八月の出来事B面・④
「たしかココよね」
ちょっと自信が無かったが、記憶にある真鹿児家への経路を辿り、由美子は住宅地を歩いてきた。
時間の節約を考えると、タクシーの利用が一番早いのだが、サイフの中身と相談して断念した。父親が複数の会社を経営しているので、どちらかと言えば裕福な家庭であると自覚があったが、だからといって高校生の由美子に無制限のお小遣いが渡されるわけではない。
また由美子は電車とバスを利用した通学なので、清隆学園周辺で自転車等の乗り物を調達する事は難しかった。
それでもサトミならば自転車部などと顔見知りのようだから、適当な一台を借りられるかもと探したのだが、どこに逐電したのか図書室から姿を消していた後は行方不明だったのである。
おかげで全行程を歩くことになってしまった。
先月に一回だけ歩いた道である。自分が方向音痴ではないと思いたいが、実際に着くまでは足運びも鈍りがちであった。
そろそろ左腕に巻いた時計が気になる頃、見た事のある木造モルタル二階建て住宅が視界に入って、足取りは軽い物へと変化した。
道に面した駐車スペースに、郵便ポストのためにだけある幅の細い壁。そこに填められた表札を見て、不安は薄れていった。
全体的に白さが目立つ家とコントラストを成すように、玄関前だけは緑色の芝が植えてある。そこに並べられた二枚の石を踏んで、由美子は扉の前に立った。
迷わず伸ばしたはずの人差し指が、インターフォンの呼び出しに触れる前に鈍った。
(男の子の家に一人で来るなんて、ちょっと恥ずかしいわね)
ここまで来て今更の羞恥心であった。とは言っても、孝之からの病状報告を兼ねた蔵書整理欠席の連絡には、例の事で相談があると添えられていたのだ。
例の事と書かれているだけでは何の事か分からないが、孝之と二人だけで共有した秘密と言えば、たった一つである。
間違いなく『天使』に関する事だ。
おそらく終業式があった昨日に事件が起きたのは確実で、そのことに関しての話しであろう。そんなナイショ話があるなら他に誰かを連れてくるわけにもいかない。
何を言ってくるのだろうと由美子は首を傾げた。
「生きとし生ける者が生まれ、そしてやがて年老いて死んでいく。この主がお決めになった不文律を破ろうとしている者たちがいます」
自称『天使』はそう言っていた。そして、その不文律を破ろうとしている『悪』を倒しに地上へ降りたとも。
だいぶ背筋の恐くなる話もされたが、今のところ由美子の周りでは物騒な話しは聞かない。いや司書室を根城にする『常連組』のバカとかバカは、まるで爆弾のような発明品を持ち込んでは炸裂させて大騒ぎを起こしてはいたが、それとは根っこの部分が違った。
(だいたいそのせいでテーブルを一つスクラップにされたし)
今日の午前中だって、サトミが司書室で行った「科学実験」とやらの結果、司書室の備品が破壊されたばかりなのだ。
ここでサトミの面差しを思い出したら、なぜだか怒りのような感情が湧いて来た。
(なんで腹が立つのよ)
眉を顰めると、今度はのほほんとした孝之の笑顔が脳裏をよぎった。
(ともかく、ここまで来たけど、家を訪問するのは無し)
自分の心がはっきりしないため、何かモヤモヤする物を抱きながらも由美子は決断し、真鹿児家から離れた。電信柱一本ほど離れた場所で、ポケットからスマートフォンを取り出した。
画面を操作して孝之の電話番号を呼び出す。さすがに電話をかけるのに抵抗は無かった。
発信を選択した途端に、閑静な住宅街に爆発音が鳴り響いた。
「は?」
続いて「怒りの日」がどこかの窓から流れ始めた。
目が点になった由美子の耳に、声が届いた。
「はい」
呼び出し音一発である。
それと同時に激しい曲は聞こえなくなった。
「藤原だけど」最近の電話はかけてきた相手の名前が表示されるが、いちおう名乗っておいてから、由美子はその場で牙を剥いた。
「なンちゅー曲を着信にしてンのよ」
「はあ? いや、俺は仕掛けてないんだけど。あれえ? なんでこんな設定に…。えええ?なんで分かるの?」
回線の向こうで軽く孝之はパニック状態のようだ。
「いま、おまえの家に着いたとこよ」
「ウチ?」
カラカラとサッシを開く気配が、スマートフォンに当てた左耳にも、自由な右耳にも届いた。ちょっと電信柱に隠れるような位置だったので、道へはみ出して二階の孝之の部屋を見上げる。
白いベランダに、彼のごく普通な顔が覗いていた。
手を振りあってお互いを確認する。
「なんだ、わざわざ来てくれたんだ。上がってくれてもいいのに」
「それは…、ちょっと」
彼女らしくなく口籠ると、孝之はその乙女心の機微を察したのか、明るい声で言った。
「じゃあソコで待ってて。今行くから」
孝之の顔が引っ込むと、再びカラカラというサッシが動く気配がした。
表に出て来てくれるのなら、まあ恥ずかしくないだろうと由美子も再び真鹿児家の玄関前に移動した。
