八月の出来事B面・⑥
散らかった倉庫のような空間で、アキラとヒカルが融けていた。
まだなんとか使える程度に壊れた椅子に、骨が無くなったかのようにだらしなく座っていた。
それというのも、この部屋に空調という物が存在しないからだ。さらに付け加えるならば、窓はテニスコートに面した側に一枚あるのみ。左右は不愛想なコンクリートの壁である。
廊下と繋がっている扉は、まるで潜水艦の耐圧ハッチのようなごつさであった。ドアクロージャーの力で閉まらないように、今は机で押さえてある。
廊下にはいちおう空調がかけられているはずなのだが、昨今の地球にやさしくという標語を言い訳にした学園側のエネルギー政策(ようは電気代をケチっているだけだ)により、全然涼しくない。
辛うじて全開にした窓から、そよ風のような物が入ることがあるが、夏の日差しに焼けたテニスコートを渡って来た風である。バスの排気ガスと比べて、有害物質が含まれるかどうか程度しか差が無い。
この座っているだけで熱中症一歩手前の部屋が、明実が今春に創設した科学部の事務局ということになっていた。
「あつい」
背もたれに後頭部を乗せ、天井を向いたままのアキラが呟いた。いや呻いたのかもしれない。
「言うな。その単語を聞いただけで気温が上がる気がする」
さすがのヒカルも、この気温では声に張りがない。咥えたキャンディが口元から零れ落ちそうだ。
涼しい大学から一転し、地獄の釜の上、いやその中にいるようである。
二人の前にある学習机の上には、空になったお弁当箱が二つ。こびりついた白米の残滓が、すでに乾ききっていた。
最初の内は、お互いをウチワやセンスで扇ぎ合ったりして、仲良くしていた。それから段々と室内の不快指数に比例して口数が少なくなり、そして現在に至っていた。
「あのバカは、いつ来るんだよ」
ぐったりと横向きに椅子からずり落ちそうになりながらヒカルが訊いた。
「すぐって連絡が…」
持ったままの携帯電話を持ち上げるアキラ。
「それ、さっきも言ったよな」
力無く非難するヒカル。
「来ない本人に言えよ」
「居ないバカに言っても無駄だから、居るバカに言ってるんだろ」
「なんだよそれ」
よいしょと顔をヒカルに向ける。
「なんだよ」
力無いながら、お互い睨みあう。が、指を動かすのも面倒だ。
「来ねえなら、移動するか? 涼しいところに」
「そうだな」
よいしょっと勢いをつけてアキラが立ち上がった。
「どこ行くんだよ?」
「だから、涼しいところ」
「この学校の、ドコにあんだよ」
ヒカルに指摘されて、はたと困る。行く先を特に思いつかなかったからだ。いちおう夏休み中にも各部活動へ配慮して、空調は動いている。だが空調が『利いている』のと『動いている』のには、かのルビコン川よりも深くて広い溝があった。
「ま、ここよりかは涼しいだろうぜ」
ヒカルもよいしょと立ち上がった。
「待たせたな!」
そこへバーンと明実が白衣をなびかせてやって来た。
もちろん白衣の下は高等部の夏季制服である。左手にはエコバッグ、そして右には肩に筒のような物を抱えていた。
筒には、どう見ても銃把のような物が取り付けてあり、そこに引き金のような物までついていた。
ありていに言えば、ロケットランチャーに見える物を肩に担いでいるのだ。
「な、なんだ?」
そんな物騒な物を持っているというのに、二人からの蝋人形のような視線を下から受けて、明実がたじろいだ。
「おせえよ」
「なんだよ、用事って」
左右から力の無い声で迫られても、まったく明実は動じなかった。
「まあ、座れ。他にナイショ話をする場所を思いつかなかったのだ」
二人を椅子へ追い戻し、左手に提げてきたエコバッグの中身を机にぶちまけた。右肩のロケットランチャーは壁へ立てかける。
「暑いだろうと思って、アイスクリームを買って来たぞい。飲み物もある」
「お!」
現金な物で、市販されているカップのアイスクリームを見ただけで、二人が元気を取り戻した。立ったままの明実をほったらかして、さっそく木ベラのようなスプーンを手にして、差し入れを奪い合うように漁った。
「オレ、チョコいいか?」
「大丈夫だ。あたしゃバニラ一択だ」
その隙に明実は、よりにもよって扉と窓を閉めにかかった。
「開けとけよ。少しは違うぞ」
アイスを食べるために、一時的に咥えていたキャンディを、散らかしたままの弁当箱へ置いたヒカルが、元気を取り戻した声を出した。
「いいや、ナイショ話が漏れるとヤバい」
厳重に戸締りをチェックした明実は、さらにカーテンまで引いた。入り口の方は耐圧ハッチのような構造なので、閉めてしまえば室内で映画を大音量で見ていても廊下に音が漏れる事がないぐらいだ。
「ん~」
「いきかえる~」
二人が生気を取り戻した声を上げている間に、明実は白衣の懐からラジオのような機械を取り出した。
端面にあるツマミを動かすと、それこそラジオのチューニングのような音を立てる。
「いらつくから、それを黙らせろ」
ヒカルがスプーンを咥えたまま指差すと、明実は手を振って否定する。
「いちおう盗聴器を警戒せんとな。このオイラ特製の盗聴探知機で…」
「そんなモン、アテにならんぜ」
ヒカルはちょっとだけ左肩を竦めた。
「世の中には録音送信型ってゆー、やっかいなタイプもあるからな」
「ろくおんそうしんがた?」
