
由美子は爽やかさを求めて炭酸飲料にすることにした。
「スポーツ飲料の方がいいんじゃない?」
「いまはこの気分なンだよ」
ボタンを押してからカードをかざして購入する。さっそく蓋を開けた由美子と違って、孝之は口をつけないようだ。
炭酸ののど越しが心地よい。
「ここならいいか」
独り言ちたことを言ってから、孝之は由美子に向き直った。
「藤原さん」
「はい?」
彼のあまりに真剣な声に、由美子の声が裏返った。
孝之は決心したという感じだった割には、言い惑っている様子だった。いつもの由美子ならば、こんな煮え切らない態度を取る男子がいたら、蹴飛ばしもするだろう。が、少し根気よく待ってみる。
口を空振りさせた後、やっと孝之は声を発した。
「この前の事なんだけど」
「この前?」
ちょっと拍子抜けをする彼女。
「マサキのこと」
「まさき?」
さらにキョトンとする由美子の前で、孝之は頭を掻きむしった。
「そうだよね、そこからだよね」
先程までの孝之とは違って、追い詰められた者の雰囲気で彼は言った。
「終業式の次の日」
「…、ああ」
あの家族が増えていると彼が取り乱したことを思い出した。
「どう? あれから」
「どうもこうも」
孝之は手に持ったボトルを振り回し始めた。まあ成分が沈殿していることもあるので、振るのは間違いではないだろう。
「マ…、母さんも、結実も相変わらずだよ。普通に家族として受け入れてる」
「ああ、そう」
急に兄弟が増えたと言われても、他人である由美子には半分どうでもいい事である。しかも、その原因は孝之の体調不良からくる記憶の混乱ではないかと思っているのだからなおさらだ。
「だから市役所行ったんだ」
「しやくしょ?」
話しの飛躍について行けなくてキョトンとする由美子の前で、孝之は拳を握りしめた。
「住民票で、ウチの家族が四人だって示そうと思って」
「結果は?」
少しは興味が出てきた彼女の言葉に、孝之は黙って折り畳まれた緑色の紙を差し出した。偽造などされないように紙自体に複雑な模様が入ったソレは、このあたりを管轄とする地方自治体発行の住民票であった。
そこに記されている人数は五人。一番上から世帯主の真鹿児若彦、配偶者である雉子。そこから子という字が並んで、孝之、結実、真咲とあった。
「へ~、おまえ十一月生まれなんだ」
「そうじゃなくて!」
孝之の手が乱暴に紙を掴むと、末っ子の欄を指差した。
「ココ!」
「わかってるわよ」
もう一度見直す。そこには末っ子の真咲の名前があり、去年の九月五日生まれとある。
「へ~。まだ一歳にもなってないンじゃない。かわいい盛りでしょ、大事にしなさいよ」
「かわいがることなんかできるもんか」
唇を尖らせた孝之は、なにかを指折り数え始めた。
「九月の最初の生まれだから、九、十、十一、十二、一、二…」
「十一ヶ月でしょ。明日から八月なンだから。逆算しなさいよ」
「う」
一度硬直した孝之は、数え途中だった指を由美子へ突きつけた。
「どっちにしろ一歳未満だよね」
「そうみたいね」
「もうハイハイどころか、部屋の中を駆け回っているんだ」
「へ~。赤ちゃんは育つのが早いって言うけど、もうそんな」
由美子は孝之におぶわれていた様子を思い出した。
「パパとかママとか言い出してるし」
「それも普通じゃない?」
女の子とはいえ流石に赤ん坊の言語発達がどの段階で始まるかまでは由美子は知らなかった。いやちょっとだけ授業でやったような気もするが、学生の今はそう重要情報ではないので、あまりハッキリと覚えていなかった。
「オムツが取れたのも?」
「それは…、どうなんだろ? でも手がかからなくていいじゃない。オムツだと、お尻洗ってあげンの大変でしょ」
「藤原さんは、どう言ったら信じてくれるんだ」
激昂する孝之の前でわざとらしい溜息をついてやる。
「真鹿児は、どう言ったら落ち着いてくれンのかねえ」
ギリギリと歯噛みをしながら睨んでくる孝之に、冷静な目線を投げてやる。
孝之は両拳をつくると、ブンブンと振り回した。まるで彼の方が癇癪を起した赤ん坊のようだ。
