八月の出来事B面・⑦
暗くなった海城家の居間にヒカルがやってきた。
上気した肌に、濡れた髪。何のことは無い、風呂上りで喉が渇いただけだ。
肩にかけたタオルで挟むようにして髪の水分を取りつつ、足をダイニングキッチンへと向けた。
「おや」
「あら」
そこに先客がいた。冷蔵庫の前に香苗を見つけたヒカルは、顎で風呂場の方を差した。
「風呂、開いたぜ」
「こら、ヒカルちゃん。そんな格好で」
腰に手を当ててプリプリと怒り出す。そんな香苗を見て、ヒカルは自分の姿を見おろした。
白いタンクトップ。
以上。
あとは小振りなヒップを包むパステルイエローの下着だけである。
「いいじゃんかよ風呂上りぐれえ。ほてってんだよ」
「いけません」
いつも温和な顔をしている香苗には珍しく、とても怒った顔をしてみせる。
「せめて下を履きなさい。ウチには多感な歳の男の子がいるんですから」
「わーかったよ」
降参とばかりに脱衣所へ取って返し、それまで身に着けていたゆるゆるのジャージを履いて戻って来る。
するとダイニングキッチンのテーブルに、縦に引き延ばしたような細いグラスが二つ並べられていた。
「お?」
「たまには呑む?」
香苗が冷蔵庫からチューハイの缶を取り出して、振り返るところだった。
「カナエも呑むことあるのか」
ヒカルは海城家に世話になる様になってから、いっさいアルコールを口にしていなかった。それというのもクロガラスの襲撃を警戒していたからだ。言うまでも無い事だが、アルコールを摂取していると、判断力など鈍る可能性がある。
だが今は、対『天使』という名目でクロガラスとは事実上の休戦状態である。そして『天使』が現れる兆候は全くない。
外見は『女の子のようなもの』であるが、実際の年齢はもっと上であるし、酒類を口にすることには問題はない。後はヒカルの気分次第だ。
そしてグラスが置いてある席に座ったのが答えだった。
「おつまみは、こんな物しかないけれど」
木皿に数種類の乾物が出された。
「充分さ。そんなに呑む気も無いしよ」
香苗が二つのグラスへ、缶の中身を注ぐ。表面にイチゴが描かれている通り、液体の色もストロベリーピンクをしていた。
「それじゃ」
「乾杯」
女同士でグラスの縁を触れ合わせる。まるで鈴を鳴らしたような音が響いた。
「甘いな、コレ」
「ジュースみたいでしょ」
「甘い酒だと悪酔いしないか?」
「それは、つい呑み過ぎちゃうからでしょ」
「そうだ、ついでに見てもらおう」
ヒカルは頭を香苗の方へ突き出すようにした。
「白いの目立ってないか?」
「大丈夫ね。私が選んだ白髪染め、だいぶいいでしょ」
「次はいつ染めた方がいいかな? 生え際とか白くなったらイヤじゃん」
「アレをシャンプーの代わりに使うのが週に一回。全体を染めるのが月に一回ってところかしら」
「じゃあ、まだ大丈夫だな」
落ち着いた様子で椅子の背もたれに寄りかかるヒカル。
「痒くなったりしたら言ってね」
「それも大丈夫みたいだ」
「私もアレ、いつか使おうと思っているんだから」
「なんだよ、実験台かよ」
ちょっと固い声を出したが、そのリラックスした態度で口だけなのは分かった。
「カナエは幸せそうだな」
「え?」
いきなり話題を変えられて、香苗はキョトンとしてみせた。すぐに表情が柔らかく変化した。
「ええ、幸せよ」
万人が嫉妬する前に憧れるような笑顔を浮かべ、香苗は言った。
「好きな男性と結ばれて、好きな男性の子供を授かって、その子ももう高校生ですもの。収入に不安は無いけど、剛さんの出張が多いのは、ちょっと残念かな」
「アキラが女になっちまったのは不幸じゃないのか?」
ヒカルの質問に考える事無しに香苗はこたえた。
「アキザネくんですもの、ちゃんと元に戻してくれるわ。いまは、そうね」
しばし天井を見て考えると、また素晴らしい笑顔になった。
「いまは、ちょっと寄り道した感じ。でも男の子の親だけじゃなくて、女の子の親もできて、楽しいかな」
「そうか」
考える事があるのか、ヒカルは押し黙ってしまった。
「いまは専業だっけ?」
ヒカルの再確認に、香苗は大きく頷いた。