アイス紙容器へ顔を突っ込む勢いだったアキラが、机の反対側でキョトンとした顔をしてみせる。どうでもいいが、ちょんと鼻の頭にチョコチップが乗っかっていた。
そんなアキラを見てクスリと笑ったヒカルは、細い指を伸ばしてその邪魔者を取ってやった。
「室内の会話を纏めて録音して、データ圧縮して送信するんだ。送信回数を一日に一回とか設定されたら、探知機で見つけるのは偶然に頼るしかねえ」
運ばれてくる間に緩くなったアイスクリームを掬い取りながら、ヒカルが事も無げに言った。
「盗聴する方も気楽にパソコンの前で待っていればいいから、呑気なもんさ」
「でも、それだと…」
鼻を擦りながらアキラは天井を見上げた。
「まあ情報の新鮮さには劣るがな。こういう場所と相手が固定されて、急がない場合にゃ最適だ」
「ふむ。とりあえず大丈夫なようだの」
部屋を一周してきた明実が、自分で散らかした机の所へ戻って来た。複数ある飲み物から迷わずコーヒー牛乳に手を出した。
「筆談でもするか?」
アキラが、立ったまま腰に手を当ててビンを傾けだした明実に訊ねた。
「ぷはあ、やはり汗を掻いた時はコレだな」などと満足そうに頷いた後に、アキラを見おろした。
「筆談はまずい。余計に、どんな会話が為されたのか証拠が残りやすいからの。まあ、この程度まで警戒すれば、大丈夫じゃろう」
そう言うとこの部屋でいつも使用しているノートパソコンを起動させた。立ち上がったところで音楽アプリを呼び出し、適当な曲をかけ始めた。
「まともな曲も聞くんだな」
スピーカから流れ出したのは外国語で「空中のアーチ」と名乗るビジュアル系ロックバンドの曲であった。
ヒカルの感心した態度に水を差すようにアキラが補足した。
「このバンド、アニソン多いからな」
「ばらすでない」
ビンを机に置いた明実は、入り口脇にある電灯のスイッチまで行って、室内を暗くした。
いくら夏の昼下がりとはいえ、北向きの窓が一枚しかない部屋である。カーテンを引けば上映会ができるぐらいには暗くなった。
「で? なにを見せてくれるんだ?」
意図を察したヒカルが、腕と足を組んで、コンクリート壁へ正対する。映画なんかを見る時は、いつもそこがスクリーンの代わりなのだ。
「例の盗難犯が映っていたとか?」
アキラもヒカルの横へ椅子を移動させた。
「そちらの話題ではない。そちらは、まあ捜査中というところか。いまはコチラだ」
そう言うと明実は、ノートパソコンに台座のついた球形の装置を繋いだ。奥行きがあまりなくても綺麗に画像を映し出すプロジェクターである。
口で「ターン」などと効果音を入れながら、明実がノートパソコンを操作した。
壁一面に、口髭を蓄えた男のアップが映し出された。
「『天使』」
ヒカルが苦虫を噛んだ声を出した。
この男が自称『天使』である。画像が引いて全身像となった。
オールバックにしている髪も、口元の髭も暗褐色をしている。肌は日焼けしているようにも見えるが、彫の深い顔と合わせて南アジア系の人間に見える。
身に着けているのは白いタンクトップとウォッシュドジーンズという、そこら辺を歩いていても、まあ違和感のない物。ただ腋毛と胸毛が溢れ出るようにはみ出しているのは、いまの日本では避けられるのではないだろうか。
この『天使』と戦って、ヒカルは重傷を負った。戦った理由は簡単だ。『天使』の方が襲って来たからである。
曰く「『施術』は生命の約束を壊す物だから、秩序を取り戻すため」らしい。もうちょっと説明すると、どんな生命も生まれてきて伴侶を見つけ、そして子を成す。親となった生命は、子を育て上げ送り出し、やがて老いて死んでいく。この神が決めた摂理から『施術』は外れるため許せないらしい。
画像の中の『天使』は、草がまばらに生えた丘に立っていた。
「これ、この前の時のか」
ヒカルが確認するように訊いた。画像の場所は、この清隆学園の敷地にある場所に見えたからだ。
「そう、正解」
この『天使』と戦っている間、明実はドローンで周囲の警戒を担当した。そのドローンが撮影した画像だろう。普通の人間より高めの視点からの画であった。
画像の中で、菱形をした銃を構えたヒカルが、引き金を絞った。服装は、上から下まで黒色で揃えてある。
一回の動作で、二回の発砲がある。これは、この銃に備わったバーストという機能で、セレクターでそれを選択しておくと、引き金を一回絞るごとに二発撃つようにできるのだ。
真っすぐ『天使』へ飛んだ弾丸二発が、その筋肉質の体へ食い込む前に止まる。これが『天使』の防御能力である。見えない力場のような物で包まれているため、弾丸はおろか単純な打撃や蹴りすら届かないのだ。
これをアキラたちは『イコノスタシス』と仮称していた。
画像は、イコノスタシスに弾丸が止められたところで停止された。
「まったく、腹立たしいぜ」
制服のスカート姿だというのに、ヒカルは椅子の上でガニ股になって、その膝に頬杖をついた。
「この忌々しいヤツがなけりゃあ、とっくに決着が着いてるっていうのによ」
確かに、画像でのヒカルが行った射撃は正確で、『天使』の顔前で弾丸が止められていた。しかも、もし防がれなかったらと弾丸の軌道を延長してみると、『天使』の両目へと辿り着く。
「でも、倒せるんだろ」
隣のアキラも、椅子の上で胡坐をかいた。
