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八月の出来事B面  作者: 池田 和美
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八月の出来事B面・①

★登場人物紹介

海城 アキラ(かいじょう -)

:本作の主人公。周囲の人間に引きずられるように、最近ではツッコミ役からボケ役に転ずる。春に交通事故に遭って、人では無い『創造物』とやらに『再構築』された身の上。

御門 明実(みかど あきざね)

:自称『スロバキアと道産子の混血でチャキチャキの江戸っ子』の天才。そして変態である。アキラの体を『再構築』した張本人。今回は天才故数々の発明品を持ち出す。

新命 ヒカル(しんめい -)

:自分を『構築』してくれた『施術者』の仇を追ってアキラたちと出会った『創造物』。二人の護衛と引き換えに、自分の体のメンテナンスを明実に任せているが、徐々に調子を落としてきている。

海城 香苗(かいじょう かなえ)

:この物語のメインヒロイン(本人・談)その美貌に明実の心は虜になっている。今回は意外と出番が多くなった。

藤原 由美子(ふじわら ゆみこ)

:清隆学園高等部一年女子。アキラのクラスメイト。外伝なのだが、やっぱりというか何というか、セカンドヒロインという感じになって来た。

真鹿児 孝之(まかご たかゆき)

:同じく高等部一年男子。由美子とはクラスで「仲良くケンカする仲」である。今回も意識不明で運ばれる役。

佐々木 恵美子(ささき えみこ)

:同じく高等部一年女子。今回は出番なし。

岡 花子(おか はなこ)

:同じく高等部一年女子。由美子と同じ図書委員会副委員長の職に就いている。

サトミ

:ヒカル曰く「超危険人物」。本人は清隆学園高等部に所属していると言うが、本当かどうかも分からない。それどころか性別すら怪しくなってきた。もしかしたら同姓同名の人物が複数いるのかもしれない程、謎の人物。

不破 空楽(ふわ うつら)

:同じく高等部一年。今回は家にまで由美子が襲来する、貧乏くじを引いた人。

権藤 正美(ごんどう まさよし)

:同じく高等部一年。今回は端役。

マーガレット 松山|(- まつやま)

:アキラたち一年一組の副担任。その正体は『施術者』の一人であるクロガラス。

鍵寺 明日香(けんじ あすか)

:アキラたちと同じような「人外のもの」。今回は特にコレといった出番はない。

天使

:天界から降臨した存在。今回は行方不明。



「清隆学園にも、学園の七不思議という物がある」

 淡い色の髪をした男子学生が人差し指を立てた。男子学生と一見して分かったのは、この清隆学園の高等部夏季制服である、ワイシャツに紺色のスラックスという姿をしていたからだった。しかし、もしこれが女子用のブラウスにプリーツスカートという姿をしていたら、ひょっとすると、そちらに間違えていたかもしれない。そんな性別を間違えそうな程、彼は中性的であった。

「は?」

 それを間近で聞かされている女子学生が、何とも言えない顔となった。こちらは正しく女子に制定されている制服姿であり、そんな野暮ったい物に包まれているとはいえ、シルエットの柔らかさで性別を間違いようが無かった。

「たとえば渡り廊下に出るという、首の無い学ランを着た幽霊とか」

「あのさ」

 得意そうに語る相手に、意志の強さを示すような眉を顰める少女。

「そういうの、いいから…」

 だが得意そうに語る少年は聞いちゃいなかった。

「同じように有名な『トイレの花子さん』という怪談も、もちろんある」

「お~い」

 両手を口に添えて、遥か遠くマッターホルンへ響く木霊を楽しむような姿勢を取る少女。しかし話し相手の口は止まらなかった。

「まず高等部B棟三階にある西側女子トイレに、四時四十四分に入る。そして個室の前で四回まわる。回ってからドアを四回弱くノックし『花子さん遊びましょ』と個室に向かって囁くように言う。この手順を手前の個室から奥の個室まで行う。一通り終えたら、また最初の個室の前に戻る。合計で四回行うと、四番目の個室から、かすかな声で『はい』と返事が返って来る…」