「剛さんに、私もパートに出ようかって相談したんだけど『オレが稼いでくるから、カナエは家にいてくれ』って言われちゃって」
その時に見せた主人の男前の表情でも思い出したのか、香苗は両頬を手で包むと、体をくねらせた。ヒカルの顔に呆れた表情が浮かぶ。それにお構いなしに香苗は指を折り始めた。
「アキラちゃんも、高校を卒業したら、次は大学でしょ? アキラちゃんの夢は、この前あった三者面談で聞いたけど、その先は留学になるのかなあ。でも、そしたらアキラちゃんから手が離れるから、私も何か始めようかしら」
ちなみにアキラとヒカルの三者面談を担当したのは、担任ではなく副担任という名目で清隆学園高等部に潜り込んできたクロガラスであった。クロガラスならば二人の事情を知っているので、まあややこしい事にはならなかった。アキラは真面目に進路相談をし、ヒカルは時間中ずっとふてくされて座っていただけだ。保護者役を受け持ったのはもちろん香苗である。
その香苗が、ヒカルへ意味ありげな視線を送って来た。
「誰かしっかりした女性がアキラちゃんのそばに居たら、私も安心できるんだけど」
「あたしは…、無理だ」
悲しそうにヒカルは言い切った。
「髪の毛でも分かるだろ。身体がそんなに持たねえよ」
「大丈夫よ。私たちにはアキザネくんがいるもの。彼がなんとかしてくれるわ」
息子の幼馴染への信頼に、ヒカルは溜息を返した。
「カナエには言っておかなきゃならないか…」
「アキラちゃんとのおつきあいなら、順序をわきまえてね。もちろん、なにかあったら責任は取らせますから」
「そうじゃなくて…」
「あら、アキラちゃんのドコがいけないの? いいお婿さんになると思うんだけど」
ヒカルの口からさらに深い溜息が出た。
「遅い」
駅の改札の前で腕を組んだ由美子が仁王立ちになっていた。
通りかかる残業後のサラリーマンが避けるぐらい、それは迫力がある絵面だった。
「いちおう、まだ五分すぎたぐらいだよ?」
チューブトップワンピースの由美子の横には、紺と白の細かいチェック柄のロングスカートに、ゆったりとした白いロングTシャツを合わせたファッションの花子がいた。
足元も白いサンダルで、シャツに散りばめたように入っている花柄と相まって「どこの女子大生ですか?」と問いたくなるような、落ち着いた、かつ涼し気な装いであった。
ゴールドのキーチェーン風をした細い腕時計の盤面を由美子へ向けた。
「でも、お夕食はどうする?」
「そうねえ」
タクシーやバスが集うロータリーは、駅の反対側となる。一瞬、そちらで待っているのかとも思ったが、そちらには朝にしか開かない臨時改札があるだけだ。
駅前と言ったら、この細い路地の突き当りといった風情の改札前に間違いはないだろう。
由美子の目が周囲に向けられた。
河岸段丘の際に建てられたこの駅には、ここから見て下になるロータリー側にファミリーレストラン等があることは知っていた。後は左手に怪しい雰囲気の呑み屋横丁と、正面にある雑居ビル内に入っているバーガーショップぐらいなものだ。
「ハナちゃんからも入れてみてくれる?」
自分のスマートフォンをチェックしながら由美子は花子へ依頼してみた。
駅前に着いてから、グループへ何度書き込んでも梨の礫で、全然反応が無い。既読マークすらついていないところを見ると、ゲームか何かに夢中で気が付かないと見える。
花子が入れた到着を知らせる書き込みにも無反応だった。
代わりに由美子のスマートフォンに、メールの着信があった旨を伝える振動があった。
開くと孝之からであった。
『そろそろ車で着くけど、どこで待っているの?』
「はえ~よ。改札の前っと」
返信をすかさず打ち込んでから、もう一度画面をSNSへと戻した。このままでは話し合い後に向かう予定だった観測会のお迎えの方が先に来てしまう。
花子の新しい書き込み以外に変わったところはない。
「なにしてンのかしら、あのバカども」
「う~ん」
可愛らしく小首を傾げた花子が、桜貝のような唇にスマートフォンを当てた。
「まさか約束を忘れて、三人で食べに行っちゃってるとか」
「そうしたら…」
陽が沈んだ直後の残照がビルの屋上付近に残る街。そこへ黒い風が吹いた。