そうして二人でしばし睨みあってから、由美子はもう一度溜息をついてみせた。
「わかったわ」
「わかったって?」
訝し気に顔を歪める孝之にソッポを向いた由美子は告げた。
「まず問題点を整理するわよ」
コクコクと頷く孝之。
「そのあかちゃんが異常な存在だったとする。じゃあ、おまえのドコに不利益があンだよ。オヤツのプリンが取られるとかか?」
「それは…」
ガッと何か捲し立てようとしたところで、スーッと熱が冷めていく。一度振り上げた拳も力なく下ろされた。
「なにもない」
「だろ」
今までの勢いをどこにやったのか、孝之はしゅんとしてしまった。
「だったら後は、おまえが受け入れられるか、そうじゃないかの問題だけでしょ。高校生のお兄ちゃんと赤ちゃんの兄弟なら、まあ馴染むのに時間がかかっても不思議じゃないと思うけど」
「う、うん」
肩まで落とした孝之を励ますように、由美子は軽く彼の胸に拳を当ててやった。
「とりあえず、これだけは言っておくわ。あたしは真鹿児の味方でいたいと思ってる。だから、また変な事が起きたり、相談事ができたら、遠慮なくあたしに言って欲しい。それでいい?」
「藤原さん…」
赤ん坊を受け入れられない兄として、家庭内でも立場が微妙になっていたのだろう。孝之は由美子の励ましに感激の涙を浮かべ、自分の胸に当てられた彼女の拳を、飲み物を持っていない左手で包み込むように握りしめた。
「頼りにしてるよ、藤原さん」
そのままギュウっと握られて、由美子の顔が赤くなってきた。
「あの、おい、放せって」
「いいじゃん。こうしてると藤原さんの暖かさが伝わってきて安心するんだ」
「いいかげんにしろっ」
ドンと開いている手の方で孝之を突き飛ばし、由美子は後ろに下がった。その顔が真っ赤だったのは、果たして怒りだったのか、それとも…。
どこかのラジオから去年の流行歌が流れていた。
「♪好きになったら離れられない~」
その軽快なリズムと合わせるように、定期的な振動が体を包んでいた。低く唸るようなモーターの作動音。そしてガチャガチャと遠くで鳴る連結器の噛みあう音が、穏やかさにアクセントを加えていた。
ラジオは段々と音量が絞られていく。番組が終わったのか、これまた最近巷で流行しているハトヤホテルのコマーシャル曲に切り替わった。
「…その手形が、不渡りだったんだってよ」
「はあ、そりゃシャクだった」
近くからサラリーマン同士がする小さな声で交わす声も耳に入って来た。
「やれやれ」
寄りかかっていた父が、ハンカチで汗を拭く気配が切っ掛けとなって、佐藤美代子の意識は曖昧な状態から覚醒した。
何か大事な夢を見ていた気がした美代子は、それが指の間から零れる水のように感じながら、結局思い出すことができなかった。
車内を見回す。天井にぶる下がった扇風機が、薄暗い車内証明に照らされていた。
「あ、起こしてしまったかね」
美代子が頭を動かした気配に気が付いたのだろう父が声をかけてきた。汗っかきの父は、帽子を膝にハンカチでコメカミのあたりを盛んに拭っていた。
「寝ていましたの?」
いつ自分が寝てしまったのか自覚が無かった美代子は、斜めになっていた体を起こして、大きな会社の代表取締役をしている父に訊ねた。
「電車が出てからすぐだよ」
母に似合わないと何度も言われている口髭を動かして、父はこたえた。
「いま、どの辺りですの?」
膝に置いた白いピクチャーハットを落とさないように、窓を振り返ってみた。ここら辺では国電は高架の上を走るから、眺望は開けているはずである。しかし外は真っ暗だ。千葉の取手で乗った時にはすでに夜だったので、驚きは無い。さすが東京は人口が一〇〇〇万人を超えただけあって、空の星よりもたくさんの街明かりが目に入った。今日が憲法記念日だろうからか、日の丸を飾ったままの家もあった。
「荒川を越えて、隅田川のあたりかな」
父がそう言った途端に、電車は鉄橋を渡り始めた。
「そろそろですわね」
家がある稲荷町までもうすぐだ。
