八月の出来事B面・⑤
バスが清隆学園前にある停留所に着くと、そのドアから大量の制服を吐き出した。
今は夏休みのはずである。しかし清隆学園の生徒は遊んでばかりいられなかった。エスカレーター式に高等部から清隆大学に進学する生徒が多い中で、一部の生徒は他の国公立大学や有名私大などの受験組だからだ。
そのため一年生の段階から(もちろん三年生まで)各教科の夏期講習が用意されていた。
一学期の期末試験をしくじった連中は、空調が効かない高等部校舎で汗をかきかき追試を受講するが、こちらの講習は寒いぐらい温度が下がる大学の校舎で行われる予定だ。
バス停から学園を横断するように、トラックが四台は並んで走れるような幅広い道が続いていた。本当かどうか真偽は不明だが、昔は飛行機の滑走路だったと言われている道だ。
その真っすぐな道を、ドヤドヤとたくさんの生徒たちが歩いていた。その誰もが、講習が割り当てられた講義室を教えてくれるプリントを片手に、迷子寸前の顔である。
大学のサークルと一緒に活動する部活動などを除けば、ほとんどがこちらの建物を利用したことが無いのだから当たり前だと言える。
その大多数の中に、意志を感じさせる視線を持つ少女が一人混じっていた。
誰でもない、藤原由美子その人である。
夏期講習でも服飾規定は有効という事を忠実に守っている由美子も、周囲と同じ紺色の夏季制服に身を包んでいる。肩にはいつもの通学用のバッグ。肩口がヒリヒリするのは今週行った海水浴のせいである。
周囲を泰然とした表情で見回してから、由美子も他の生徒たちと同じプリントを取り出した。
(<数Ⅱ>の講義室は…)
図書委員会副委員長の激務をこなす由美子の成績であるが、いちおう誰に見せても恥ずかしくないレベルを維持していた。このまま清隆大学への進学を考えるのなら、特に受講しなくてもいいくらいだ。
だが彼女にだって自分で選びたい道がある。そのためには進みたい大学の学部という物があり、清隆大学ではダメなのだ。
もちろん今週から始まった三者面談で、母親と教師には自分の進路希望は告げてある。両者とも、由美子の学力ならば心配はないだろうと、納得してくれたようだ。
「外を回った方が近いか」
人ごみの中で独り言ちる。
人員整理のバイトが誘導するままに、大学の正面広場まで来てしまったが、どうやら由美子が受ける<数Ⅱ>の講義は、こちらの方向では無いようだ。
周りを見回せば、他の女学生たちは、たいてい複数で行動していた。その中で彼女は取り残されたようにも思えた。
普通の娘ならば仲の良い友達とスケジュールを合わせたりして行動するのだろうが、生憎と由美子にはそういった相手がいなかった。
それというのも図書委員会の仕事が忙しいからいけないとも言える。普通の高校ならば、図書室のカウンター当番と、やって蔵書整理程度で済むが、清隆学園高等部の図書委員会は、校内でやり取りされる文書の管理も職務に含まれるのだ。
その文書には、権力争いをする各委員会が交わす秘密文書みたいなものまで含まれるから大変だ。万が一にも「無くしました」なんて事態になったら、どんな目に遭わされるか分からない。さらに、そういった秘密協定みたいな物を締結する場に、中立的な第三者として立ち会う事すらあるのだ。
本来ならば一年生のやる仕事ではない。図書委員会にも、ちゃんと二年生の委員長が居た。
しかし今期の委員長はまったく仕事をせずに、放り投げっぱなしで、普通の図書室運営の仕事にすら顔を出さなかった。
かといって、そういった仕事を誰もやらないわけもいかず、重責は全て副委員長の由美子の肩にかかってしまったのだ。
そういった委員会の忙しさにかまけて、クラスメイトと帰り道にお茶していく、なんていう普通の学生生活を送れていないのが、由美子の現状であった。
教室で会話するのは、クラス内で同じ班に所属する女子三人と、同じく図書委員であるはずの孝之、それともう一人校内で有名な変態の一人ぐらいだ。
あとは図書委員会の方で親しくしている、もう一人の副委員長である花子と、図書室の常連客ぐらいが彼女の学内での交友関係の全てだった。
(まあ、ハナちゃんとだったら一緒に受けてもよかったかな)
和風美女の横顔を思い出す。並んで歩くと、すれ違う男子の視線はすべて彼女の方へ向いているのが分かる程の美しさなのだ。由美子だって女の子だから、それはそれでストレスがかかるのだが、一人ぼっちとどちらがいいか天秤にかけてもいいかもしれない。
そんなようなことを考えながらアスファルトを進んでいると、たくさんの制服の中に見知った顔が混じっているのを見つける事ができた。
(真鹿児じゃない。よかった、体調は戻ったようね)
先週、見舞いに行った時に変な事を口走っていたから、精神的にもキているのではないかと心配していた。それも大丈夫なようだ。
いつもの冴えない顔に、少し崩れた制服、そして後頭部には、これまたいつもの寝ぐせ。終業式前と変わらない姿で、飄々と由美子の前方三十メートルほどを歩いていた。
(アイツなら結構あたしと講義が重なるかもしれない)
一人ぼっちよりはいいだろうと声をかける事にする。それには足を少し早めないといけないだろう。
そう決心した時に、当の孝之が半分だけ振り返った。
(⁉)
教室では見せないような横顔で、並んで歩いている人物と楽し気に会話を始めた。これだけの喧騒であるから、会話の内容が由美子へ届くことは無いが、その明るい表情から内容は察しがついた。