「どうしてくれようか」
パキポキと戦士が全身の筋を臨戦態勢へ持って行くような音がした。電信柱に留まっていたカラスたちが飛び立ち、毛を逆立てたノラネコが悲鳴のような声を上げて走り去った。
「背骨を数えるように一つずつ…」
なにか不穏な事を言い出した由美子の袖を、花子が引っ張った。
「あれ、お姉さんの知り合い?」
見ると下のロータリーから上がって来る歩道橋を、手を振りながらやってくる三人組の男女がいた。
三人とも清隆学園高等部の制服を身に着けていた。
一人は間違いなく孝之である。その後ろからやってくるのは、一人があの胸の大きい女子で、もう一人は見た事の無いイケメンであった。
「やあ、お待たせ」
「別に待ってなんかないし」
唇を尖らせた由美子は孝之を睨みつけてから、後ろの二人に視線を移した。
「制服なら制服って言えよな。そしたら制服着て来るし」
「あ、これ?」
孝之が自分のワイシャツの襟を引っ張った。
「天文部は昼からガッコに居たから制服なんだよね。でも大丈夫、私服の人もたくさんいるよ」
それから半分振り返ると、新顔の二人を紹介してくれた。
「コッチは天文部のヤマトと、アイコ。こちらは図書委員の藤原さんと…」
孝之の目線が頼りなさげに由美子へ向けられた。図書委員会へ禄に出席していない孝之が、由美子以外の図書委員を知っているとは思えなかった。
「同じ副委員長の岡さんよ」
「岡花子です。以後、お見知りおきを」
「こ、こちらこそ」
花子の手を前に揃えたお辞儀に、後頭部を掻いてこたえる孝之。
「こんにちは…、こんばんわかな?」
イケメンが由美子へ爽やかに挨拶してきた。
「真鹿児と同じく天文部一年の橋本大和です。真鹿児に、図書室の昼当番に出られない理由を説明してくれって頼まれちゃって」
「説明?」
「ああ、真鹿児がね。『同じクラスの図書委員が納得してくれなくて』って泣きついてくるものだから」
「納得も何も、説明されたことも無いけど」
由美子は断言しつつも、もしかして幾度か言い訳のような物を聞いたような気がして来た。
「天文部はね、正午に太陽の黒点観測をしているんだ。それが部の伝統でね。その観測に、まあ一年生は参加するのが義務のようなものでね。日祭日はやらなくていいことにはなっているんだけど、夏休みなんかも継続して観測しているんだ」
「ちなみに創立以来、欠かさずにです」
横から唯一の制服女子が口を挟んできた。
「あなたは?」
由美子は、自分が面白くなさそうに反応してしまった自覚があった。
「私はアイコって言います」
(知っているわよ)とは流石に口に出して言えず、心の中だけでこたえる。
「ちなみにアイコって苗字です、珍しいでしょ」
「は?」
「下の名前はチナミって言います。あわせてアイコチナミ」
もう自分の珍しい苗字を説明する事に慣れているのか、わざわざ生徒手帳を差し出してきた。裏表紙は透明ビニール製の窓になっており、そこに挟んだ学生証を見ることが出来る。
そこに清隆学園高等部の正装をしたアイコのバストショットが貼り付けてあり、その横に姓名がフリガナつきで示されていた。
確かに愛子千波と書き込んであった。
「へ、へー」
とても平板な声が出た。
「珍しいですねえ」
自分がまるで市役所の書類書き込みの見本みたいな名前だからか、花子がとても羨ましそうに反応していた。
「ちなみに、こんな名前だから、みんなに私の下の名前がアイコだと思われちゃって」
「あ~。大変ね」
「私も岡さんみたいな普通の苗字がよかったな」
「私も花子なんてシワシワネームより、もうちょっと新し目の名前がよかったな」
「盛り上がっているところ悪いんだけど」
孝之が、変なところで意気投合した女子二人の間に顔を突っ込んだ。
「下に先生待たせているの忘れてない?」
「あ」
アイコが口に手を当てた。
「ここまで先生の車で来たんです。続きは観測会で」
そう言って上がって来た歩道橋を振り返った。
「ちょ、ちょっと待って」
それを由美子が慌てて止めた。
「こっちの用事がまだなのよ」
「ようじ?」
歩道橋へ向けて半回転したアイコが、もう半回転して戻って来た。