切ったスマートフォンをポケットへと戻していると、扉越しにバタバタという気配がした後に、孝之が顔を出した。
「や、やあ」
印象の薄い顔を少し困ったように曇らせて、孝之が出てきた。
着ている物にも個性は無くて、アンクルパンツに無地のTシャツ、足元はつっかけのサンダルというファッション。高校生男子が家でくつろいでいる時の見本みたいな服だ。ちょっと違うのはぶっちがいに回された一組の紐である。
「は? え?」
「ああ、これ」
相手が何か荷物を背負っていると認識した由美子に、半分体を回して背中を見せた孝之は、肩越しにそれを振り返った。
筋肉なんか感じさせない背中から、顔の真ん中を指差されて、由美子はさらに困惑した。
「ちゃいながん! おくなげんねんよ!」
おそらく一歳にやっとなった程度の赤ちゃんが、キッと凛々しく由美子を見つめていた。
「いっちゅくん!」
何を言っているのか分からなかった。
「ええと…」
最初に来た時に、孝之の母親と小学生だという妹には会っていた。
「兄弟? かわいいわね」
ニコッと微笑みかけると、表情を緩めて反対側へ向いてしまった。どうやら照れたようだ。
「話しってのは、このコのこと」
孝之が困った顔をしても、世間一般的な悩み程度しか抱えていないように見えた。
「なに? あかちゃんの面倒があるから蔵書整理に参加できないって言いたいわけ?」
「違うよ。このコ、突然現れたんだ」
「は? はい?」
由美子が目を点にして驚いていると、孝之の顔が泣きそうなぐらいに歪んだ。
「確かに昨日までは、結実と二人兄妹だったんだ。それがさっきから三人兄弟だって」
「まてまて」
凄い剣幕で迫って来る孝之を押し戻した。
「おばさんが臨月だったの?」
昨日タクシーで送って来た時の事を思い出す。歳の割にはスラリとしていて、よっぽど孝之より個性があった。
「ちがうちがう」
必死の形相で孝之は由美子の両肩を掴んだ。
「ママは妊娠なんてしてなかったよ! それなのにいきなり一人兄弟が増えたって言うんだ。結実も自然に受け入れているし、俺だけなんだよ、コイツが『いなかったこと』を知っているのは!」
「ちょ、ちょっと」
ガクガクと揺さぶられて由美子は困惑した。完全に孝之は混乱状態であった。
「で、藤原さんなら知っているよね! ウチは俺と結実の二人兄妹で、コイツなんていなかったって」
「ちょ、やめて、いたい」
「あ…」
由美子は孝之の手を振り払おうとしたが、着ているブラウスを貫いて肌にまで爪が食い込むほどに掴まれていて、それはできなかった。
しかし歪んだ彼女の表情を見て、孝之が我に返ってくれた。
「ごめん…」
あまりの孝之の剣幕に、背中のあかちゃんが泣きだした。
「ごめんごめん」
孝之は慌ててあやし始めた。軽く揺すったり、振り返って顔を見せたりして、慣れた様子である。由美子も迫って来た孝之には罪があるかもしれないが、赤ちゃんには罪は無いと、慌てて横から笑顔で話しかけたりして手伝った。
「あ~、ごめんね。ダメなお兄ちゃんですよね~、よしよし」
じきにあかちゃんも泣き止んだ。背中が落ち着いた頃合いを見て、孝之が真剣な顔を取り戻した。
「で、藤原さんなら知っているよね。俺には妹の結実しかいないって」
「いや。あたし、おまえンちの家族構成なンか知らないし」
「は?」
即答された孝之の目が丸くなった。
「確かに妹さんと、おばさんには会った事あンけど、他に誰がいるかも知ンないし」
「はあ?」
由美子は表札を指差した。
「この表札だって、おまえのおじさんなのか、それともおじいさんなのかも知らないし。おまえに上の兄弟がいるのかいないのかも知らない」
「ああ~」
そこまで言われて孝之はポンと手を打った。たしかに家族全員が揃って由美子と会った事は無いはずだ。しかも家族構成の話しをしたのも、今回が初めてのような気がした。
それで由美子が彼の家族を知っていたら、逆に不自然ではないか。
「ただ、常識的に考えて、あかちゃんがポンと出て来ることも無いし、家族が自然に受け入れることもないだろ」
腕組みをした由美子は顔を曇らせて言った。
「一番ありうるのは、最近の体調不良から、おまえが部分的な記憶喪失になっている可能性じゃないのか」
言っている由美子本人が信じていなさそうな口ぶりであった。
それから再び孝之の背中を覗き込んだ。
泣いて疲れたのか、あかちゃんはあどけない顔を見せて眠っていた。
「こんなにかわいいじゃないの。受け入れてあげなさいよ」
「うっ…」
おそらく彼にとって頼みの綱だった由美子にそう言われてしまうと、もう孝之には認めるしか道が無かった。
「で? 明日は…、蔵書整理はお休みで、あさってから再開なンだけど、おまえは出て来れンのかよ」
頭の中のスケジュール帳をチェックした由美子は、まだ困り顔の孝之に訊いた。
「うんまあ、いちおう。部活もあるからガッコ行くし」
「アテにしてンからな」