孝之が会話している相手は、由美子よりは背がちょっと低く、ちょっとまるい女子生徒であった。そしてちょっとどころじゃなく胸のサイズに差があった。
美人かどうか訊かれたら「かわいいタイプ」と呼ばれる種類の女の子。いまも孝之の言葉に返すように見せた笑顔がとてもチャーミングだった。
(そ、そうよね。真鹿児だってクラスや委員会以外に知り合いがいてもおかしくないもンな。で、でも、彼女なンていないって言ってたじゃないか)
由美子は自分の足が止まっていることを自覚して、さらに驚いた。
その確実に自分より胸の大きい女子と一緒に、遠ざかっていく孝之の背中を見ていると、なぜだか図書室で天敵の様に嫌っているアイツに会いたくなってきた。
(いやいやいやいや)
慌てて首を振って正気を取り戻す。ずり落ちてきたバッグを肩にかけ直しながら、彼女はもう一度プリントを確認した。
(いまは講義に集中しなきゃ)
由美子は現在位置を確認した。
正面に見えるのは、時計塔を抱えた中央建屋。その両側から来訪する人間を迎え入れるように袖屋が出ている。講習会場は、その左手の建物の、さらに向こう側となるようだ。このまま前にある中央建屋へ進んでも、講習会の会場に近づくことは無いようだ。いちおう渡り廊下で繋がってはいるが、袖屋の向こう側に当たるから、遠回りになるのは確実だ。
冷房が利いている廊下を歩けば涼しい空気の中を歩けるが、ショートカットした方が時間の節約になりそうである。
有象無象が跳梁跋扈する図書室を切り盛りしてきたお陰で、決断力は身に着いた。由美子は人ごみを横断するように歩き出し、左側の袖屋昇降口から中に入ると、そのまま建物を突っ切った。
途端に目が開けていられないような陽光が彼女を襲った。ちょうど朝日を向かいの建物が反射し、彼女の顔の高さに焦点を結んでいたのだ。
朝だというのにこの陽射し、さすが夏である。
だが植え込みに挟まれた裏道を突っ切れば、公園のような緑地帯があり、そこからは日陰だ。
とっとと渡ってしまおうと踏み出した瞬間に、人の気配がして足が止まった。
「ねーねー、いいじゃん。オレたちとRINE交換しようよー」
「ぐふふ。ほんと、キミかわいいねえ」
その姿勢のままで振り返ると、出入り口脇に並んだ自動販売機のところに、複数の人影があった。
厳つい男二人に行く手を挟まれた小柄な少女という、説明が必要なさそうな絵面であった。
厳つい男はまだしも、挟まれている少女は由美子と同じ清隆学園高等部の制服を身に着けているようだ。
「ちょっと」
相手をよく確認せずに声をかけつつ由美子の足はそちらに向いていた。
「ねえさん」
消え入りそうな声で話しかけられて、挟まれている少女が判った。
知り合いも知り合いである。さきほど人ごみの中で一緒に受講しようかと考えていた花子ではないか。
手には学習道具を収めているだろうバッグに、まだ外側に結露した飲み物。どうやら由美子と同じようにショートカットしようとしたついでに、その飲み物を買い求めていたところ、この大男たちに捕まってしまったようだ。
「ハナちゃん」
由美子は臆せずに二人の間を抜け、花子のところまで入った。由美子が管理している図書室には、彼女の意思とは関係なく根城にしている『常連組』がいる。そのメンバーには、もっと大きな体をした者までいるから、怖いとも感じなかった。
「さ、行きましょ」
そのまま花子の腕を引いて立ち去ろうとすると、大男たちはわずかに開いていた隙間を塞いでしまった。
「なんだよー、つれていくなんて、さびしーなー」
「もしかして、このコのトモダチ? こっちも二人なんだ、二人どうしで、ちょうどいいじゃん。講義のあと、あいてる?」
こんなところに居るというのに、あまり知能が高そうではない口っぷりである。
「けっこうです」
柔道部かラグビー部か、もしかしたら相撲部かという二人は、由美子が見上げるような大男であった。だが、こういうのは怯んだら負けということは『常連組』を相手にして、よく知っていた。
二人の間へ腕を差し入れて、進路を確保しようとする。
その腕を掴まれた。
「いいじゃん、つめたいなあ」
ねっとりとした汗をかいた相手の掌に、危機感よりも先に嫌悪感が沸き上がって来た。
「やめてください」
腕を振り払おうとするが、やはり格闘の心得があるのか、がっちりと由美子の腕を掴んで放してくれそうもない。
さっと由美子は相手を確認した。
清隆学園高等部では見たことが無い顔である。進学校である清隆学園の夏期講習には、学園の外からも参加者を募る。それで参加した、どこか他の高校生、もしくはこの学び舎を本来使用する大学生であろうか。
二人とも服装が、上はワイシャツで下はプリーツの入った灰色のスラックスで揃っている事から、おそらく前者であろう。
「ねーねー」
「いいじゃんよー」
左右どころか花子の後ろまで自動販売機が並んでいる。上は半透明の樹脂製波板で屋根が作ってある。かつては立派だっただろうベンチがあるが、あれじゃ大きすぎて武器になりそうもない。ベンチの上に置き去りになっている荷物があり、それは二人分。おそらくこの二人の物だろう。
由美子には、抱えている筆記用具などが入ったバッグぐらいしか、振り回す物はない。
(プリントとか教科書とか、シワになっちゃうな。あ、お弁当が崩れちゃうかな)
由美子がバッグの中に入れたお弁当箱の強度へ期待した時に、落雷のような音が襲って来た。
ドガッ! ガラガラガッシャーン!