明実がノートパソコンを操作すると、その画像は少し縮小されて白い壁の右上へと寄った。残りの部分で、その続きが再生される。
道着に袴という姿をした少女が、バカみたいに大きい太刀で鞘打ちをしようとする。
この少女は、着ている物は大きく違うが、講義終了後に出会ったダイヤである。
治療のために注射された『生命の水』のおかげで、女の細腕だというのに、こんな重量兵器も軽々と振るうことができている。
その鞘打ちを『天使』は左腕で受けていた。
これが唯一あるイコノスタシスの隙である。顔面付近へ銃撃などを行った直後ならば、斬撃を入れる事ができるのだ。といっても無効化されるのは一瞬なため、その度に発砲を繰り返さなければならない。
「で? この不愉快な映像がなんだって?」
ヒカルが、まだ立ったままの明実を睨みつける。忌々しそうな態度のまま、弁当箱へ置いたキャンディの柄に手を伸ばした。
「いまさら反省会なんかしても、撃ってから斬る以外に対処法なんか見つかるのかよ」
「まあ、そう言うな。これを見ろ」
宥めるような口調で明実は画像を変えた。
今度は、すこしマニッシュなファッションをした女性が銃のような物を『天使』へ向けるところだった。
近所にいる快活なお姉さんといった印象であるが、この人物は鍵寺明日香といって『クリーチャー』の一人である。『天使』との戦いで協力はしたが、こちらはダイヤと違って信用置けない存在であった。
アスカが手にしている物は火器ではない。台座に固定された弓の力で物を発射する弩弓という物だ。
クロスボウから発射されたのは、尖らせた鉄筋であった。
もちろん、その攻撃もイコノスタシスに防がれた。
鉄筋がイコノスタシスへ刺さったところで画像が停止する。そしてまた縮小して今度は白い壁の左下へ寄った。
次に『天使』が少し驚いたような顔をしている画像が映し出される。その眼前にはボートテイル形をした弾丸が浮いていた。
その画像も縮小されて、今度は左上へ寄った。
「?」
明実の意図が分からないアキラは、不安そうに彼を見上げた。逆にヒカルは、段々と彼が考えていることが分かって来たようである。なにか期待している証拠に、咥えたキャンディの柄がゆらゆら揺れていた。
次は『天使』が、後ろから斬りかかってきた大剣を、回し蹴りで弾く瞬間だった。
大剣を操っているのは、栗色の髪をした女性である。パンツルックのレディーススーツという姿は、まるで教師の様である。この人物はクロガラスといって、この中では唯一の『マスター』であった。
教師に見えるのは当たり前で、清隆学園高等部に潜入してくるにあたって、英語教師マーガレット松山として赴任してきたからである。しかもアキラたちが所属する一年一組の副担任でもあった。
「ふん」
つまらなそうにヒカルが鼻息を噴いた。クロガラスはヒカルを『クリーチャー』にした『マスター』を殺害した者であり、仇として追っていたのだ。
第三勢力である『天使』なんか現れなければ、どちらかが倒れるまで殺し合いをしていてもおかしくない関係だ。
大剣を弾かれたクロガラスは、その反動を殺さずに半身を開けると、左手に握った銀色の自動拳銃を発砲した。
その弾丸も、もちろんイコノスタシスに止められる。
明実は、その画像も静止させて、端へと寄せた。
「なにか気が付いたことはないか?」
画像を止めたまま、明実は白い壁の前へと歩み出した。彼の白衣にもプロジェクターからの光が当たる。
「なにか?」
アキラとヒカルは顔を見合わせ、そして真剣な顔を壁面へ向けた。
どの画像も、弾丸がイコノスタシスに止められた瞬間である。
「距離が、ちがう?」
アキラが探る様に言った。
「距離?」
ヒカルがアキラの顔を見てから、画像を見直す。たしかに、それぞれの弾丸が止められた位置が『天使』から違って見えた。
「よく気が付いた」
明実がご機嫌に指を鳴らした。すると、どう仕込んであったのか、画像が切り替わった。
全ての画像が、CGで作られた人物と、その顔面へ向けて伸びる線に置き換わった。
それぞれ撮影方向が違った画像が、CGの人物に置き換わった『天使』を基準に重なり、白い壁いっぱいに表示された。
「ヒカルのクリスベクターから撃たれた弾丸は、ココ」
画像の外から赤い線が伸びてきてシルエットの眼前で止まる。
「鍵寺のクロスボウは、ココ」
次に緑の線が伸びてきた。赤い線より手前で止まる。
「応援の狙撃手が撃った弾丸は、ココ」
他の線よりちょっと上から伸びてきた青い線が、赤い線が止まった場所より進んで止まった。
「最後はクロガラスのカスタムガン」
最後の黄色い線は、赤い線と緑の線の中間で止まった。
「つまり…」腕組みをしたヒカルが、眉を顰めた声を出した。
「銃の威力によって、あいつのバリアへの食い込み具合が違う、と」
「そう、それ」
明実はヒカルを指差した。
「ヒカルが使用した銃弾は…」
「一〇ミリAUTOだ。ベクターで使うから変に火薬をいじったヤツじゃなくて、ウィンチェスターの市販品だ。大雑把に言うと、三五七よりちょっと強いぐらいだ」
「解説ありがとう。鍵寺のクロスボウは、まあ評価しないとして。狙撃手が使用した銃弾はラプア・マグナムだそうだ」
画像の端が切り取られ、テーブルに立てられた細長い実包が映し出された。広い底から真っすぐ立ち上がり、弾丸を咥えるところで直径が細くなるボトルネックという形の銃弾である。