「うー」
孝之は唸るだけである。頼られるのはいいが、それが肉体労働者としてしか見られない事に、ちょっと不満があるようだ。
「それと?」
「それ?」
由美子の語尾に質問を感じ取った孝之は同じ言葉で訊き返した。
「あのオジサンはどうなったのよ」
「おじ…、ああ『天使』ね」
すると生意気にも孝之は両手を上に向けて肩を竦めて見せた。ただでさえ冴えない上に、幼子を背負ったままでは、全然似合っていなかった。
「いつもつけてる交換日記にも何も無し」
孝之が起きている時は『天使』は眠りにつき、逆に『天使』が活動している時には孝之に意識はない。そうなると孝之と『天使』の間でコミュニケーションが取れない。なので交換日記という形でノートを介して二人は意思疎通を図っていた。
「じゃあ何事かがあって、寝たままなのかしらね」
「そうかも」
二人ともただの高校生である。『天使』の生態など知るわけもない。
「まあ何かあったら知らせて」
由美子は左手首の内側に巻いた腕時計を確認した。
「じゃあ、あたしは戻るから。あさって、必ず来いよな」
「うん」
海面に複数の艦艇が集結していた。
その中心にいるのは、平らな甲板を持つ艦であった。
いま、その広い甲板に、青、白、赤で塗り分けられた三重丸が描かれていた。
周囲の観察者からは、その円の中心から上空へ向かって、稲妻のような物が立ち上がったように見えた。
正確には逆で、静止軌道から撃ち込まれた再突入体が、艦のド真ん中に命中した瞬間であった。
バアンと高速回転していたタイヤが破裂したような音が響き、衝撃波は海面に丸い波を起こした。
飛行甲板にはその面積の半分も占める程の大穴が生まれていた。
運動エネルギーはそれだけで収まらず、熱エネルギーに変換され、搭載燃料に火を点けたのだろう。大穴から黒い煙がもうもうと立ち上がり始めた。
見る間に水平だった艦体が傾く。浸水もしているのだろうか、乾舷も少なくなっていく。
周囲で遊弋していた艦が、慌てたように寄って来る。しかし手の打ちようがない、このままでは沈むまで間がないかもしれなかった。
「なにが、そんなに威力は出ないだよ」
それを艦橋脇のウイングと呼ばれる張り出しから、借りた双眼鏡で見ていたアキラが呆れた声で言った。
声色には全然慌てる様子はない。
「派手な方がデモンストレーションとなるだろ」
同じように双眼鏡を除いている明実は、アキラの横で上機嫌にこたえた。
「兵器として利用できないっていうタテマエじゃないのか?」
反対側のヒカルが注意する。ヒカルも双眼鏡を覗いたままだ。
「もちろん再突入体は兵器になりえない」
鼻高々で明実が解説を開始した。
「しかし自律行動を行い、いま損害から復旧しようとしている彼らは、充分兵器たる条件を満たそうとしている」
明実が指した方向では、船足を深くしたヘリコプター搭載護衛艦を模した艦が、傾斜を復元していくところだった。
これらは明実が設計し、清隆学園高等部の模型部に製作を依頼した本物の護衛艦を五〇分の一に縮尺した物である。
それぞれにガソリンエンジンを搭載し、はるばる横須賀から自律航行してここまでやってきたのだという。もちろんこの小さな艦体では航続距離が足りないが、途中で同じく模型の補給艦より燃料の洋上補給を受けたという。そこまで自律させて何をやっているかというと、未来に無人で対潜哨戒を行えるのかという実験である。
天候から波高などの様々な気象条件のもと、敵性潜水艦の発見や追尾をするのには、非常に苦労が伴う。それには熟練した乗組員で運用される護衛艦隊や哨戒機が必要とされる。しかし日本は少子化を迎え、乗組員の確保に不安が生まれた。そこを機械で補填できないかという事になったらしい。
最初は大き目のプールで始まった実験も、この外洋での運用試験で最終実験だ。もし人工知能が運用に耐えうるのなら、明日の日本の防衛技術は発展するだろう。
「模型だからって、壊すのはもったいないよなあ」
ヒカルが煙の治まった被害艦を眺めつつ言った。咥えていたキャンディの柄が力なく上下している。
「何を言う」
明実が胸を張って言い返した。
「ああして自分、または僚艦が損傷した時に、どう対処し、どう作戦を継続させるのかも試験の内なんだぞい」
「あたしにゃ、ただ再突入体の威力を試したかっただけに見えるがな」
「それもある」
胸を張ったうえで腕組みまでした明実。
「あれで沈んじゃったら、模型部の努力も水の泡か」
アキラがしみじみと言った。
「沈んだのなら、なにがいけなかったのかを人工知能に考えさせるきっかけとなる。どちらに転んでも、我々にはプラスにはなる」
「そうはいってもよ」
「海にゴミを捨てるな」
これはヒカル。
「だいたい模型部って、アイツらだろ? 全部沈めてもいいんじゃねえか?」
ヒカルに指摘されて、アキラも模型部の面々を思い出した。
とても個性的なメンバーが揃っていた。