由美子から見て右手の自動販売機へ、空き缶がたくさん詰まったゴミ箱が激突して、派手に中身をぶちまけた音だ。
「はあ?」
大男二人が首を捩じって背後を確認する。
「おい」
自動販売機に跳ね返ってアスファルトの上で回転していたゴミ箱を、ベコリと踏みつけて、こちらを指差す人影。
「今日は夏期講習だと思ったが? 勉学でなくナンパやんなら余所でやんな」
小柄な体ながら威勢のいい啖呵を切っていたのは、由美子と同じ一年一組の女子生徒であった。
踏みつけて半袖のブラウスで袖捲りをするような仕草をしているのが、新命ヒカル。その横には、ヒカルの従姉妹と由美子は聞いている、同じくクラスメイトの海城アキラまで腕組みをして立っていた。
「ヒカル、アキラ」
思わぬ助っ人に、由美子から安堵の声が出た。だが、その顔はすぐに曇る。なにせ可愛い女の子が増えただけである。こんな強面に対抗できるとは思えなかった。
「ナンパなんかじゃないよー」
案の定ニヤニヤとしたまま大男の片方がこたえる。
「ただ、かわいいから、声かけただけじゃん」
「声かけただけに見えないんだけど?」
睨みを利かせているヒカルの横からアキラがやってきて、由美子の腕を掴んでいるその手を捩じり上げた。
「いだだだだだだ」
まるで相手が小学生でしたという感じで、由美子から易々と手を外したアキラが、悲鳴を上げる方とは逆の大男に訊いた。
「オレとやりあうんなら、骨の一本も覚悟しろよ」
ギロリと下から睨みつけられて、慌てたように愛想笑いを取り繕う。自分より遥かに小柄、しかも見た感じ可愛い女の子である。その目の中に青い炎が燃えているのが見えたのは、気のせいだろうか。
「いや、ホント。かわいいから声、かけただけだから。ホント、悪かった。ほ、ほら、そろそろ始まるし、行かなきゃ」
しもどもどろになった大男は、相方を見捨てるように後ずさりをした後に、ヒカルに近づかないように大回りをしてベンチへ行き、荷物を抱えるようにして手にした。
「おまえは?」
「いだいいだい。すみませんでした、おどかして! はんせいしてます!」
「よし」
アキラが大男の腕を放す。大男は飛び退って四人の顔を見比べた。
「あ?」
まだ文句があるのかとヒカルが凄んでみせる。
大男はあからさまに動揺し、アキラに掴まれていた腕へ視線を落とした。
みるみると顔が青ざめて行く。由美子たちからは確認できなかったが、アキラに掴まれた部位は、その手指の形通りに痣になっていた。
「す、すいませんでした!」
泡を食って、いつの間にか逃げ出していた相方を追って走り出した。
「大丈夫か?」
アキラが硬直していた由美子と花子に声をかける。
「こわかった~」
花子が半ベソをかきながら、いまさらながら悲鳴のような声をあげた。本気では泣いていないが、由美子の背中に抱き着いてくる。暑いので本当は願い下げだが、そうは言っていられまい。
「ありがとう、ねえさん。海城さん。えっと…」
アキラは花子と顔見知りであった。ヒカルの顔を見て言い淀む花子に、由美子が紹介した。
「ヒカルよ、新命ヒカルさん。同じクラス」
「ありがとう、新命さん」
「いいってことよ」
再びゴミ箱を蹴って自動販売機の間へ押し込んだヒカルが、まだ縮こまっている二人へ歩み寄った。
ポケットから柄付きキャンディを取り出すと、ワシャワシャと包みを解いて口へと放り込む。それからくっついている由美子と花子へ近づくと、バシンバシンと二人の背中の真ん中を叩いた。
「うひ」
「いた」
二人に気合注入といったところか。そうしてからわざとらしく自分の手首を確認した。
「それよか、講義が始まるんじゃねえか?」
「え」
全員が時計を確認する。たしかに変な男子学生に絡まれたせいで、講義が始まる時間が迫っていた。
「ねえさんも、二人も、ホント、ありがとうね。後でお礼するから」
「いいってことよ」
焦る声になる花子に、ヒカルが男前にチョキで挨拶を返した。
「ハナちゃんはドコ?」
「私は<古文>」
花子の答えを聞いて由美子はプリントにあった講義室の時間割を思い出す。
「ああ、隣かな? あたしは<数Ⅱ>」
「じゃあオレと同じか」
アキラが頷いたのを見て、由美子はヒカルを振り返った。
「ヒカルは?」
「ま、だいたい同じかな」
「じゃあ、一緒に行きましょう」
「そうだな。まだ、あいつらが居るかもしれねーしな」
ヒカルが小走りに走り出したのに釣られて、他の三人も駆け足で道路を横断した。
緑地帯を抜ければ、向こう側の入り口が見えて来る。
「海城さんも、新命さんも、お昼は?」
小走りに走りながら花子が二人に訊ねた。