寝ている間に服が乱れなかったか、手早く点検する。白い帽子に合わせた白いブラウスに、淡い青色が混じったスカート。袖にも裾にも異常は無かった。
それでも美代子は、服のアチコチを引っ張って、あるかないか分からない程の皺を伸ばした。
「いい医者なのだが」
父がボヤキ声を漏らす。
「家から遠いのが難点だな」
「仕方ありませんでしょ」
つい同意しそうになった美代子は、顔を取り繕って父へ言い返した。
「ユキヲさんの体には、都会の空気は悪いのですから」
「でも、お見舞いの度にお休みが潰れるのもねえ」
父のボヤキももっともかもしれない。が、美代子は多くの学友たちのように、黄金週間だからといって映画へ繰り出す趣味は無かった。
「あら? お父様はユキヲさんに会いたくないのかしら」
「そうは言っておらんが、すっかり遅くなったね。食事はどうする」
「家でいただきます」
この時間では、高校生である美代子が入れる店など一軒も開いているわけが無い。まさかネオンサインで賑賑しい夜の町に足を向けるわけにもいくまい。若い女がそういったことをするのは、ハレンチな事だと母から躾けられていた。
「きっとキリさんが、なにか残しておいてくれているでしょうから」
台所を切り盛りする女中のキリは、よくできた女性だ。こうしてお腹を空かして帰ってくることを見越して、何か軽食を作っておいてくれているにちがいない。
「ユキヲくんも、だいぶ顔色が良かったじゃないか」
戸惑った微笑みを見せる父。
「そうでないと困ります」
冷たくこたえる美代子。彼女の言い草を聞いて、父の表情はさらに変化した。
(やれやれ、年頃の娘というのは扱いにくい物だ、というところかしら)
美代子の高校での成績は上から数えた方が早い。それに見合った知能の高さから、父の顔に現れた内面を読み取った。
なにも美代子だって父を毛嫌いしているわけでは無い。外見は、いささか加齢で衰えたと言っても、そこそこ見られるスタイルをしているし、服のセンスもそう悪くは無い。事業者として成功しているし、なにより家族を大事にしてくれている。しかし、いまだに美代子に対し、まるで小学生と話すような態度を取られると、異常に腹が立つのだ。
(これが反抗期という物なのかしら)
自分の行動を冷静に分析してみる。きっと、おそらくそうなのであろう。
「まあ、あれだよ」
また汗をフキフキ、父が愛想笑いをしてみせる。
「あと三年もすれば、元気になって戻って来るさ。そうすれば二人で色々な所へ出かけられるだろう」
「三年…」
その時間の長さに小さく絶句する。
三年も経てば、自分も高校は卒業している。それどころか短期大学ならば卒業も視野に入っているころだ。
その頃には、自分はもっと美しくなっているだろうか?
ギギギと耳障りの悪いブレーキ音を立てて、電車は駅のホームへと滑り込んだ。
ブシュと空気圧でドアが作動して、暗い中へと人々が降りて行き、同じぐらいの人たちが乗り込んできた。
少々焦った調子で車掌が笛を吹き、乗客を急き立てる。
ガタンと大きく揺れて電車が駅を発車した。反動で父に体重がかかりそうになるが、お腹に力を入れて耐えきった。
駅を出てすぐ線路は右へカーブし、そこからしばらく直線である。
「三年か…」
駅の喧騒の間黙っていた父も同じように遠い目をする。
「成人式だね、その頃は」
そう言われてギョッとする。もちろん、それを面に出すようなことはしない。そんな内面の動揺が、もし漏れでもしたら、美代子は舌を噛み切る自信があった。
「え、ええ」
自分が子供でいられる時間はもう少ないと宣言されたようだ。さすがに少々言葉に詰まる程度の事はしてしまう。
「美代子の振袖か…」
隣に座る美代子が、そんな内面の動揺を抑え込んでいるとは露とも感じ取らなかっただろう父。その夢見る表情から推察するに、派手な装いをした美代子の姿を思い浮かべているようだ。
「それと白無垢か…」
どうやら想像は美代子の結婚式まで飛んだようだ。
「あら」
先程の動揺を隠すかのように、美代子は父へ言ってやった。
「最近では西洋のドレスという人もいるのですよ」
「ドレス…」