「ラプアか。本気だったんだな」
一人納得して頷いていたりするヒカル。その顔を不安そうにアキラが見ているのに気が付くと、銃弾の画像を指差しながら解説してくれた。
「北欧のどっかが開発した御機嫌な弾で、イギリス軍が正式採用してるはずだ。こいつの特徴は、一キロ以上もの超距離を、超音速でぶっ飛ぶことが出来るんだ。たしか象だってイチコロじゃなかったか?」
「クジラの密漁に使われる程だそうだ」
明実が補足する。
「それと狙撃距離のギネス記録を出した弾でもある」
「そんなモノにまでギネス記録ってのはあんのかよ」
アキラが呆れた声を出した。
「もとは酒場の自慢話大会だからな」
「大体そんな弾。何に使うんだよ」
「戦争だ。単純だよアキラ。戦争だ」
明実は冷たい声を出した。
「防弾チョッキを着た者が機関銃を備えた陣地に籠っている時、確実に相手の射程の外から撃ち殺すための弾だよ」
「うへえ」
陣地に籠っていても危険が伴うとまで、戦場の現実に想像が行っていなかったアキラは、仰け反って声を上げた。
地面に穴を掘って隠れていれば大丈夫かと思っていた、そこまで考えてアキラは中途半端にこの間見た戦争映画を思い出した。たしか最後は、チョウチョに見とれた主人公が狙撃されて終わる話だった。
「ちょっとまてよ?」
姿勢を変えたことにより記憶回路が別の所に繋がったようだ。頭の上に電球を灯らせたアキラは、ヒカルを振り向いた。
「象もイチコロって、おまえの鉄砲もそうじゃなかったか?」
「こいつのことか?」
ヒカルは両腿に巻いたホルスターの内、右側から大きな銀色の塊を抜いた。
特別な銃弾を使用することに特化したリボルバーである。
基本は、西部劇によく登場するピースメイカーと名称がついた銃だ。それを欧州のメーカーがコピーして大型化、さらに「成人男性が片手で撃つと手首にダメージがあるため、右手で一発、左手で一発の合計二発しか撃てない」という冗句が生まれたほど火薬を詰めたバケモノ銃弾専用に特化させた銃だ。それというのも設計が古いため機構が単純で、その単純故に頑丈にできており、強力な銃弾に銃自体が耐えられるからだ。
ヒカルはさらに本体と同じステンレススチール製のバレルガードを装着して重心を前へ持って行き、精密射撃もできるようにカスタマイズしていた。そのバレルガードには飾り文字が「INNOCENCE」と彫刻されていた。
「たしかに強力な銃弾のようだの」
明実は白い壁へ向き直った。すると画像は左手を『天使』に掴まれて、地面に投げつけられるヒカルになった。
背中からドスンと叩きつけられるが、ヒカルは手にしていたサブマシンガンから手を離すと、今と同じように右腿に巻いたホルスターから、銀色の銃を抜き撃ちにした。
「だが、これでは折角の威力が減殺されていたのではないか」
画像の中で銀色の銃は発射の反動でヒカルの手からすっぽ抜け、回転しながら地面を滑って画像から退場した。
「参考にならんと思って解析はしとらんが、クロガラスの銃より届いていないようだの」
明実は白壁に映された画像を覗き込む仕草をしてみせた。
「そ、そのクロガラスの銃はなんだったのだろ」
ギリギリとキャンディに歯を立てるヒカルを見て、アキラが慌てて話題を変えた。
「ん? コレか?」
明実は画像をクロガラスの射撃に戻した。クロガラスが使用している自動拳銃は徹底的にカスタマイズされているようであり、元になった銃すらはっきりとしない。
「まあ改造してある銃だが、使用銃弾は九ミリパラであろう。威力もそれぐらいだろうしな」
世界的に一般的な拳銃弾の名前を上げる。
「そっか…」
アキラは天井の方を見上げると、頭を働かせた。
「威力によって食い込み方が違うとすると、オレのアレは?」
「それなんだが」
明実は眉間に皺を寄せた。画像が切り替わり『天使』へ向けて右拳を突き出したアキラという場面だ。
アキラが何事か叫ぶと(画像に音声はついていなかった)その右肘から先が、とんでもないスピードで飛び出した。
これがアキラの必殺技『ロケットパンチ』である。もちろん自然に身に着いたわけではない、春の事故で死にかけた彰から、アキラへと『再構築』したついでに、明実が授けた力である。
三月には襲撃者を撃退。四月には仇敵を撃破。五月には血路を拓くのに使用。その度に、本当に必殺技として機能した拳であるが、画像の中ではそれが『天使』の手前で停止する。
イコノスタシスに止められたのだ。
「どうやら鍵寺のクロスボウよりは食い込んだが、他の弾丸とは比べ物にならない程だのう」
「ちぇ」
「おまえは修羅場にゃ向いてないんだから、おとなしく後ろで見てればいいんだ」
今度は逆に、唇を尖らせるアキラに、ヒカルがからかうような声をかけた。
「まあロケット推進の悪いところが出たな」
画像を覗き込むように見ていた明実が振り返った。
「一般的に言ってロケットは、その推進剤を使いきる直前が、最も運動エネルギーを持っているからのう」
「じゃあ、あれは何だったんだよ」
尖らせた唇のままアキラが質問した。明実がとても嫌そうな顔をする。
「あれ?」
ヒカルが訊くと、渋々といった態度で画像を切り替える。
地面に血を流して倒れているヒカルに『天使』がクロスボウを向けた瞬間であった。