「一緒にしましょ」
その誘いに、二人は目線を交わしてから、残念そうにヒカルがこたえた。
「せっかくだが、先約があんだ。悪りぃ。このバカの変態と一緒する予定なんだ」
「ばかのへんたい?」
不思議そうな顔をする花子。隣を走る由美子の頭の上に電球が灯った。
「ああ、あの変態ね」
自分以外で話しが進んで、花子は三人の顔を順繰りに見た。
由美子が納得しているのを、もう一度確認してから呟いた。
「ねえさんが変態って言うってことは、サト…」
「シャラ~ップ!」
とんでもない眼力で睨んでしまった。
「その名を出すな、縁起でもない」
夏期休業中は、できれば顔をあわせたくない相手である。つい先ほど会いたくなったことは棚へ上げておく。
「御門のこったよ。ほら、図書室に白衣で来る」
「ああ、あの」
花子も図書委員会副委員長であるから、図書室に出入りする『常連組』のことはよく知っていた。明実も『常連組』の一人だ。
「そう、あれ。あれが、アキラのカレシで…」
その途端、アキラは制服のスカート姿だというのに、スッテンと盛大にコケてみせた。ちょうど建屋の入り口である。
「誰が何だって!」
立ち上がりつつ由美子に迫る。返答次第では付き合い方を考えなければならない。
「え? 違うの? じゃあヒカルのカレシ?」
不思議そうに立ち止まった由美子がアキラからヒカルへ目線を移した。
「王子よ」
由美子の事を『王子』と、学内で流行している彼女のアダナで呼びながら、ヒカルはとても険しい声を出した。食いしばった歯がキャンディの柄を噛み千切りそうだ。
「どこに目をつけてる。ケツにか?」
「はあ?」
目を丸くする由美子を指差す。
「あたしらとアキザネは、まあ無関係じゃあないが、そういった事じゃないから」
「そうなの?」
再度確認するように、由美子は二人の顔を見た。二人同時に首を縦に振る。
「それより」
花子がトーンを上げた声を出す。それと同時に予鈴が聞こえてきた。
「遅刻しちゃう」
本気で走り出した花子を、三人は追いかけ始めた。
「ちぇ、かわいいコだったのによ」
「のがした魚は大きいってか」
「見ろよ、コレ」
「はあ? アザになってんじゃん」
「ただ掴まれただけなのによ。なんなんだよ、あの女」
「うわ、すげえ。あの女、範馬勇次郎かよ」
「人はみかけによらないって聞くけど、なんなんだよ」
「清隆にはかわいい娘そろってるって聞いてたけど、あの顔でコレかよ」
「こえーな」
「ああ、こえー」
「あの、ちょいよろしいどすか」
「なんだ、おたく」
「差し出がましいようどすが、一つ忠告に」
「は? 知らねえよ。ケンカ売りにきたのか? あ?」
「いえ、一つだけ。あんた方は、怒らせてはあかん人を怒らせたようどすえ」
「はあ?」
「…、なあ」
「あ? なんだ?」
「なんかトランペットの音がしねーか?」
「気のせい…、いやブラバンのれんしゅう?」
「あ、あんな高いところに人が!」
「悪ある所に必ず現れ、悪の行われる所必ず行く、正義の戦士!」
「はあ?」
「頭だいじょーぶっすか?」
「色んなヤツがいるって聞いてたけど、ホントにいるんだな」
「とう!」
「わわ、とんだ!」
「とびおりか?」
「すちゃ。くらえ! ゼロワンドライバー!」
「ぐはあ」
「貴様には、えい! ブラストエンド!」
「ぐへえ」
「これに懲りたら、可憐な少女に無闇やたらと迫るなどしないよう反省しろ」
「不破はん。これで気がすんだか?」
「ふん。悪は滅びた」
そして流れるヒーローが立ち去る音楽。
静かだった建物内が、チャイムと同時にどよめいた。
それまで黙々と受講していた高校生たちの精神が緩んだ瞬間である。
「かぁ~、つっかれた」
筆記用具やらプリントやらが散らかしっぱなしの長机に、アキラは腕を伸ばして突っ伏した。
全身の筋がゴリゴリと鳴るような気がした。
「ふああ」
わざとらしいアクビをしたのは、隣に座っていたヒカルである。講義関係者が部屋を出て行ったと見るや、さっそくポケットから柄付きキャンディを取り出して、ワシャワシャと包みを解き始めた。
「数学に世界史か。久しぶりに聞くと、ちょっと違うな」
「違う?」
アキラは首だけをヒカルに向けた。
アキラが選択した講義は、午前最初の<数Ⅱ>に続き、<世界史>であった。
「ガッコとそう変わんないだろ?」
「そうじゃねえよ」
ヒカルが苦笑した。
「簡単に言うと、登場人物は同じだけど、違うドラマを見せられている感じか? あたしが教えられたのと解釈やら微妙に違うからよ」
「あ~」
気力を取り戻したアキラは、体を起こすと、足元に置いたバッグを机上へと上げた。