目を点にする父。彼の常識では白無垢に角隠しというのが一般的なのだ。
「ドレスって言ってもなあ」
三々九度をする白いドレスを着た美代子を想像したのだろう、父は何か小石を噛んだような顔をしてみせる。おそらく新聞で昔見たイギリスの王女さまが上げた結婚式の写真を思い出し、それを神前の席に当てはめてみたというところだ。
甚だ似合わない。やはり神棚の前には白無垢に角隠しが一番だ。美代子だってそう思った。
「まあ美代子の場合は、隣に立つ男性を捜さなくて良いから、安心だな」
「なにが安心なのです?」
特に整えなくても美しいカーブを描いている眉を顰める美代子。ちょっと厳しい目で父を見ると、ついとそっぽを向いて言ってやった。
「もしかしたらユキヲさんとは、別の方かもしれなくてよ」
「おいおい」
今度は冷や汗が出たのか、父は再び額へハンカチをやる。
「ユキヲくんなら、お父さんは大蔵省主税局の税制第一課の課長だぞ。家柄だってしっかりしているし…」
「ウチの方が家名で負けていませんこと?」
なにせ大事な娘の婚約者を見舞いに行くのに、車でなく国電で訪れるような懐事情だ。しかも急行などでなく鈍行である。
美代子の言葉に含まれていたトゲに刺され、父は口を開けて固まってしまった。
「おまえ、まさか…」
その顔を細めた目で睨んだ美代子は、極めつけのしたり顔で言った。
「実は、わたくし。心に決めた方がいらっしゃいますの」
「美代子っ」
こんな聴衆がたくさんいる最中での告白に、父の顔色が青くなる。かといって大声を出して遮るわけにもいかない。
「わたくしには…」
胸の前で組んだ手を見おろし、そしてとびっきりの笑顔を浮かべて見せる。
「ユキヲさんという大事な方が」
「は?」
父は鳩が豆鉄砲を食ったような顔となった。
イタズラが成功して、本当の笑顔になった美代子は、父に言ってやった。
「お互いが小さな時からの婚約者というだけでないのよ。わたくし、ユキヲさんの優しいところとか、気に入っているの」
実はそれだけでなく、美代子は面白なユキヲの横顔を見ているのが好きなのだが、これは父には告げていなかった。小さい頃から婚約者だからと言われている事からくる擦り込みかもしれない。でも二人の間柄を知る友人なども、ユキヲを淡雪のような繊細な美しさを持つ少年だと褒めて、その彼を将来独占する美代子を羨ましがってくれるのだ。
「他の殿方なんて考えられないわ」
「そ、そうか…」
ホッとした父が、再びハンカチで額を拭った。そこには汗などもうない。もはや精神状態を安定させるためにだけの行為となっていた。
「でも反対に、ユキヲくんが浮気をしたら、許してやれよ」
美代子は父の言葉に振り返った。
「男の甲斐性という言葉もある。外に女がいるぐらい…」
「あら。お父さまにも、そういった方がいらっしゃるのね? 帰ったらお母さまに伝えなくっちゃ」
「美代子」
また青くなる父。ちなみに思春期の娘とはギクシャクしている父であるが、夫婦仲は大変良く、そういった余分な存在が入り込む隙は無さそうであった。
「おまえは、そういう…」
父の浮気など微塵も疑ったことも無い美代子は、そろそろ許してやる気になった。
「わたくしも、お父さまの横にいるお母さまのように、ユキヲさんの横で…」
照れて少々頬を染めた美代子の告白は、そこで遮られた。
乗っている電車がけたたましくタイフォンを鳴らす。あまりの煩さに顔をしかめて前方を振り向いた途端、車内の照明が明滅した後に停電し、世界がひっくり返った。
それから美代子を騒音が包み込んだ。
金属がひしゃげる音、ガラスが割れる音。何か柔らかい物が引き裂かれる音に、物が折れる音。
まるで一瞬にして戦場へ放り込まれたような衝撃に、美代子の意識が遠くなった。
「…」
誰かの呻き声で美代子は意識を取り戻した。
暗闇の中で、自分の白いブラウスが、あるかないかの光を反射して、幻想的に光っている。
ボーッとした頭でそう考えてから、一遍に色んな事が湧き出てきた。
(何が起きたの?)
(わたくしはどうしたの?)
(ここはどこ?)