その太い指がトリガーを引く瞬間に、広い背中へ右腕が無いアキラが肩から体当たりをする。さすがに体格差があるから『天使』は転んだりしなかったが、体勢は大きく崩れた。
発射されたクロスボウの矢は、ヒカルの顔からそう離れていない地面へ突き立った。
それから『天使』は驚いた表情で、アキラを振り返った。
その腹へ向けて、アキラが残された左拳を突き出し、そして発射した。
あれだけイコノスタシスに止められていた攻撃が、あっさりと通る。『天使』の鳩尾あたりに食い込んだアキラの左腕は、そのまま飛び続けた。もちろん『天使』の体と一緒にだ。
画像は倒れているヒカルと、残心のように発射の体勢を取り続けるアキラで固定されていたので、『天使』は画面の中から退場することになった。
その後、ドローンにより周囲を捜索したが、アキラの左腕は見つかったものの『天使』の姿は現在に至るまで発見されていない。
「機構的に、左右で違いはありえない」
明実が渋い顔で言った。どうやら解明不明の事象に対して、いまだ仮説が立てられていない自分が嫌なようだ。
「左の方が心臓に近い」
ヒカルの指摘に、明実は頭を掻きむしった。
「たしかにそうなんだが…」
「心臓に近いと、何か違うのか?」
「これだから、おまえはマヌケなんだ」
「ちょ、なんで」
呆れた顔をヒカルに向けられてアキラは気色ばんだ。
「あたしたちの心臓には『生命の水』が詰まっているって教えたろ」
「あ…」
ヒカルの指が伸びてきてトンと胸を突かれて思い出した。『クリーチャー』は月一回程度の頻度で『生命の水』を注射しないと生きていけない。体内に注射された『生命の水』は、消えて無くなるわけではなく、どうやら心臓に集まるようなのだ。
とある事情で『生命の水』が必要になった時、アキラは実際に自分の心臓から注射器で抜いたことがあるから間違いない。
激痛と言う表現を超えた痛さを思い出したアキラは、その時に自分で針を差した辺りを撫でた。
たしかに右腕より左腕の方が近い。
「つまり、科学的には同じはずだが、右腕よりも左腕のほうが『生命の水』がより多く含まれている可能性が高い」
「でも…」
明実の言葉に、さらに考えを巡らせるアキラ。
「『天使』の下っ端の時は右だったような…」
「そうだっだか?」
ヒカルも腕組みをして上を向いた。咥えたキャンディの柄までもが上を向く。
「残念ながら記録に残していないが、確か両手で突き飛ばしたはずだ」
迷いが無いのは明実だ。
「じゃあ、やっぱり左手のおかげかな?」
アキラは自分の両手を見た。男だった頃に比べて小さくなった掌。
「生命線が切れてるんじゃないか?」
横から覗き込んできたヒカルは、そう言うとニッと笑った。
「やめてくれ、縁起でもない」
慌てて両手を隠すアキラ。それを放っておいて、ヒカルは明実を見上げた。
「じゃあ、これからはアキラの左を切り札と考えればいいのか?」
「まだ確証はないから断言はできんな」
「このふざけた腕を、あたしに着ける事は?」
「それは無理であろう」
明実は腕組みをすると、顎に手を当てて思案顔になった。
「ただでさえ生命維持に支障があるやもしれんのだ。ここでオイラの手でヒカルの身体を弄るのは、よくない」
「支障って」
アキラが心配顔になってヒカルを見ると、ヒカルは肩を竦めてみせた。
「なにも今日明日におっちぬってわけじゃねえんだ。んな顔すんな」
「そうさのう」
明実は声のトーンを軽くした。
「事故などがなければ、十年後の保証は出来ぬが、来年ぐらいまでは大丈夫であろう」
「十年…、二十五じゃねえか。そんな…」
「ああ、アキラよ」
呆然とするアキラに、明実が注意する。
「ヒカルは、そんな若くないと思うぞよ」
「悪かったねえ、年増で」
一気に機嫌を悪くしたヒカルは、そっぽを向いてしまった。
「で、これでナイショ話とやらはお終いか? 暑くてかなわねえ」
「いや、ここからが本番だ」
明実が手を振ると、画像が切り替わった。
海の上を進む護衛艦という勇ましい画像だ。だが実物を見てきた二人にはすぐに分かった。これは明実の実験で標的となった模型艦の方だ。
あの時に収録したものらしい。見る間に上空から鉄槌が下されたように大きく艦が揺れると、大爆発を起こした。
「何度見ても、もったいねえな」
ヒカルの感想に、アキラも頷く。
「模型の『いわて』は、沈没を逃れて、現在横須賀に回航中だ」
画像が再び切り替わると、真っ青な海を広い甲板を持つ艦が航跡を引いて進む様子となった。右舷に同じく護衛艦を模した艦が支えるように寄り添っている。右下に赤い枠でLIVEの文字があるから、いま現在の様子なのであろう。
「で? この戦争ゴッコがなんだって?」
ヒカルがつまらなそうに訊いた。
それに対して、よくぞ訊いてくれましたとばかりに振り向いた明実は、ニヤリと顔を歪めた。
「甲板の素材は分かっておる。そして破孔の大きさもだいたい推察できる」
「ちょっと待て」
ヒカルは体を起こした。顔が少し強張っていた。
「まさか…」
「いや。これだと、せいぜいラプア・マグナム程度の威力しか出ておらん」
「じゃあダメじゃねえか」
ヒカルはつまらなそうな顔に戻ると、再び自分の膝に頬杖をついた。
「これだとな」
さらに顔を歪める明実。
「おいおい」
アキラが天井の向こうを気にしながら明実に訊いた。