講義の最初に配られたプリント類をバッグへ押し込み始める。
「日本史で言うトコの鎌倉幕府成立と同じか」
「鎌倉幕府? 『いい国作ろう鎌倉幕府』だから、一一九二年だろ?」
「残念。いまは『いい箱作ろう鎌倉幕府』で、一一八五年なんだ」
「げ。年まで違うのかよ。それにハコって何だよ」
昔と違う歴史の常識に、ヒカルの口元からキャンディが落ちかけたほどだ。
「こりゃ、憶え直さないとヤバいか?」
ちなみに清隆学園高等部では一年生の段階では歴史の授業はなく、現代社会と政経、それと倫理を少しやるぐらいだ。他の教科は二年生以降となる。
「だけどよ、歴史なんて暗記勝負だろ。殷、周、春秋、秦、前漢…」
そのままヒカルがソラで、中国歴代王朝をまるで呪文のように唱え始めたのを聞き流しながら、アキラは帰り支度を進めた。
今日の講義は午後も予定されているが、その内アキラの受けたい講義は時間が飛んで、一五時半からとなる。それまで学内で時間を潰してもいいが、有意義な時間の過ごし方とは思えなかった。一旦帰ってまた来るという選択肢もあるが、バス料金は定期で気にしなくてもいいとしても、この暑い中を二度も登校はしたくなかった。
幸い同じ内容の講義が明日の午前中に予定されている。そこでアキラは、今日は半ドンを決め込むことにしていた。
後は、お昼をコチラで済ませて帰る予定である。
帰宅して香苗の暖かいご飯を食べるという選択肢もあった。しかし、今朝はずうずうしくも海城家の食卓に混ざっていた明実が、タマゴとワカメのコンソメスープをズーッとすすりながら、妙に深刻な顔をして「ナイショ話がある」と告げたので、昼は高等部にある科学部事務局へ集合する予定なのだ。
「最近、多くないか? 『ナイショ話』」
ふと思った事をヒカルに訊ねてみた。
するとキャンディを舐めているはずのヒカルが、なにか苦い物を噛んだような顔をした。
「?」
「まあ、ほら、あれだ」
すぐにその表情を消したヒカルは、人差し指をクルクルと回して、したり顔で言った。
「それがオトナになるってヤツだ」
「そんなもんかね、あ」
よそ見をしていたのが悪かったのか、押し込もうとしていたアキラの缶ペンケースがバッグの取っ手に当たってしまった。急にベクトルを変えられたせいで、缶ペンケースはアキラの手の中からすっぽ抜けてしまった。
幸い中身が散らかることは無かったが、ガシャンと大き目の音を立てて床へ落ち、講義室中の注目を集めてしまった。
「ありゃりゃ」
座ったまま落ちた缶ペンケースへ手を伸ばすが、いまいち届きそうもない。
そうアキラが判断した瞬間に、そのオウストラル島を徘徊するドークスガーディアン・レベル二一ゼノンタイプがデカデカとプリントされた缶ペンケースを、別の細い指が拾い上げた。
「はい、どうぞ」
「あ、ありがとう」
拾ってくれたのは、別の学校の制服を身に着けた、見慣れない少女であった。
「なにこの缶ペン? 何かのアニメですか?」
「は…」
親し気な調子で話しかけられて、アキラの目が点になった。
「ただの小遣いの節約で、家にあったヤツだそうだ」
隣のヒカルがスムーズに受け答えして、さらに驚きが増した。だいたいヒカルは、初対面の相手にケンカ腰になることが多いのだ。
「落とすと、中のペンとか壊れちゃうんじゃない?」
はいどうぞと差し出され、驚きのまま受け取る。その虚脱状態に似たアキラの態度を見て、ヒカルが小さく笑い出した。
「なんだ? おまえ、わかんないのかよ」
「は? は?」
その声の中に、少し軽蔑めいたものが入っていることを感じながら、アキラは慌てて、その茶色い襟をしたセーラー服を着た娘を観察した。
セーラー服の方は見覚えがあった。たしかここら辺では、中高一貫のミッションスクール系女学校という今どき時代錯誤にも感じられる学風で有名な聖アドルフ学園のものだ。だが、アキラの知り合いにそこの学生がいたのか、トンと出てこなかった。
染めているような薄い色の髪は長く、後ろでセーラー服と同系色のリボンでまとめ、ポニーテールにしていた。肌は健康的で、バランスの取れた四肢と合わせて、なにかスポーツをやっていることは間違いない。
その瞳は意志が強そうな眼差しで、まっすぐとアキラを見据えていた。
その奥に青い炎のような明かりを見て、アキラはやっと相手の名前に行きついた。
「あ、大岩さんか!」
それを聞いて、相手の頬がプックリと膨れた。
「『あ』じゃないですよ」
「ま、まあ、そう膨れるな」
ケラケラと笑いながらヒカルが仲裁に入った。
「言ったろ。こんなナリだが中身は違うって」