(お父さまは?)
美代子は鼻を突くコールタールの臭いで、自分が電車の床に投げ出されていることを自覚した。
仰向けから身を起こす。少し乱れていた淡い色のスカートを整えつつ、周囲を見回した。
床は縦にも横にも傾いていた。どうやら座った姿勢のまま投げ出され、そのまま床へ座るような姿勢で滑ったようだ。白い靴先に触れるのは、反対側にあった座席のようだ。膝の上にあった帽子はどこかへ行ってしまっていた。
「お、おとうさま?」
「美代子?」
父は近くにはいなかった。少し離れた位置にある黒い塊の方から声が聞こえた。
夜目でも目立つ美代子のところへ、床を這いながら登って来る影がある。
「大丈夫か美代子」
そう声をかけてきたのは、どこか痛めたのか、表情を歪めた父であった。
「わたくしは…」いちおう痛みなど無いか自分の感覚をもう一度確認すると、尻もちをついた程度に臀部が痛かった。が、それ以外に異常は感じられない。
まさか年頃の娘が尻の異常を伝えるわけにもいかず、美代子は父へ微笑みかけてこたえた。
「どこも怪我など…」そこまで言って気が付いた。
「お父さま。血が」
「ああ、なにかにぶつけたようだ」
衝撃の瞬間に握りしめたのであろう、無くさなかったハンカチで、いつものように額を押さえる。
二人の会話で周囲の人間も意識を取り戻したのか、それともやっと他の事へ意識が向くようになったのか、暗くなった車内のアチコチから上がる呻き声が耳に届いた。
「うー」「あー」などという獣のような物に混じり「俺の腕がぁ」や「目が見えない」など、自分の症状を訴える声は、生々しすぎて聞いていられない。
「なにが起きたの?」
「どうやら電車が脱線したようだ」
「脱線?」
ようやく暗さに目が慣れたのか、歪んだ車内に転がる人々の肉体を見る事ができた。男も女も、みんな床へ投げ出されて折り重なり、さらにありえないような角度で腕や脚が途中から曲がっている者もいる。
どうやら父もどこか痛めているようで、斜めになった床を、ザリザリと音を立てながら下へと滑って落ちてしまった。
「お父さま」
「ああ、力が入らなくてね。大丈夫だ」
今度は美代子の方から、床を尻で滑って、近づいて行った。スカートが汚れるなんて言っている場合ではない。木製の床にはケバが立っていて、少々痛かった。
重力のままに人が片方へ集まっている。脇の男性は口から血を一杯に溢れさせてピクピクと痙攣していた。
「お父さまの怪我は?」
「たぶん床だと思うが、肩を打ってしまってね」
左手で肩を抑えてみせる。
「いてーよーいてーよー」
突然、黒い塊から男の声が湧き上げる。
「重い、わたしの上からどいてっ」
「息ができない!」
どんどんと人々の声が大きくなってくる。事故から時間が経って、意識を取り戻す人が増えたのだろう。
「助けてくれよ、目が見えねーんだ」
顔面全てから血を噴いているような男が、父の左手にすがった。
「やめなさい。私だって怪我をしているのだ」
「私のカバンは? 私のカバン!」
狂ったように長い髪を掻きむしって、腰から下を捻じ曲げたまま床に転がる女がヒステリーを起こした。
「こりゃいかん」
父もここへ至って事態の深刻さを感じ取ったのだろう。このまま重傷者の中にいても、碌な目にあいそうもない。それに救助を求めるという意味でも、車外へ脱出するのがいいだろう。
左手にすがった男を振り払い、よろよろと立ち上がった父が手を差し出してくれた。その手に掴まり、美代子も傾いた床に足を踏ん張った。
おそらく床を滑ったので汚れているはずの美代子の服が、外から差し込むわずかな光を反射して、彼女を暗闇の中から明るく目立たせた。
「菩薩さまじゃあ」
だいぶ歳を取った声がする。
「神さま…」
同じように手を合わせているような女性の声。
「たすけてくれよお」
先程、父にすがった男が、今度が美代子に手をのばした。
「きゃ」
年頃の娘としては当然の反応として、美代子は身を固くした。
「こっちだ」
父が手を引いてくれなかったら、あの男に掴まれていただろう。