「まさか、それ以上の奴で狙ってんじゃねえだろうな」
なにしろ明実の実験で何度も酷い目に遭わされてきた身である。いつだかの夏休みの自由研究では、明実製全自動サカナ三枚下ろし機と、包丁で斬り結ぶはめになった経験がある。
こんな不老不死に近い身体になったいま「ちょっと威力を試したい」程度の理由で狙撃される可能性は、逆に高まったかもしれない。
「安心しろ」
ニッと笑顔の質を変えて明実。
「球数はそんなに無いから、ぶっつけ本番となる」
「やっぱり仕込んでんじゃねえか」
「これは市販のBB弾であったが、テフロン加工した鋼球を一ダースほどな。プラスチック製の弾でこの威力だ。最低でもAPFSDS程度の威力は出ると考えられる」
「えーぴーでー?」
聞き慣れない単語にキョトンとするアキラ。
「APFSDSだ。戦車の徹甲弾だよ」
明実が解説してくれた。
「いまの戦車は装甲が硬いじゃろ? その装甲板を撃ち抜く弾だ。もう少し詳しく言うとマッハ四から五でタングステンの棒をぶつけてユゴニオ弾性限界値を突破するのだ」
「へええ」
後半はジュゲムと同じで聞き流したアキラが、感心したような声を上げた。
「だがよ」
身を起こして腕を組んだヒカルが冷静な声を出す。
「超音速なのはいいが、着弾まであれだけ時間がかかる狙撃だろ。どうやって足止めするんだよ」
「それなのだ問題は」
明実は憂鬱そうに額へ手を当てた。
「最低でも一〇分、衛星の位置などでは最悪三〇分は標的を固定せんといかん」
「はぁ?」
とんでもない場所からアキラの声が出た。
「あんなの三〇分どころか、三分だって無理だ」
なにせ筋肉の塊のような肉体だったのだ。体当たりした時だって、ぶつかったコッチが痛かったぐらいである。
「それもおいおい考えよう。なんにせよこれからだ」
「間に合えばいいけどよ。おそらく次は死人が出るぜ」
「もう死んでいるようなもんじゃないか」
アキラの一言に、軽く拳が飛んできた。
「いて」
腕の長さの関係でそんなにダメージがあったわけじゃなかったが、驚いてアキラはヒカルを見た。
「痛いか」
「なにすんだよ」
「じゃあ生きてんだ。そんなこと言うな」
そのままプイッと反対を向いてしまった。
「で? これがナイショ話?」
いい機会とばかりに話題を変える事にした。
「暑いんだけど」
「こんな話、研究所でできるわけなかろう」
「はあ?」
またもや素っ頓狂な声が出そうになって、アキラは自分を抑えた。
「あれだけ物騒な物をたくさん作っておいて、いまさらナイショ?」
「物騒な物?」
アキラへ聞き返す明実。その顔は真剣で、そんな物ドコにあるのだと言っていた。
「あのバカでかいライフルとか、模型の戦艦とか」
「もしかして『マーガレット・スピンドルストン』の事を申しておるのか?」
先月完成した明実の新作である。冗談みたいな大きさのエアーライフルで、まるで数百年ぶりに新設計されたA級ヘビーメタルの改造機が持っていそうな、実用性が全くない物であった。
とはいっても物理部での衝突実験に使用するためという理由で製作されたもので、あくまで実験道具というカテゴリーの物だったが。
「それとアキラは軍艦と戦艦という単語の誤用をする癖がまだ抜けないとみえる。戦艦とは、最大の火砲と装甲を持った漢の艦であり…」
「わかったから」
説明させると長くなるのを身に染みて知っているアキラは、手を振って明実の言葉を遮った。
「で、なんでナイショ話?」
「それは…」最後まで喋らせてくれなかったのが不満であるのか、明実は腕を組んで口を尖らせた。
「宇宙憲章第四条に抵触する恐れがあるから」
明実の言葉を聞いて、アキラとヒカルは顔を見合わせた。
「はい?」
「宇宙憲章だ。知らんのか?」
聞き返したアキラにつまらなそうに明実が確認する。
「たしか宇宙空間の軍事利用を禁止するとか何とかだったよな」
ヒカルが助け舟を出した。
「正確には『宇宙空間における探査と利用の自由。領有の禁止。宇宙平和利用の原則。国家への責任集中の原則など』であるな。なにも軍事利用を禁止しているわけでは無い。その証拠に、こうしている今も大国はICBMで睨みあっておるではないか」
「あれが戦略兵器かねえ」
ヒカルの目が壁に向いた。画像はいまだ大破した模型船であった。
「少なくとも兵器ではあるの」
悪びれない明実。
「これ見てジエータイの人は喜んだのか?」
アキラの質問に、とても厭らしい笑顔が返って来た。
「とても残念がっておった。なにせ模型の船すら撃沈することができぬ代物と分かったからの。逆にサトミなんかは、次回はもう少し威力のある事に期待するとか何とか言っておったな」
「それって、隠し玉があるの知ってるぞって暗に言ってないか?」
「さて~」
あくまでも惚けるつもりのようだ。わざとらしく腕を組んで首を傾げて見せる。
「なんにせよ」
パシンと左手に右拳をぶつけたヒカルが明るい声を出した。
「どこかから戦車を盗み出すよりは現実的な案が出てきたぞ」
「足止めできれば、だろ」
薄々自分がその足止め役となる気がするアキラは気の入らない声を漏らした。
「で? そいつは何だ?」
ヒカルの目が、立てかけられた筒状の物へ向いた。
「こんな感じでというつもりで、持ってきたのだが」
明実は再びその見た目が物騒な物を担ぎ上げた。迷わず筒先をアキラへ向ける。
「おい!」