彼女は大岩輝といって、『施術』関係で知り合った少女である。その身体は『再構築』を受けたアキラたちと違って、まだ人間の範疇に留まっている。ただ、この春に事件に巻き込まれ、重傷を負い命の危機に陥った。それを、いまの雇用主である醍醐クマに『生命の水』を注射することにより助けられたという経験をした。醍醐クマは間違いなく『クリーチャー』である。彼女の体は注射された『生命の水』に拒否反応を起こすことなく、その怪我は無事に全快した。傷を治しただけでなく、体内に残留した『生命の水』は、本来の『クリーチャー』であるアキラたちに似たような人外の膂力や、回復力を彼女に与えていた。
そういった事情で彼女自身は『クリーチャー』ではなかった。が、純粋な人間というわけでも無かった。
そんな彼女とは、終業式の日に二人が『天使』と戦った時に、肩を並べた間柄である。もちろん彼女自身が『天使』に狙われる恐れは低いが、命の恩人である醍醐クマのためである。
「男なんて鈍なんだからよ」
周囲に聞いている者がいないか、さっと視線を走らせてから、肩を竦めてヒカルは言った。
「でもお…」
不満たっぷりの目でダイヤはアキラを睨みつけた。
「あたしも講習会に参加するって言ったじゃないですか」
「あー」
そういえば、お互いの成績があまり自慢できるものではないと話した時に、彼女も清隆学園の夏期講習に参加しようかみたいなことを言っていたことを思い出した。
「なんだ、本当に来たんだ」
「まあ」
アキラの言い回しにダイヤは目を丸くした。アキラはダイヤに向けて他意が無い事を示すかのように笑顔が向けて訊いた。
「どお? 清隆は?」
「どおって…」
ちょっと胸元のリボンを弄ったりして、歯切れの悪い態度となる。前回、成績の話しをした時も、あまり学力に自信が無いような素振りであった。そして進学校として清隆学園のレベルは高いところにある。
「おまえも度胸あるよな」
頭の後ろで手を組んだヒカルが指摘した。
「殴り込みした学校に、今度は講習を受けに来るなんて」
ちなみにダイヤは、ちょっとした勘違いがもとで、先々月に清隆学園高等部へ、決闘を申し込みに来た前科があった。
「ま、まあ、講習は大学の方だし」
あの時の勘違いを恥じているのだろうか、顔を赤くしたダイヤが言い訳じみた事を口にした。
「あの時は私服だったし」
「それでよくアキラに怒れるなあ」
矛盾を指摘するというより、呆れた声でヒカルが言うと、胸元のリボンを弄りながら唇を小さく尖らせた。
「ダイちゃ~ん」
そこへ別のセーラー服が飛び込んできた。
ふわふわの髪をツインテールにした、ちょっとタレ眼がちな女の子である。
遠慮なく後ろからダイヤへ抱き着くと、一気に捲し立て始めた。
「お昼だよダイちゃん! お昼だお昼。この思春期の体が、ダイエットが必要だというのに、カロリーを求めて、グルグル鳴っているのだよ! あ、それとも先に甘いものが必要かな、ダイちゃんには? ワタシも甘い物が欲しくって欲しくって。やっぱり<世界史>って頭を使うと思うんだ。頭を使うと甘いものが欲しくなるよねえ。キュウリにハチミツをかけるとメロンの味になるってホントかなあ。あ、そうそう白百合さまがお昼ご飯はみなさんでご一緒しましょうって、お声をかけて下さって…、って、ダレ? この人たち」
やっと舌の回転を止めた少女は、パチクリと大きなタレ眼を瞬かせた。
「清隆学園のお友だち」
一瞬だけコチラに視線を送ったのは、友だちと紹介してよいかの確認だったのだろう。アキラはちょっと頭を下げると、新しく会話に加わった少女に自己紹介をした。
「ども。高等部一年の海城アキラです」
「同じく新命ヒカル」
機嫌悪そうな声に戻ったヒカルが、アキラに続いて自己紹介した。チラリと視線をやると、咥えたキャンディの柄が上下に揺れていた。
「学園で同じクラスのヒナタです」
「ダイちゃんと友だちの庚陽菜です。へ~、ダイちゃんにも外に友だちがいるんだあ。いっつもメイドさんのバイトか、こんな怖い顔をして道場で木刀振り回してばっかりだから、ワタシ心配してたんだよ。安心したようダイちゃん。でも、お嫁に出していい先かは、しっかりとワタシが見定めてあげるから、早まっちゃダメだからね。あ、結納って『ユイNO』みたいに聞こえるから、全国のユイさんはやらないのかなあ。ダイちゃんはね、クラスで席が隣なんだよ」
「は、はあ」
あまりの情報量にアキラが圧倒されていると、体に回っていた陽菜の腕を丁寧に外したダイヤが、彼女の頭に軽いチョップを入れた。
「こら、ヒナタ。あなたのマシンガントークに、二人が戸惑っているじゃない」
「あいた」