「ここで話そうって言ったのに、顔出さないバカがいて」
「待ち合わせ?」
不思議そうな顔をしている。
「本当は、そちらが来る前までに、ゴハンしながら話し合おうって段取りだったンだけど」
「ふーん」
孝之が面白くなさそうな顔をした。後頭部の寝ぐせ以外は印象に残らない顔立ちではあるが、彼だって人間である。色々な表情をする。
「駐禁切られるのが嫌だからって、小石ちゃん車で待ってんだ。あんま待たせちゃ悪いよ」
「どうする?」
花子が由美子と顔を見合わせた。
「私は門限があるから、かんそくかい? それには参加しないけど」
「ゴハンはどうすンの?」
「別にそこら辺で、一人で済ませてもいいし。家に残り物あるだろうし。それこそ、お姉さんはどうするの?」
「あたしは、そこで適当なセットにするわ」
目でバーガーショップを指差した。
「じゃテイクアウトつきあう」
「ということで、もうちょっと待ってて」
私服の女子二人が駅向かいの雑居ビルへ足を向けると、アイコとヤマトが手を上げた。
「じゃあ、おれたちは先に戻ってるぞ」
その声を背中に受けて二人は店内に入った。夕食時だからそれなりに混み始めている。テイクアウトに並んでいた親子連れの後ろに並ぶと、孝之がやってきた。
「小石ちゃんの車で送ってもらおうか?」
先程から「小石ちゃん」呼ばわりされているのは、清隆学園高等部地学科担当にして天文学部顧問の小石健介教諭の事である。もう髪に白い物が混じっている歳だというのに、いまだ大学生のような雰囲気を纏っている人物だ。
「私、あの先生キラーイ」
珍しく花子が積極的に拒絶した。小石は、普段から剽軽な丸眼鏡をかけているが、その下の目つきがとても鋭いため、彼を嫌う女子生徒は多かった。
「そんなに嫌わなくてもいいのに」
「好き嫌い以前に、どんな大きい車だよ? バンか何かか? 運転手の他にさっきの二人と、あたしとおまえを乗せたら、全部で五人だぞ」
「あ、そうか」
「で、お姉さん。話し合いは明日にする?」
こいつはうっかりしてたとばかりに寝ぐせの残る後頭部を掻き始める孝之を置いておいて、花子がちょっと不満そうに由美子に訊ねた。
「このオトシマエはキッチリつけさせっから」
今度は店内に黒い風が吹いた気がした。カウンターの向こうでガラガッシャンと何かが落ちる音がして、店員が声高に謝る声がした。
「じゃあ小石ちゃんの車で、その連絡のつかないコの家によってからガッコってどう?」
「…」
由美子は目を見開いて孝之を振り返った。
「あ、ごめ…」
「それ採用。ナイスアイディアじゃない」
さっそく由美子はスマートフォンに登録された番号をクリックし始めた。
といっても彼女が知っている『正義の三戦士』の番号は少ない。三人のスマートフォンの番号の他は、空楽と正美の自宅の固定電話だけだ。
試しに、一番かけたくない相手のスマートフォンを鳴らしてみるが、やはり反応は無かった。
次に、一番反応が良さそうな相手にかけてみる。こちらも取る気配はない。
最後に、いつも起きているのか寝ているのか分からない相手にかけてみた。先程の二人と同じである。
そうしているうちに列がはけた。花子がエビバーガーのセットを先に注文した。由美子も呼び出しを諦めて、チーズバーガーのセットを頼んだ。
スマートフォンで出ないのだから仕方がない。家の電話へかけることにする。
まず正美の家にかけてみた。
「はい! 寝てません!」
「は?」
鳴らした直後に繋がって、そう告げられた。由美子の目が点になった。
「順調に進んでいます! 必ず明日…、いえ真夜中には仕上がりますから!」
中年女性の声でそう捲し立てられ、そしてこちらからの質問等に一切こたえずにガチャリと切られた。
「は?」
由美子は耳に当てていたスマートフォンを顔の前に持って来ると、自分がかけた相手を確認した。
間違いない、権藤家の固定電話にかけたはずだ。
(そういえば…)
由美子は正美からこの番号を教わった時の事を思い出した。
(家の仕事で使っている番号だから、まともに取り次いでくれないかもって言ってたわね)
目の前のテイクアウト用のカウンターに、二人の注文が一つの袋に梱包されようとしていた。