今にも対戦車ロケットが自分に向けて発射されるのではないかと、アキラは椅子の上で体を丸めた。
ニヤリと顔を歪めた明実が、トリガーを握った。
ポンという軽い音と共に紙吹雪が発射された。どうやらパーティグッズだったようである。
「こんな感じで、アキラの左腕を発射できるようになれば便利じゃろ?」
「デカすぎだ」
ヒカルが眉を顰めた。
「今じゃ、そんな大きさした兵器なんて、実用的じゃないからな」
「ふむ。やはり小型化が必要か」
「せめてエイティフォーか、M七二ぐらいにしろ」
「ふむ。考慮しておこう。どちらにしろ完成したあかつきには、試射を行わなければならんな。その時は頼むぞい」
筒を肩から降ろした明実は、顎に手を当てて考え込むふりをした。それに対して紙吹雪まみれになったアキラは、また自分の膝に頬杖をつきながら言った。
「スイッチを押したら自爆なんてことが無けりゃいいけどよ」
「いや、自爆スイッチは漢のロマンだろ」
明実の主張に呆れた顔になったアキラは、似たような表情になっているヒカルと顔を見あわせた。
「ふーっ」
ここは新宿百人町。下界の者を見おろすように立った高層マンションである。
今日の講習を終えた由美子は、自分を運んでくれた高速エレベーターから降りると、大きな溜息をついた。
(まさか…)
自分の顔が赤くなっていることに自覚があった。
(自分から誘っちゃうなンて)
今日の昼のことである。由美子は夏期講習で行っている清隆大学の構内でサトミと出会った。そしてサトミが他の学校から講習を受けに来ている女子生徒と仲良さげに話しているのを目撃し、ここのところ溜まっていたモヤモヤがピークに達してしまった。
まあ花子が横から煽ったという事もあるが、ついサトミに自分から話しかけ、いつの間にか花火大会という名目で今度遊ぼうという事になってしまったのである。
(もう、夏の間は関わらなくて済むと思ったのにっ)
ギリギリと歯噛みをした。
ちなみに、サトミと仲良く話していた女子生徒というのは、他の学校にいるサトミの姉であった。
兄弟姉妹ならば親しくしていてもおかしくはなかった。
(いや、絶対デートじゃないからっ。デートじゃっ。ちょろっと遊ぶ約束をしただけだからっ。ハナちゃんが、ンな花火大会の計画をするプリントなんて持って来っからっ)
自宅がある階のエレベーターホールで悶絶しながら、同級生へ頭の中で当たり散らす。
(いやそもそも、あのバカが兄弟姉妹だっていうのに、あんなイチャイチャしてンのがいけないのよっ)
今度は、性別がどちらか分からなくなるほどの面差しを持った、自身の頭痛の種へ矛先を向けてみた。
肩にかけてきた自分の通学用バッグを小脇に抱え、ヘッドロックをかけた相手にするように、反対の手でドスドスと殴りつけてみた。一行に気分が晴れない。
(いや、おかしいだろ。あのお姉さんもっ)
四月に入学してから、毎月投票が行われるという噂の『学園のマドンナ』に連続選出されているクラスメイトがいた。その娘も、この世のものと思えない程の美人なのだが、サトミの姉は彼女とは違った美しさを持っていた。
二つしか歳が離れていないはずなのに、由美子では到底醸し出せない、大人の女性が持つ艶気と呼ぶのが最適な魅力に溢れていたのだ。
(え~っ、私の出番、回想シーンのココだけ?)
脳裏にクラスメイトの声が響いたような気がした。
(あたしも、あンな風になれば…)
エレベーターの枠が銀色をしており、鏡ほどでは無いが物を映すことができた。
そこには、紺色の制服を着た女子高生が、あろうことかガニ股になって荷物を抱え込み、固く握った右拳をめり込ませていた。
(…)
別の意味で顔の赤さを濃くした由美子は、まっすぐ立つと胸元のネクタイを修正した。
二目と見られない醜女ではない自信ぐらいはある。これでも由美子だって女の子だ。自分の顔ぐらい毎日チェックはしていた。
スタイルだって中の下ぐらいだと思っていた。
その場で一回転してみて、おかしいところが無いか見たが、背姿だって普通だと思えた。
(普通の女の子より、あからさまに下ってことはないと思う。思うけど…)
再びサトミの姉の姿が脳裏をちらついた。間違いなく最上…、いや極上の存在であった。
社長をしている父親に連れられて、政治家主催のパーティとか、財界主催の立食会とかに出席したことがあった。そういう場に彩りを与えるためか、コンパニオンの若い女性が給仕をしていたりした。
自分より年上の彼女たちを見て、女の武器という言葉の実感を得たことがある。
そんなプロの女性たちよりも、確実に彼女の方が美しかった。
この先、あの美貌を利用してそういった仕事に就くこともできよう。なんなら芸能界に居てもおかしくないぐらいだった。ただ彼女が纏っていた威圧感、そうオーラと呼ぶべき雰囲気は、色で男たちに媚を売るような感じではなかった。
あきらかに帝王の風格を持っていた。
(いや、女だと女帝かしら。自分もいつか大人になったら、あンな女性になることができンのかしら?)
つい先日、科学部総帥の肩書を持つ明実が発明した、怪しい機械で見せられた夢を思い出す。その中で由美子はたしかに大人の女性だった。
その夢の中で杯を交わした相手が、大人になったサトミだったことを思い出して、また赤くなってきた。
(せっかく落ち着いて来たのにぃ~。ん?)