トンと置かれただけの手刀を、特別痛がるような素振りを見せた陽菜は、頭を抱えるとわざとらしい涙目になった。
「ひっど~い、ダイちゃん。DV。これが各種報道で有名になっているドメスティック・バイオレンス、いわゆるデーブイなのね。ヒナタ泣いちゃうんだから。グッスン。でも、その暴力も愛の内だってダイちゃんが言うんだったら、ワタシ耐える自信はあるから。耐えるのも愛だもんね。あ~、でもでも言っておくけど、ワタシには紐で縛ったり縛られたりする特殊な趣味は無いよ…、あ、黙ります。黙りますって」
とんでもないことを口にしていた友人をダイヤが睨みつけると、相手は慌てて両手で自分の口を塞いで『言わ猿』のポーズを取った。
「ごめんなさいね、騒がしいコで」
「うん、まあな」
いまだ圧倒的な陽菜のお喋り攻勢の余波で硬直しているアキラを置いておいて、ヒカルが苦笑のような物を浮かべた。
「そんなにお喋りだと、先生に『淑女たるものはもっと華麗な振る舞いを身に着けなさい』とか言われていそうだな」
「すっごい、あたりだよ。でも人間は進化の過程でせっかく言語という手段を手に入れたんだから、喋ることを禁じるなんて、進化に逆行する事だと思わない? アノマリカリスだって…、あ」
再び大車輪で喋り出した陽菜であったが、ダイヤの顔色を見て慌てて口をつぐんだ。再び両手で言わ猿のポーズ。
「体を巨大化させる方向で進化した恐竜も、そのせいで滅んだとか言われてるし、ほどほどにな」
年長者らしい一言で収めるヒカル。とは言っても外見はアキラと同じ女子高生なのだが。
「大岩さんは、いつまで?」
やっと黙った陽菜をそのままにアキラはダイヤに訊いた。
「一週間ぐらい。他にも受けたい講義があるけど、お屋敷の仕事もあるから」
「そうか、じゃあしばらく一緒できるね」
アキラが笑顔を向けると、照れたように再び胸元のリボンを弄り出すダイヤ。
「ダメだよ!」
その様子を見た陽菜は爆発したように声を上げると、また後ろからダイヤへと抱き着いた。
「まだ、お嫁に出すわけには行きません! ちゃんと健全なお付き合いを重ねて、お互い就職をして生活が安定したころに、給料の三ヶ月分を注ぎ込んだ小さな指輪を持って訪ねて来なさい! もちろん婚約指輪には誕生石がついている方が、ポイントがより高いんだぞ! ワタシの誕生石はなんとサンゴなんだよ! でもサンゴって本当は鉱物じゃなくて動物だって知ってた? ふっしぎだよねえ、あんな形で生き物なんて。しかも木や草じゃなくて動物と来たもんだ、驚きだわ、わっはっは。つい笑っちゃうね! さらにさらに化石になったら石灰岩になっちゃうんだよ。鍾乳洞ぅ~。宝石の時はピッカピカに綺麗なのに、果ては校庭のライン引きだよ、ざ~んねん。あ…」
気が付いた時には陽菜の眉間に、ダイヤのデコピンが炸裂していた。
「何がしたいのよヒナタは。ただ、お友だちと話しているだけでしょう」
「く~~~~」
対する陽菜は、頭を抱えてしゃがみ込んでしまった。
「なにって」
食いしばった歯から無理やりに出すような声である。
「白百合さまが、お昼を一緒にしようって」
見上げた彼女の眉間は、見事に赤くなっていた。どうやら騒がしい友人に、力加減があまり効かなかったようだ。ただ本気になればこんな物では済まない事をアキラは知っていた。
「そういえば言ってたわね」
膨大な言葉の洪水の中に、同じ情報が紛れていたのを思い出して、ちょっと焦った顔になるダイヤ。
「ごめんなさい、あたし行かないと」
「そのシラユリさまって、なんなんだよ」
当然の質問に、しゃがんだ状態から蛙飛びの要領で陽菜が立ち上がった。
「外の人は知らなくて当然だけど、ウチの学園には白百合さまっていう制度があってね。学生全部の中で一番の憧れる存在が、そう呼ばれるんだよ! もちろん歴代の白百合さまたちも凄い方々なんだけど、当代の白百合さまは容姿端麗で成績優秀、さらに運動神経まで整った、文武両道を成しているお方なんだから。ウチにいる誰もが、ああなりたいって思っているんじゃないかな。もちろんお優しい性格だし、上下の隔たり無く話しかけて下さるし、もう完璧超人! いや完璧乙女!」
「お、おう」
あまりの剣幕に、再びアキラは圧倒されてしまった。
「この前なんか、音楽室でフルートのCDを流しているのかなあなんて思っていたら、白百合さまご自身が吹いてらして。『弟に教わったところを練習していた』なんておっしゃっていたけど、練習なんていうレベルじゃなかったわ。うん、あれは、ほら、なんて言うんだっけ? クロウトハダシって奴? 音楽学校へ進学されてもおかしくないほどの腕前でいらしたんだから」