「あ、分けて下さい」
機転の利く花子がすかさず店員へ注文した。一瞬、不思議そうな顔をした店員は、膨らませた大袋を下げ、新しい袋を二つ取り出した。
「出るかな…」
最後の電話番号を選択する。これで繋がらなければ、あのバカどもとは連絡がつかないことになる。
「グループにも二人で書き込んだし、こっちから電話したし、ダメだったら男の子たちのせいでしょ?」
花子が詰められていくテイクアウトを目で確認しながら、由美子の独り言へ返事をしてくれた。クスッと笑って人差し指を立てた。
「なにか罰ゲーム考えておかなきゃね」
「あ、それだ」
スマートフォンを持ったままの手で花子を指差した。
「こんど<コーモーディア>のデカパフェ奢らせよう」
「賛成」
二人で清隆学園を出たところにある喫茶店のメニューにある、大きい事で有名なパフェで盛り上がる。かつて巷にカレーライスからカキ氷まで大盛が流行した時に、喫茶店のマスターが半ば冗談で設定したメニューだそうだ。器だけでも「これラーメンの丼ですよね」と訊きたくなるほどの大きさであった。
三人ほどの女子グループで、メンバーの誕生日とか何か特別な日に注文して、みんなで仲良くスプーンを入れるというのが清隆学園では常識だった。
ちなみにこれまで三人ほどが、一人で完食という偉業を達成したそうだ。
もちろん、お値段もそれなりにする。
そんな甘味の話しをしているうちに、テイクアウトの準備ができた。それぞれ袋を受け取った二人は、孝之の案内で下のロータリーに向けて歩き出した。
「ハナちゃんは電車でしょ。ここでいいよ」
「せめて、お見送りと思ったんだけど」
ニッコリと笑う。しかしここの高低差は結構ある。河岸段丘の際にE電が走っているが、ほとんど水平に歩道橋が駅前から伸びている。その歩道橋は電車とホームを越えたところでつづら折りになった自転車用のスロープと、踊り場が複数用意された階段で下のロータリーへと下りる。そこには身障者用のエレベーターまでついていた。ビルに換算すると三階層分ぐらいは下る事になる。
孝之は迷わずエレベーターに向かった。
「いいよ。大変じゃん」
「そお?」
ちょっと残念そうな素振りを見せながらも、花子の足は止まっていた。
「じゃあ、また講習会で」
「うん、そうね。講習会で」
小さく手を振りあって別れる。その間にエレベーターが来ていた。
自転車を押した買い物帰りのオバサンと一緒にケージに納まる。鉄の箱の中では流石に電波が繋がらない。
降りてすぐは公園のようなスペース。そこには由美子たちよりは少し年上に見える男女が固まっていた。孝之は、その集団の方へ由美子を連れて行った。ロータリーに合流する車道にはマイクロバスやスポーツカーなどが縦列駐車しており、一台だけ肩身の狭そうに白い軽自動車が止まっていた。先程紹介されたアイコがその横で待っていた。
「やあ藤原さん」
ハンドルを握ったままで、白いシャツを着た三十代とおぼしき人物が笑顔を向けてきた。
「こんにちは、センセ」
由美子は礼儀正しく挨拶した。狭い軽自動車の運転席に、身体を折り畳むようにして収まっているこの人物こそが天文部顧問の小石教諭であった。彼は地学を担当しており、また清隆学園高等部では一年次に地学を履修するので、お互い教室で会った事がある。
白髪まじりの頭が天井にくっつくほどだ。座高も高いが身長も高い。その証拠にペダルに置かれているはずの脚も、真っすぐでは収まらずに曲げられており、だいぶハンドルの方へはみ出していた。
その代わりと言ってはなんだが、どこもかしこもヒョロヒョロに痩せていた。本人が授業中に語ったところによると、どれだけ食べても太らないそうだ。由美子にとって、いや全世界の女子を敵に回すような発言である。
だいぶ車内で待っていただろうが、穏やかな表情に丸眼鏡が乗っている。ただ、やはり噂通りそのレンズの向こうの目つきはかなり悪かった。
ドングリ眼という物ではなく、その対極にあるような爬虫類を思わせる細く鋭い物なのだ。
今日の小石は白いカッターシャツに、これまた白いロングパンツというファッションであった。