とくに二年生の藤里部長は、アキラとヒカルに「あとで写真を撮らせてくれ、六分の一でフィギュアを作るから」と臆面も無く言い切った紳士である。
アキラとヒカルは同時に明実の顔を見上げ、そして同時に溜息をついた。
「な? なんだ?」
「変態は変態を呼ぶって言うもんな」
「なにやらオイラの悪口を言っているようだが…」
明実はビシッとアキラを指差した。
「オイラはオマイの幼馴染だ、そうだろう?」
「あ、ああ」
突きつけられた指先を寄り目で見たアキラへ、これ以上無さそうな爽やかな笑顔で明実は言った。
「そういうことだ」
「どういうことだよ」
「つまり」
手摺に肘をついたヒカルが、つまらなそうに言った。
「おまえも、その仲間ってことさ」
「あら」
それまで黙っていた香苗が口を開いた。
「ヒカルちゃんも、家族でしょ?」
「なんでそうなるかなあ」
頭を抱えるヒカル。ヒカルは、三人の護衛という名目で、海城家に同居していたはずである。それなのに、いつの間にか家族扱いだ。
「かあさん…」
何か言おうとしたアキラに笑顔を向けて、香苗は言った。
「あら。ヒカルちゃんだって嬉しいんでしょ」
言われてみんなは気が付いた。前までなら怒鳴り散らしてでも否定していたのに、今のヒカルの頬には、満更でもないという微笑みが浮かんでいた。
そこへ無遠慮な拍手の音が混ざってきて、ヒカルの表情が一気に不機嫌となる。音の方向へ振り返ると、ウイングの反対側にいた、黄色いワンピースを着た少女に見える人物が手を叩いていた。
「おめでとう明実。成功じゃないか」
「ありがとう。今は素直に称賛を受け入れておくでよ」
明実も満更ではないようだ。
ふと思いついたような口調で付け足した。
「こちらの標的艦とは別の物体を、水中に感知している様なのだが、なにか心当たりはないかいな?」
「さて~」
わざとらしく小首を傾げてみせる。
「ここらへんは海洋生物の多様化がもっとも起きている海域。きっと小型の鯨偶蹄目でも紛れ込んだんじゃないかしら」
「…」
身長差から明実はサトミを見おろした。だが、何も言わずに表情を明るく戻した。
「夕食は艦隊司令が張り切っているようだが、オヌシも参加するのじゃろ?」
「残念」
本当に残念そうな顔をしてみせてサトミは言った。それにタイミングを合わせたかのように、飛行甲板ではツインローターを持つ機体がエンジンを始動させた。
「これから横田まで飛ばなきゃいけないのよ。食事はまた今度ね」
そしてサトミはウインクを残して、艦橋へのハッチをくぐっていった。
意識的に光が差し込むように造られた廊下。だいぶ傾いた太陽が、オレンジ色に床を染め上げていた。
そこが、まるで軽自動車でも通すかのような幅がある理由は単純で、車輪がついていて患者を寝かせたまま動かせるベッドが、楽にすれ違えるようになっているためだ。
全てがシステマチックになったいるここは、とある公立病院、その癌病棟である。
今は、ほとんど人気を感じない清潔的な廊下。夕陽の中に置かれた一本の棒のように、一つだけ黒い模様のような影があった。
ここが病院で、影はスカートを履いていることから見舞客であろう。その様子は、まるで子供がオレンジと黒で描いた絵画に閉じ込められたようだった。
と、静かながら滑車が動く音がした。見舞客は立ち止まり、背後を確認した。
わずかにベアリングが回る音をさせて、一床のベッドが病室から押しだされてきた。
その周りには看護師とは違う白衣を着た集団が取り囲んでいた。
ベッドへ横になっている者は、綺麗に布団でくるまれており、手足がだらしなくはみ出しているという事もなかった。
男女の区別も分からなかった。なにせ顔には一枚のガーゼが乗せられていたからだ。
来客用とは別のエレベーターに乗せるためか、ベッドは見舞客の方へとやってきた。
自分の脇を通過する間、邪魔にならないようにと窓へ寄って立ち止まっていた見舞客は、呆然とそのベッドを見送った。
後ろで誰かがすすり泣く声がした気がする。歩き出すついでに視界の端に入れると、先程ベッドが出てきた病室から、白髪のご婦人がハンカチで顔全体を押さえて肩を震わせながら出て来るところだった。
傍らにいる面差しが似た中年男性が低い声で何事か囁いている。おそらく伴侶を亡くした母親を慰めているのだろう。
この階は個室が並んでいるエリアである。
病室のほとんどが埋まっているが、同じネームプレートが長い間掲示されていることは少ない。
ほんの一瞬だけ夕陽へ視線をやった見舞客は、角を折れて東端の個室の前へとやってきた。
いちおう入り口のプレートを確認してから、軽くノックした。
「はあい」
か細い声で反応があった。
引き戸を開けて室内に入ると、建物の影になるこの時間、この部屋は一足先に夜を迎えていた。
「あ、いらっしゃい」
皓々と照らされた照明の下で、部屋の主たる少女が、ベッドに半身を起こしていた。膝の上に広げた雑誌を読んでいたのだろう。