父は美代子を電車のシートの上に立たせた。フワフワとした踏み心地で、なんとも安定しない。
「この上を行くのだ」
今度は自分に迫った先程の男を、無情に足蹴にすると、父もシートの上に登って来た。
そのまま手を取り合ってシートの上を移動し、扉の所へ。
もちろん走行中を脱線したのだから、自動扉は閉まっていた。それどころか、傾斜の下側になっているため、扉の前に人々が折り重なって倒れていた。
「お父さま」
怯んだ美代子を追い抜き、父は再び床へ下りると、シートの下へ手を突っ込んだ。
「ここに、扉を手で開けられるようにできるコックが…、これか」
父の博識に美代子は感心した。久しぶりかもしれない、父を尊敬するのは。
折り重なった人の上から手を伸ばして扉に手をかける。しかし人々の重さのせいか、扉が開かないようだ。
「わたくしも手伝います」
美代子もシートから床へ下りると、父と一緒に扉へ手をかけた。
「いたいよお」
そんな父の足に、和服姿の老婆が取りすがった。
「やめなさい、はなしなさい」
それでも父は振り払うより先に扉を開くことが先とばかり、老婆に掴まれるままに腕へ力をこめる。
「天使さまあ」
こんどは別の中年女性が、美代子にすがろうとした。さすがにそれは我慢できなかったようで、父はいったん手を扉から離すと、その女性を薙ぎ払うように突き飛ばした。
「あけるぞ!」
再び扉に手をかけた父が決意の声を上げる。
「はい」
美代子も大きな声でこたえた。
ガララと立て付けの悪い家の戸を開くような音がして、電車の扉が開かれた。
「あ」
その途端に、支えを失った人の塊が車外へと落ちる。床に踏ん張っていた美代子も、重力のままに外へ。
線路の砂利で顔をうつかと思いきや、意外に落下時間がある。
(そうか、ここの辺りは高架を走るから、高さが…)
空中で美代子は目線を後ろへやると、まだ老婆に掴まれていた父が、車内から地面へと落ちていく自分を呆然と眺めていた。
(これなら、お父さまは助かるわね)
美代子が最後に思ったのは、白いドレス姿の自分と、横に立つ病弱な婚約者の横顔だった。
「ぷはあ」
まるで長い間、水に潜っていたような気がする。
(夢?)
先程まで落下に付随する浮遊感に包まれていた気がするが、いまは柔らかいベッドの上だ。
少し寒いぐらいの冷気の中で、心地よい温もりに包まれてアキラは目が覚めた。
「ふん?」
体が重いような気がして不安になる。まさかと思うが、夢で落ちたから実際の身体にまで影響が出ているのだろうか。それともやはり明実が開発している『施術』には欠陥があって、身体が動かなくなったのだろうか。
「う~ん」
なにか固いボールのような物が上に乗っており、その重さで身体の自由が利かないようだ。
アキラは毛布の中を覗きこんでみた。
「!!」
アキラの胸にヒカルが顔を埋めるようにして寝息を立てていた。
「ちょ…」
ガッチリと両手で胴体を固められており、身動きが取れない。腰から下もお互いの脚が絡み合っていて、満足に動かせなかった。
「うん?」
アキラの動揺がヒカルの目覚めを促した。
瞼が開くと黒曜石のような瞳が現れ、焦点の合わないままアキラの顔を眺めるように見続ける。その瞳の中に青い炎のような揺らめきがあった。
「…」
毛布を覗き込んで現状を把握したアキラ。
「…」
アキラの柔らかさから顔を向けたヒカル。
「「…」」
目が合った二人は、黙ったままいそいそと離れると、ベッドの端と端に分かれて腰かけた。
アキラは慌てて自分の着ていた物を点検した。いちおう不自然な乱れなどは無いと思うが、自信が無い。この時期の学生が普段着にしていてもおかしくない服装(上はTシャツに、下はスウェット)ではある。
チラリとベッドの長さ分離れた相手を観察すれば、白のタンクトップに黒のジャージ。まあ自分と似たような格好であった。
「あ~、ええっと」
同じようにコチラを窺っていたヒカルが、黒い髪を掻き上げながら口に出しづらそうに訊いた。
「どう、どうしたんだっけ? オレたち」