眼鏡の下を除けば、高校教師というより進学塾でバイトをしている大学生と言われた方が似合う姿であった。
「これで集まったのかな?」
小石の確認に、孝之は広場にたむろっている集団へ振り返った。
「OBの先輩たちは、誰が来るかわかりませんけど」
「全員来るまで待っていたら、夜が明けるんじゃないかな」
これはヤマトだ。
「じゃあこの車だけでも行こうか。乗って」
「その前に、ちょっと寄り道してもらってもいいですか?」
さすがにいくら由美子とはいえ相手が教師だと、いつものはすっぱな言い回しを使う事は無く、丁寧な物言いになった。
「何? 忘れ物?」
「まあ、そんなものです」
由美子は手に持ったままのスマートフォンに目を落とすと、空楽家の固定電話を呼び出した。
コール一回で受話器が取られる。
「もしもし、不破です」
相手はとても物腰の柔らかい女性の声だ。間違っても由美子よりは歳下ではない。少なくとも空楽の姉か母親であろう。
「あ、えっと。私、清隆学園高等部で図書委員をしている藤原と申しますが、不破くんはご在宅ですか?」
「ふじわら…」
キョトンとした反応だった。
「あ~、あの藤原さんね。ウチのコがお世話になってます」
(「あの」って何だよっ)
心の中で突っ込んでおきながら、見えるわけでも無いのに作り笑いを引き攣らせながら由美子は猫なで声を続けた。
「えっと今日、集まろうって約束していたんですけど、不破くん集合場所に現れなくって」
「あらあら」
全然慌てていない声だった。
「それはごめんなさいね。あのコったら、いまウチでみんなと一緒にご飯にしているわ」
「みんな?」
「サトミさんとゴンドウさんと、二人でいらして」
「ご飯?」
由美子の声にわずかに混じった棘に気が付いたのか、電話の相手が少しだけ早口になった。
「いますぐ代わりましょうか?」
「いえ、今からちょっとお邪魔してよろしいでしょうか?」
「それはどうぞ。もう、お二人いらしてますから、一人二人増えても…。道、わかります?」
由美子は前に不破家の最寄り駅がこの駅だと聞いた事があった。スマートフォンを耳に当てながら周囲を見回す。マンションも複数視界に入る。
「それは…」
「ええと、いまドコにいらっしゃいます?」
「B駅です」
「ああ、それなら。まっすぐ南の税務署の前を…」
懇切丁寧に道順を説明してくれた。道順もそう複雑でなく、目印となるランドマークもたくさんあるようだ。
「それなら、すぐに向かいます。首を洗って待っているように伝えて下さい」
つい口が滑ったが、相手は優しそうな笑い声で受け止めてくれた。
「それは伝えないでおきますね。あのコ、そんな事を聞いたら逃げ出すに決まっているもの」
「そ、それでは一旦失礼します」
スマートフォンをおろすと、すでに孝之もアイコも車に乗っていた。
「すみません。寄り道は…」
「ああ、聞こえていたよ。ここから近いみたいだね」
小石が微笑みでこたえてくれた。
「さ、行こうか」
とある場所に住宅地があった。何のことは無い、建売住宅や、時代を跨いで建っているような木造注文住宅、さらに安そうなボロアパートなどが混然一体となっている、東京ではかえって自然な風景だ。
自転車を使えば楽にJRと私鉄の接続駅に出られるとあって、地価もそれなりにする。健脚ならば歩いて駅まで行ける程だ。
その住宅地に白い軽自動車がやってきた。
改造車などではない。逆に漁港から耕地まで、さらに出前から営業まで使用されているような、日本ならどこでも見かける、何の変哲もない車である。
ノロノロと道に迷った風にやってきた軽自動車は、同乗者にほとんどショックを感じさせない程丁寧にブレーキをかけて止まった。
すぐに助手席の扉が開き、レモンイエローのチューブトップワンピースを着た少女が飛び出すように降りてきた。
軽自動車が停車した一軒の建売住宅を睨みつけるように見上げる。
表札を見て一つ頷くと、少女はズカズカといった印象で、その建売住宅へと乗り込んでいった。
しばらく間が空いた後、その家から小気味のいい金属音のような物が三回聞こえてきた。
それから絶対死のような沈黙がおりたあと、魂の底から発せられた悲鳴の三重奏が周辺に轟いた。
ハックション!