「大丈夫なの? 起きてて?」
少女の病気を知っている見舞客は驚きの声を上げた。
「うん。なんだか、ここのところ調子がいいの」
少女はとびっきりの笑顔を見せた。先月まで人工呼吸器や各種点滴を施されていたとは思えない程、明るい表情だった。
「やっぱり、遊びに行けるってなると、ワクワクするからかな」
「そんな小学生じゃあるまいし」
少女は、まるで小学生のような体つきであったが、実際の年齢はもうちょっと上だ。それというのも病魔が体を蝕んで、成長を妨げているせいである。
「で? 誘ってくれた?」
「えっと、それが…」
少女のキラキラした目が少し曇った。
「あのバカ、午前中は居たンだけど、お昼からサボりやがって」
「え~、じゃあ私たちだけ?」
形の良い眉を顰める少女。彼女よりもちょっと年上に見える見舞客は、まるで安請け合いの様に胸を叩いた。
「あたしに任せておきなさいって」
「ホント?」
探るような気持ち半分。期待する響き半分の声で少女が訊ねる。
「いざとなったら、みんなに捕まえさせる。副委員長権限で」
「あ、酷いんだ」
ちょっと肩を竦めた少女は再び顔をほころばせた。
「まるで珍獣扱いなんだ。サトミさん」
その笑顔を見ながら心配げな顔をした見舞客は釘を刺した。
「何度も言うけど…」
「『おまえの思っているようなヤツじゃない』でしょ」
どこが面白かったのか、小さく握った拳で口元を隠した少女は、クツクツと笑った。その震える肩を見て、見舞客がちょっと面白くなさそうな表情をする。
と、その刺激がいけなかったのか、そのまま小さな笑い声が咳へと変化していく。慌てて見舞客は少女の背中を撫でてやり、少しでも呼吸が楽になるよう気遣ってやった。
「大丈夫?」
「うん。海に行くまでには治さないとね」
少女の言葉に、見舞客は悲しそうな目をした。
「そうね、治さないとね。トール」
夜風が飛行甲板を通り過ぎて行った。
東京では今夜もエアコン無しでは寝られないほどの熱帯夜であろう。しかし南の海とはいえ、いまの風はアキラに心地いい物であった。
圧迫感のある船内での食事会で息苦しくなったアキラは、飛行甲板の脇にあるスポソンと呼ばれる張り出しで、その夜風に当たっていた。
夜間の発着はどうやらひと段落したようだ。先程まで騒がしかった周囲に、人影は無かった。
「大丈夫か?」
声がして振り返ると、食事会を途中で抜けたアキラを心配したのか、船扉の方からヒカルがやってきた。
「船酔いか?」
「いや、そうじゃなく。ただ肩が凝っただけだ」
「たしかに」
ヒカルが笑って、手元のハンドバッグからいつもの柄付きキャンディを取り出すと、包みを解き始めた。
「こんな正式な場なんて、初めてだって言ってたもんな」
「オレは悟ったね」
ヒカルから夜空の星へ視線を移してアキラは握り拳を作った。
「もっと気楽に生きられる世界を選ぶって」
「そうも言ってられないぜ」
ちょっとイジ悪そうな声になったヒカルが、知ったかぶりの声を出した。ポイッと口へキャンディを放り込むと、ニヤリと顔を歪めて見せた。
「何年も真面目に職人としてやっていくと、その功績を認められて、大臣賞とか受賞する事になるだろ?」
「だろうな」
「そうすると春と秋にある園遊会に、功労者としてお呼ばれすることになったりする」
「えんゆうかい?」
キョトンとするアキラに、ちょっと眉を顰めるヒカル。
「皇室の正式な社交会だよ。天皇皇后どころか、皇族、時の内閣、衆参両議員、他にも…」
「まてまて」
降参とばかりに両手を上げたアキラがヒカルのセリフを止めた。
「オレはそんな大層な人間になるつもりはねえよ。普通に暮らせればいい」
「男が世界を従えてやるぐらいの野望を持たなくてどうすんだよ」
腰に手を当てて胸を張るヒカル。どうやら気に入らなかったようだ、口元のキャンディの柄が上下にゆっくり動いていた。
「男って言ったってよ」
アキラは自分の身体を見おろした。
「こんな姿で男か?」
いまのアキラは、いつもなら考えられないような姿をしていた。全身にフリフリがついたピンク色のパーティドレスなのだ。髪にも同色のバラを模したコサージュをつけ、細めの体型を強調する様に、幅広のリボンでウエストを絞ってあった。そのリボンを背中のところで、大きなチョウチョ結びにしてあるところなんか、妖精の羽をイメージしたと言われて納得してしまうだろう。
これらは全て、アキラがいまだ慣れないお化粧品と共に、香苗の荷物から出てきた物だ。まるでご先祖様の運命を変えるために、タイムマシンでやってきたネコ型ロボットが持つというポケット並みの収納力である。
「たしかに、男になるには越えなきゃいけないハードルがいくつもありそうだ」
苦笑するヒカル。彼女の方は落ち着いたグレー系統のビジティングドレスである。左胸につけた飾りが、アキラの髪につけた物とお揃いであった。