自分のポケットに違和感があった由美子は、そこからスマートフォンを取り出した。
図書室のメンバーでグループを作っているSNSに新しい書き込みがある事を知らせる表示が出ていた。
迷わずタップすると、よりにもよってそのサトミからの書き込みであった。
『姐さんへ。今夜、夕食でもどお? もちろん二人きり…(ポッ)なんてことは無く。空楽と正美も一緒だけど。花火大会するんでしょ? 姐さんの提案に乗るのもいいけど、もっといい場所を知っているんだけど、打ち合わせをしようよ』
打ち上げ花火のアニメーションまでついていた。
「夕飯かぁ…」
すかさず画面を切り替えて曜日を確認した。大丈夫だ、今日はカラアゲの日ではない。
ちょっと考えてから、由美子は歩きながら返信を打ち込み始めた。
「あれはハナちゃんの企画だから、ハナちゃんと話してみてね。こンな感じかな」
どこで話そうにも新宿にある由美子の自宅と、サトミの住んでいる場所は離れている。詳しい住所は知らないが、由美子が電車バス通学で、サトミは自転車通学のはずだ。
右手でバッグのサイドポケットから鍵束を取り出し、左手はそのままスマートフォンをポケットへ。その途端に、またブルブルとスマートフォンが振動した。
サトミからの返信である。
『ほらハナちゃんも打ち合わせ来るって。だからF駅に集合して、適当なところに入ってご飯するでどう?』
確かに一つ上の書き込みは花子の物で、あまり遅くならないなら出てもいいというようなことが書いてあった。
由美子は画面隅に表示されている時刻を確認した。F駅とは清隆学園がある自治体の中心にある私鉄の駅だ。新宿からは電車一本で行ける。だが、夕食という名目ならば、すぐに出ないと間に合わない時間だ。
花火大会をする羽目になったもう一人の元凶である花子も、電車バス通学である。が、そんなに清隆学園から離れた所に住んでいるわけでは無い。やる気になれば自転車で通学できる距離なのだが、おしとやかな彼女は公共交通機関を使用して通学していた。
「もう家に着いてる。明日じゃダメか、と」
文面を作成して送信しようとした途端に、別の通知が画面に表示された。
今度はメールである。
「忙しいなあ」
とりあえず送信は保留しておいて、そちらの方を開いてみる。するとそちらは孝之からであった。
『今夜、天文部で観測会を行うんだけど、参加しない? 場所は高等部C棟の屋上なんだけど。今日はきっとアンタレスが綺麗だよ』
「む」
口に出してムッとしてみる。考えるよりも先に指が動いていた。
「大事なカノジョと楽しめばいいんじゃないの? それとも、また倒れる予定でもあるのかしら、送信っと」
その嫌味を含んだ文面に痛痒を感じないのか、すぐに新しいメールが届いた。
『木星も丁度見頃だよ? 土星はちょっと遅くなるけど、月が沈んだ後だから輪っかがはっきり見えるんじゃないかな。天文部のみんなも参加するし、中等部の後輩たちも来るって言うし、賑やかな観測会になると思うけど』
(うっ)
文面を読んで由美子がたじろいだ。もともと星には興味がある方だったし、一度でいいから木星や土星を望遠鏡で覗いてみたいと思っていたのだ。
つい廊下で立ち止まった由美子は、震える指先でメールを返していた。
「今から行って、学校に入れるのかよ、と」
すぐ返事があった。
『大丈夫。学校に近いB駅に集合して、みんな集まったところで先生やOBの先輩がたの車で、裏から入ることになっているんだ。あ、私服でも大丈夫だよ』
(B駅か…)
ついこの前、海水浴に行くために集合した駅である。サトミが言い出したF駅の隣だし、幸い普通列車だけでなく急行から有料特急まで全ての電車が停車する。
藤原家では鍵を解除する前にインターフォンを二回鳴らすことが決められていた。鍵を持ったままの右手でインターフォンを鳴らしつつ、今度はSNSの方へ画面を切り替えた。
『F駅じゃなくてB駅に集合でどう?』
由美子が玄関の扉を開けている間に反応があった。
『え~っ。食べるところ少ないじゃん。ヤキトリ・オウギとか三代目メロン駅前店とかさあ』
「全部、飲み屋じゃねえか」
『あとは全国展開しているくせに食中毒を出した某有名チェーンか、店主が入院してから不味くなった平野蕎麦店ぐらいしかないじゃん』
その情報が無ければ後から追加されたどちらか二店でよかったろうが、余計な一言で食欲が湧かない事この上ない。
(さて、どうすっか)
由美子は時系列を整理しながら靴を脱いだ。
(F駅に行く、話す、B駅に移動して天文部に合流でいいかな?)
ここからの電車移動を考えると、現地では立ち話程度の時間しかないはずだ。それならばいっその事と、由美子は指を画面に走らせた。
『今夜は天文部の観測会があるからB駅にしたい。それが嫌なら明日にするか、それかおまえらも参加しろ』
すると、あんなに早く返ってきていた書き込みが止まった。
「?」
静かになったスマートフォンを見た由美子は、思考を切り替えた。
(どちらにしろ、また学校の方へ行くのは変わンないもンな。着替えよ)
由美子は自室へ入って着替え始めた。
夏らしくレモンイエローのチューブトップワンピースに着替えていると、ようやく返事が着信した。
『B駅でいいけど。オレは観測会、行かないよ』
字間からなぜか幼子の様に膨れたサトミの顔がチラつくような気がして、つい由美子は吹き出してしまった。