「わかったからヒナタ。少しは黙ろうね」
再び指を構えたダイヤの笑顔に、眉間を両手で押さえる陽菜。
「じゃあ午後にでも、また」
「いや今日は、オレたちはもうおしまいなんだ」
「あ、そう」
「明日は<数A>から来るけど?」
あからさまに肩を落とすダイヤ。それを元気づけるようにアキラが明日の予定を告げると、ぱあっと表情を明るくした。
「それでは明日。ごきげんよう」
「お、おう」
一礼したダイヤは、まだ眉間を隠している陽菜が口を開く前にズルズルと引き摺って行った。
それを、手を振って見送ったアキラは感心した声を漏らした。
「本当に『ごきげんよう』なんて挨拶するんだ」
「まあ女子高ではよくあるけどな」
何を当たり前のことをと言いたげなヒカル。それを横目で盗み見るようにしたアキラは、ようやく席から立ち上がった。
「じゃあ、そろそろ行くか」
由美子は<数Ⅱ>の後に<英単語集中講座>を受講した。各講義は二時間単位だったので、もうお昼ご飯である。
まあ、休憩時間にちょっとしたゴタゴタがあったのは、もう彼女の宿命みたいなものである。少しだけ説明すると、せめて夏季休業中の間は出会いたくないと思っていた天敵を見かけてしまったのだ。
大学では夏季休業中も学食は開いており、そこで食事をすることもできた。
由美子は、ちょっと早起きして自分で詰めたお弁当で済ます予定である。
お弁当を自作なんて聞かれると、なんと家庭的な女の子だろうと言われる。が、中身は昨日の夕ご飯の余り物だし、理由にしたってお小遣いの節約である。
先程の休憩時間にあったもやもやした心のまま、由美子は荷物を持って廊下へと出た。
何度も講義室内は飲食禁止とインフォメーションされていた。お弁当を広げるならば、学食か、外の広場に限られるらしい。
由美子は窓から外の様子を窺ってみた。
今日も暑そうだ。
そこで迷わず学食を利用することにした。
大多数の生徒たちも、学食を目指しているようだ。
「あ、いたいた」
真っすぐ前を向いて歩いている彼女の視界に、誰かが入って来た。
「やあ、こんにちは藤原さん。これからゴハン?」
進路に入って来そうだったので、わずかに右へ体をずらした。
「すっごい人だよね」
なんか横に並んで歩き出したような気がした。
「こんなに人がたくさんだと、大学の学食いっぱいかもね。俺は天文部の観測があるから、高等部へ戻って食べる予定なんだけど、藤原さんも来る?」
いちおう大学の学食は、結婚式の披露宴が広げられるぐらいの設備が整っている。たまに学生結婚などで利用する大学生や、あまり大学に関係ない人でもお金があまりかからずに行えると申し込みがあることを由美子は知っていた。
夏期講習の間は他の学生が来るとはいえ、席に着くことぐらいはできるのではないかと期待していた。
「それと、やっぱりあのことも話しておきたいし…」
チラリと顔を窺う気配。
周囲が雑談でうるさいことをいいことに、手を添えてナイショ話をするような音量で声が聞こえてきた。
「『天使』のこと」
「…」
学食は、主要の建物から離れた位置に建っている。一度外へ出て歩いたほうが近道である。そのことは受講者全員に配られたプリントにも書かれていた。
「あの…、藤原さん?」
「なによ」
肩にかけた通学用バッグをツンツンと突っつかれるに及んで、由美子は少々ケンカ腰に振り返った。
イケメンとは程遠い面差し、背は高からず低からず、そしてトレードマークのような後頭部の寝ぐせ。
「やっと、こっち向いてくれた」
不安げな顔を一転させて笑顔になってくれた。
「藤原さん、ゴハン…」
「朝の彼女と食べればいいでしょ」
ちょっと言葉に棘が混じってしまった。
「朝のカノジョ?」
その者、真鹿児孝之は、キョトンとしてみせた。
「あ~、アイコのこと? 見てたんだ」
「仲良さそうだったじゃない。そんな二人に混ざって食べるなんて無粋な事しませんから。じゃ」
言い切ってとっとと歩き出す。その背中を孝之は追いかけてきた。
「ちょ、ちょ、ちょっと! 待ってよ」
「待てない、以上。じゃ」
言い捨てて歩みを止めない。後ろで孝之が頭を抱える気配がした。
「誤解だよ藤原さん」
その声を聞きながら由美子はドンドンと足を進めた。段々と腹が立ってきた。
(なによ『アイコ』なんて呼び捨てで)
それからフッと彼に「ユミコ」と呼ばれる事を想像してしまった。なぜだか分からないが、頬へ血が集まってくるような気がする。きっと怒りの感情であろう。
「どうした~? ふられたんか~?」
置き去りにした孝之が、誰かに慰められているような声がした。