夕食は、第一護衛隊群司令である海将補主催で行われた正式な物だった。並べられた食事は、明実の予告通りフランス料理のフルコース。全員が正装をして白いクロスがかけられたテーブルに着席した。
他に出席したのは、まず主賓である岸田博士と、明実。その連れという立場で、香苗、ヒカルと座り、アキラは末席であった。
招待した側は、主人役である護衛隊群司令に、十人ほどのお偉方であった。
「主席幕僚が彼で、彼が情報幕僚…」と、司令自らアキラたちに延々と紹介された。が、普通の高校生であるアキラに、一度にそんなに顔と名前と階級を並べられても、覚えられるわけが無かった。司令部の幕僚に加えて、この艦の首脳部まで居たから、もうアキラの頭はパンク状態である。
さらに、出されたフルコースは「ちょっと気軽に箸で」という雰囲気でも無かった。
同じように見えるナイフやフォークにも使用する順番があり、さらにデザートやコーヒーにまで作法があるなんて想像の外であった。そんなマナーに縛られて、肩が凝る一方であった。
重なる重圧に、もうアキラは一杯一杯になった。慣れない船室ということもあり、こうして夜風に当たりに抜け出して来たというわけだ。
「おまえはいいよな」
うらやましそうに、落ち着いたドレス姿のヒカルを見てから、もう一度自分の体を見おろした。
「こんなフリフリ着せられなくて」
「これでもオ・ト・ナだからな」
ふふんと鼻高々にソッポを向いてみせ、口紅を差した自分の唇に指を当ててみせる。
「大人には大人のドレスコードがあるんだよ」
「大人ねえ…」
同じ服を着れば同年代に見える二人である。
「なんでオレはフリフリなんだ?」
今更ながらアキラは訊いてみた。その質問に、ヒカルが大げさにため息をついた。
「正式な場に、本当は未成年が参加はできねえんだ。アルコールも出るしな。ただ船内とはいえ、未成年一人だけ仲間外れもおかしいだろ? だから主催者の好意で、臨席が許されたのさ。高校生なら分別も分かるだろってことで」
「アキザネは?」
外見は同年代でも、運転免許まで持っているヒカルはいいとして、明実は間違いなく同い歳だ。
「ありゃ特別だ。今回の主賓じゃねえか。招待されたヤツを仲間外れって、おかしいだろうがよ」
「ただの高校生とは別格ってわけか…」
その明実は、清隆学園高等部に定められた正装で臨席した。詳しく述べると、冬季の第一種制服に定められている紺色のスポーツジャケットタイプをしたブレザーに、同色のスラックス。白いワイシャツに臙脂色のネクタイである。
ただの冬服と違うのは、各種徽章類を正式に着けるところだ。清隆学園高等部で徽章類は、校章類に加え役員章、成績優秀者章などが定められていた。
明実の上着には、左襟に校章とクラス章。右襟にはリーダー章と呼ばれる部活動で部長職に就いている者が着ける徽章が着けられていた。
さらに頭脳労働が得意な明実であるから、主席入学者章として左胸にミニチュアメダルが下げられる。メダルには校章と、入学生主席の文字が年度とともに刻印されていた。
「ちょっと待て」
アキラの頭の上に電球が灯った。
「アキザネが制服でよかったってことは、オレも制服でよかったんじゃあ…」
ヒカルは半分後ろを向いて舌打ちをした。
「気が付きやがった」
「なんだよ。こんな格好しなくてもよかったんじゃねえか」
激昂するアキラに、不機嫌そうにヒカルは告げた。
「文句は服を用意したカナエに言え」
そういう香苗は、黒色のディナードレスに、クリーム色のジャケットを合わせたシックな装いであった。まともな格好をすると、普段の幼な妻という印象をどこかにやって、ちゃんと一児の母に見えるから不思議だ。胸元には海城家の秘宝と呼ばれている、真珠のネックレスまであしらった。
それらが全て海水浴に行くために準備したはずのバッグから出て来る様は、まるで手品であった。
ちなみに岸田博士は、暗緑色のワンピースドレスであった。袖や胸元の一部がレースでシースルーになっており、大きく開いた胸元と合わせて彼女の魅力を存分に引き立てていた。
装飾品も宝石をゴテゴテとかではなく、腰にゴールドチェーンを撒いた程度で、お上品な組み合わせであった。
「まあ、そういう格好ができるのも、今の内だろ。楽しめよ」
ヒカルにそう言われて、アキラはちょっと寄り眼になって考えた。いま自分が着ているフリフリドレスを、脳内でヒカルに着せてみる。
超絶似合ってなかった。
ゴリッと硬い感触が頬へ押し付けられた。
「てめえ、なに考えてやがった?」
「考え?」
胸元で両手を上げて、抵抗の意思が無い事をまず示した。
それから、アキラの思考パターンは読まれているようなので、今回は変化球を考えてみた。
「オレが何を考えたっていうんだよ」
「どうせ、あたしに『このフリフリ着せたら面白いだろうなあ』とかだろ」
どこから抜いたか分からない自動拳銃をアキラの頬へ押し当てたまま、ヒカルはアキラの声真似まで披露した。