自信が無さそうな声でこたえるアキラ。
その声が合図だったように、二人は揃ってオーギュスト・ロダンの未完作品が構成する群像の部分として製作されたブロンズ像の有名なポーズを取った。
「えーと、待て待て」
眉間に皺を寄せたヒカルがまず言った。
「たしか昨日は、カナエと一緒に酒を呑んで…」
「そうそう」
ヒカルの言葉を受けてアキラが人差し指を立てた。
「酒臭いまま人の部屋に押しかけて来て…」
ヒカルが指を鳴らしついでに、自分も人差し指を立てた。
二人の顔と人差し指が向き合う。
「あたしが…」「酔いつぶれて…」「そこで寝ちゃって…」「オレが苦労してベッドへ運んだ…」
二人揃って安堵の表情で微笑みあい、そしてヒカルがマッハの速さで行動した。
「おまえ、ヤらしいことしてないだろうな」
鉄拳を炸裂させたヒカルが、今更ながら自分の身体を抱きしめて語気鋭く訊いた。
「いてえ」
まともに拳をくらった頬を押さえながらアキラも言い返した。
「ベッドに運んだら、おまえが『吐きそう』なんて言い出したから! 間違っても、そんな雰囲気じゃなかったぜ」
「じゃ、なんで同じ布団で寝てんだよ!」
怒鳴りつけた方のヒカルが頭を抱えた。どうやら少し思い出したようだ。
その横顔に冷静に告げてやる。
「おまえが離さなかったんだろうが」
硬直したように動かないヒカルをジッと見つめていると、髪を掻き上げながら辛そうな表情がこちらを向いた。
「まあ、結局、なんにもなかったわけだし。お互い、これからも節度を持って行動を…」
「ヒカル」
アキラがヒカルの方へと乗り出すと、同じ距離だけヒカルは仰け反った。
「なんだよ」
「好きだ。おまえはどうだ」
「きたねえ」
クシャっと表情を崩したヒカルが、唇を噛んで言った。
「いま、それを言うのは、やり口がきたねえだろ」
「嫌いなのか?」
「ばか」
表情を隠すようにして、ヒカルは自分の前髪を掻き上げた。
その手を掴んでどけると、泣きそうな顔をして、頬を赤くしているヒカルがいた。
「…」
ヒカルの瞳に、本来とは違う自分の顔が映っていて、アキラは目を閉じた。
少々強引に腕を引くが、ヒカルも特に抵抗はしなかった。
自然と二人の顔が近づいた。
「たいへんだ!」
いいタイミングで、バーンと部屋の扉が開かれた。
再び音速でベッドの端と端へ跳び退った二人が闖入者を睨みつける。飛び込んできたのは、やっぱり明実だった。
「てめえ…」
本気で人の二、三人は殺せる迫力がある声がヒカルから出た。
「女の部屋に入る時はノックぐらいしろって言ったよな」
「それどころではない、見ろ」
明実は抱えてきた一四インチのブラウン管テレビのスイッチを引っ張った。
どうやら外見は旧式だが、中身は現代のデジタル放送に対応しているようだ。特にアンテナなどがついていないのにも関わらず、ボウンと液晶を見慣れた目にはショボい画像を映し出した。
「?」
顔を見合わせてから、二人して画面を覗き込んだ。
どうやら海外のニュース専門チャンネルであるようだ。
鳶色の長い髪をしたコーカソイド系の女性アナウンサーが、原稿片手にスタジオの中を歩き回って、何やら解説を行っている。
アキラには、ちょっと早口で喋っているので、使われている言語を聞き取ることが出来なかった。
「英語?」
「いや、フランス語だよ」
自分のヒアリング能力に自信が無くなったアキラが不安げに訊くと、ヒカルがすかさずこたえてくれた。
「何て言ってる?」
大学の受験科目にフランス語のヒアリングは無いため、アキラにはその能力は無かった。
おそらく分かっているだろう二人の顔色を窺うようにして訊くと、明実が真剣な顔で教えてくれた。
「日本の研究者が、新たな物質で生体高分子を生成する事に成功したと言っている」
「せーたいこーぶんしー?」
「平たく言えば核酸だ」
「かくさん~?」
「ええい。DNAと言えば分かりやすいか? つまりその物質に置き換えれば不老不死も可能だという技術だ」
「え? それって…」
「そうだ。『生命の水』だよ」
八月の出来事B面・おしまい