熱帯夜に対抗するために入れっぱなしになっているエアコンを、アキラは見上げた。
「ちょっと強いかな?」
下の階で、まさか(アルコールのせいもあろうが)母親が勝手に自分の縁談を進めているとは知らずに、アキラは二階にある自室にいた。
「ええと、下の英文を行文Aに留意して和訳せよ?」
自分の学習机に向かっている理由は、夏期講習で習ったところを復習するために配られたプリントである。
「ええと、この場合Whatがここで…」
アルファベットが飛び交う思考を邪魔するように、部屋の扉がノックされた。
「はあい」
「いま、いいか?」
訪れたのはヒカルであった。
「お、おう」
学習机に向かったまま硬直したアキラの手から、ポロリとシャーペンが落ちた。
「どうした?」
首だけで振り向いたアキラが見たのは、ここのところパジャマ代わりにしている黒いジャージを履いて、上は白いタンクトップ姿のヒカルが、顔を赤くして自分の枕を抱きしめて立っている姿だった。
「今日はコッチに居ていいか?」
「お、おおう」
気を呑まれた返事をして、ガクガクと不器用に頷いてしまう。だが、いつまでもドアのところに立っているヒカル。
「冷房が逃げるから、とりあえず入ったら?」
廊下から熱帯夜の空気が侵入してきた。まあ先程クシャミをしたぐらいであるから、室温は丁度いいぐらいになったのだが。
「あ、うん」
ヒカルが扉を閉めるのを見たアキラは、再びプリントに向き合うことにした。
後ろでポスンという軽い音がした。ヒカルが抱えてきた枕を、アキラのベッドに投げ捨てた音だ。
「ええとWhatが…、うひゃあ」
後ろから椅子の背もたれごと抱きすくめられて、アキラは変な声を上げてしまった。
「ちょ、ちょっと…」
「今日は、一緒に寝ようぜ」
「そ、そんな…」
甘い声で囁かれて、アキラの心拍数が急激に上がっていく。風呂上りらしい湿った髪の毛が冷たく肌に触り、それと対照的に柔らかいヒカル自身の肌が、アキラの背中に押し付けられる。ほうっと溜息の様につかれた吐息が、耳朶をくすぐってこそばゆい。
(あれだけエロスがどうのとか言って癖に)
目を白黒させながら戸惑うアキラ。椅子の背もたれに邪魔されてはいるが、明らかにヒカルの膨らみが背中に当たる。
実母である香苗から感じた事の無い、女性の魅力が伝わって来る。
だが何よりもアキラが感じたのは…。
「酒くせえっ!」
それから逃れるように、ヒカルの腕を振りほどきながらアキラは慌てて立ち上がった。
「なんだよ」
口を尖らせて不満な様子を見せるヒカルに言い返す。
「それはこっちのセリフだ!」
「好きって言ったのは嘘か?」
「せめて男になってから言えって言ったのは、そっちだよなあ」
「別にエロい事をしに来たわけじゃねえよ」
「へ?」
ヒカルの声があまりにも寂しそうだったので、気勢が削がれた。
「ちょっとだけ、一人でいるのが嫌だっただけだ」
いつもは変な言い訳をするヒカルが素直に告白するのを聞いて、かえって身構えるアキラ。
「なにキョロキョロしてんだよ」
「アキザネの仕掛けたイタズラか? どこかにカメラを仕掛けて…」
「そんなことねえよ」
ヒカルは髪を掻き上げると自嘲気味に表情を歪めた。
「いきなり変な事言って悪かったな。忘れてくれ」
そのまま出て行こうとするヒカルの腕を、今度はアキラが掴んだ。
「?」
「あ」
自分で自分の行動が理解できずに、アキラの口から変な声が出た。
だが、ここで引き留めないとヒカルがどこかへ行ってしまいそうな、心細さのような物を感じたのも事実だ。
「ひ、一人が嫌なんだろ」
声が裏返らないように気を付けながらアキラはヒカルの目を見て言った。
「う、うん」
素直にうなずいたヒカルは、ドアにかけていた手を引いた。