「いやいや」
やっぱり読まれていたのかと背中の辺りに冷や汗を感じながらも、余裕たっぷりという演出をしながら首を横に振った。
「確かに、おまえの事を考えていたが、これを着せるなんて思っていなかったぜ」
ちょっと演出として、フリルの端を摘まんでみせる。
「じゃあ、どういった格好だよ」
問い直されて、一瞬だけバニーガール姿が脳裏をよぎったのは内緒だ。
「そら女の子相手だもの、ウエディングドレスに決まっているじゃないか」
ちょっとだけ母親の口調を真似てみた。
すると思いも寄らぬ反応があった。
「ウエ…」
まるで火が付いたように真っ赤になったヒカルが、構えていた銃を取り落しそうになる。
「バ、バカ」
「バカはないだろ」
明実がヒカルに、年下へ注意する声で告げた。
「は?」
「へ?」
「かつて『アイラブユー』を『月がきれいですね』と訳した作家がおると聞いているが、きっとその者に『ゴートゥーヘル』を訳させたら、『月に代わっておしおきよ』になったに違いない」
満天の星空にかかる月を見上げながら、突然の登場に二人が固まっていることをいいことに、明実はさらに変な事を言い出した。
「ダメじゃないアキザネくん。せっかく二人がいい雰囲気だったのに」
香苗まで顔を出した。
「おまえら」
怒りで体を震えさせるヒカルを前にしても、香苗は全然怖がる素振りを見せずに、明実の背中を押した。
「さ、若い者同士は若い者同士で、仲良くやってもらいましょ」
「かあさん」
そのまま退場しようとする母親へ、アキラは頭を抱えた声をかけた。
「こんな空気にしておいて逃げるなんてズルい」
「あら」
罪悪を感じていない声で振り返った。
「私のせいじゃないもの。アキザネくんには、向こうでお説教しておきますから」
「もういいよ。で? なに? 呼びに来たの?」
「まあな。食事会後の歓談もだいたい落ち着いたから、迎えに来たのだが…」
背中に香苗をくっつけたまま、今度は明実が二人を振り返った。
そこで二人の微妙な表情にやっと気が付いたようだ。
「お呼びでなかったようだの」
「呼んでねえよ」
柳眉を寄せるヒカルに、明実はポリポリと首筋を掻いた後に言ってのけた。
「こりゃまた失礼しました」
それを聞いた途端、ヒカルがツカツカと明実へ歩み寄り、遠慮なしに向う脛を蹴った。
「あいてぇ」
「ほらほら」
脚を抱えて跳びあがる明実を船扉へと誘導しながら香苗がダメ押しをする。
「邪魔者はこれで退場するから。それでこそ、とうさんの息子って胸が張れるようにね、アキラちゃん」
「なにが、とうさんの息子だ」
プリプリ怒ったヒカルは、アキラへ振り返った。
「いつまでも夜風に当たってると、夏だからって風邪ひくぞ」
話しはこれで終わりとばかりに、ヒカルは二人の消えた船扉に向けて顎をしゃくった。
そのまま行ってしまいそうで、アキラは駆け寄るとヒカルの左腕を取った。
「もうちょっとだけ」
「?」
「もうちょっとだけ、星を見て行かないか?」
アキラの誘いに、掴まれた腕を見ていたヒカルが、仕方なさそうにため息をついた。
「もうちょっとだけだぞ」
ようやく右手に握った自動拳銃を、左手に持っていたハンドバッグへとしまってくれる。
それから二人並んで星空を見上げた。
艦が進む力で生み出される風はちょっと強いぐらいだった。それでも空調が効いていない通路などよりは、よっぽど快適だ。
「やっぱり、星の数が凄いな」
航行灯や作業灯などが点いているので、暗闇というわけでもないが、東京の汚れた空気で見る星空とは比べ物にならない程の星空であった。
「久しぶりに見たな、天の川」
ようやくヒカルがほぐれた声を出した。
「ヒカルは星座とか分かるクチか?」
アキラの質問に、空を見上げたままのヒカルは当然の様にこたえた。
「当たり前だ。基本的な星座ぐらい知っておかないと、遭難した時に、方角が分からなくなるだろ。砂漠とかさ」
「さばく…」
アキラが目を点にしているのに気が付いていないのか、ヒカルは話を続けた。
「サハラでセスナのエンジンが止まった時は、冷や汗を掻いたぜ。ま、北に向かえば地中海に出る事は分かってたから、なんとかなったが」
「色んな経験してんだな」
「まあな。ま、あん時は岩砂漠に出たところで、捜索隊のヘリに見つけてもらえて、海まで歩かずに済んだんだが」
ヒカルが空の一点を指差した。
「あの赤い星、知ってるか?」
「ええと」小学校で習った知識を掘り起こすまで、ちょっと時間がかかった。
ひときわ明るい赤い星が、二つの星を引き連れるようにして輝いていた。
「サソリ座のアンタレスかな?」
「そう、よくできました。砂漠じゃ目立つから、時々振り向きながら方角を確認してな。ほら昼の間は暑いから砂を掘って体を休めて、夜に歩いたから」
「北極星がどうとかじゃねえの?」
(たしか北斗七星の一辺を五倍にして…、あれ? 七倍だったか?)
小学校で習ったはずの事を思い出せない。それを表情から読み取ったのか、ヒカルが少々呆れ声で言った。
「見つけにくいだろ? あれだと色が派手だから、すぐに南が分かる」
「ああ、なるほど…」と納得しかけて慌てる。
「でも地球は自転しているから…」
これも小学校で習った事だ。北極星以外の星は動く物だ。
アキラの言葉を遮って、ヒカルが軽い舌打ちを何度も重ねた。
「厳密に言うと確かに東だったり西だったり横にずれるだろうよ。でも星が出た時は東側にあって、沈むにつれて西へ動くだろ。そうすると一晩で合計するとだいたい同じ方向へ進んでいることになる」
「それって無駄が多くね?」
「だが確実に、しかも早く進める。効率を求めてばかりいると、かえって時間の割に進める距離が短くなっちまう。それに時計を見りゃあ真南より東寄りだとか、真夜中過ぎたから西寄りだとか判断できるしな」
「はあ」
「理論的にゃおまえの方が正しいさ。でも実践はそうもいかねえってコト。それに、あん時は大雑把に北へ向かって地中海に出ればよかったんだから、細かいことはどうでもよかったんだ」
まあ、そうやって生きて帰って来たから、いま並んで星を見上げることが出来ているのだ。その理屈で間違いでは無いのだろう。
そう納得したアキラは、また星空を見上げた。
「あの目立つ星はなんだろ?」
「あんなトコに一等星はなかったハズだから、おそらく木星か土星じゃねえか?」
「目で見る事ができるのか」
天文にそんなに詳しくなかったアキラが驚いていると、ヒカルが笑いだした。
「目で見えなきゃ、昔の人はどうやって惑星の存在を知ったんだよ」
「え、望遠鏡とか?」
首を捻るアキラに、苦笑のような物を浮かべたままヒカルが振り返った。
「望遠鏡が発明されるのは、ガリレオとかの頃だろ。星占いとかはもっと古くからあるだろうが」
「星占いって星座だろ? 惑星が関係あんのか?」
アキラのとぼけた声に、ヒカルが盛大にため息をついた。
「その星座に、どの惑星が入っているかで、物の吉凶を占うのが星占いだろうが。たとえばサソリ座に火星が入ると凶兆だとか」
「へえええ」
アキラは瞳がちな目をパチクリとさせた。
「色んな事知ってんだな」
「長く生きてるとな」
自嘲するようにヒカルが表情を変えた。
「だから、こんなオバチャンに色目使っても無駄なだけだぜ」
「オバチャンって…」
アキラが絶句していると、ヒカルは踵を返した。
「おまえには、おまえに似合いの娘がいるはずさ。同世代のな。だから、あたしとの関係は、仕事と割り切ってくれて構わないんだぜ」
「でも」
言い残したまま船内へ戻ろうとするヒカルの足を、今度は言葉で止めた。
「オレはおまえが好きなんだ」
アキラが清水の舞台から飛び降りる勢いで言っても、ヒカルは冷たい反応だった。
「せめて男になってから言え」
「でも!」
さらに何か言おうとするアキラに振り返ると、ヒカルは悪戯気な笑いを浮かべていた。
「なんだ? アキラ。もしかして、女同士のエロスのほうが興味あんのか?」
「え、エロ」
アキラは目を白黒させた。
「いや、そうじゃなくて!」
「わかってんよ」
いつもの笑顔を見せてくれたヒカルは、頷いてくれた。
「あたしに怪我してほしくないって言ってくれたのは、うれしかったぜ。ありがとな」
手を振ったヒカルは、アキラを残して船扉をくぐって行った。