 少女は他の学校でもよく聞く話に呆れたのか、それとも彼の無駄口に戸が立てられないのを諦めたのか、腕組みをして聴いていた。

「そして返事が返って来た個室の扉を開けると…」

 ニヤリと顔を歪めた少年は、少女に顔を近づけた。

「その個室には、みっちりと『アフリカ象のハナコ』が詰まっているという」


 ぱお~ん。


「はい?」

 少女が聞き返した途端、美しいと表現してもいい地の顔を、さらに醜悪に歪めた少年は話しを続けた。

「ちなみに、同じことを隣の男子トイレで行うと『股間のハナコ』を振るいかにもな筋肉質の男が立っており、呼び出した者の貞操が危機を迎えるという」


 ぱお~ん。ぱお~ん。


 少女はゆっくりと右手を握りしめると、有無を許さずその拳を振り上げた。



「あいてて、ひどいなあ(ねえ)さん」

 鉄拳制裁をくらった少年は、それでもどこか人を馬鹿にしたような微笑みを絶やしていなかった。

「おまえが下らない話をするからだろ、サトミ」

 自分の拳を撫でながら、姐さんと呼ばれた少女がこたえる。「姐」と呼ばれてはいるが、本当の姉弟ではない。彼女はこの清隆学園高等部図書委員会にて、文字通り辣腕を振るう藤原(ふじわら)由美子(ゆみこ)副委員長なのだ。姉御肌の彼女が、図書室を根城にしている『常連組』に対し、まるで姉弟のように面倒見が良いので、いつしか彼女をそう呼ぶようになってしまったのだ。

「ええ~、夏だし怪談は定番でしょ~」

 そう言い返しているのは、図書室に事件を持ち込んでは、いつも騒動を起こす人物だった。もちろん静寂を貴ぶ図書室で騒動なんて迷惑この上ない。よって副委員長の由美子にとって、サトミは天敵のような存在なのであった。

「人気の少ない放課後の校舎だよ?」

 不思議そうに訊ねるサトミ。

「オバケの一つぐらい出そうじゃない」

 現在の状況を指摘する。確かに、オバケが出てもいいかもしれない。今日は一学期の終業式の日で、最終下校時刻はとっくに過ぎた。さすがに長い夏の陽も傾き、そろそろ黄昏時…、逢魔ヶ時というやつだ。

 気のせいか、遠くに鳴くカラスの声すら不気味に響いてくる。

 由美子は自分がやって来たC棟を振り返った。

 まったく人気が無い廊下に点いている照明が、ただそれだけなのに怪しい雰囲気を醸し出していた。

 いまだに蛍光灯を使っている誘導灯が、ジジジと安定器の音を立てている。

「はあ」

 由美子は深い溜息をついて、サトミを再び睨んだ。ここでコイツのペースに乗せられるわけにはいかない。

「花子さんぐらい知ってるわよ。赤いスカートのおかっぱ頭の女の子って奴でしょ」

 由美子だって女子高生だ、そのぐらいは常識の範疇だ。小学生や中学生の時に同級生たちと、教室でそんな会話で盛り上がった経験も、もちろんある。

「ちなみに話しかけると戦闘になり、倒すと『ラバーカップ』が手に入るという…」

 サトミの隣から、筋肉質の男子学生が人差し指を立てて、つけ加えた。

「そうそう…、ってウツラ!」

 そのセリフに頷いていたサトミが、突然現れた第三の人物に驚いて見せる。

「どちらかというと『ユーレイしばりアップリケ』を敵に投げつけて『闇の世界に戻りなさい』ってヤツじゃない?」

 反対側から銀縁眼鏡をかけた真面目そうな男子まで会話に参加した。

「マサヨシまで…。いったいどうしたお前たち」

「いや、昇降口で待ってたんだけど。なかなか下りて来ないから、こうして迎えに来たんでしょ」

 マサヨシと呼ばれた少年が律義に説明してくれた。

「不破に権藤まで…」

 つい由美子は頭を抱えてしまった。この天敵に加えて、右の筋肉質の少年…、不破(ふわ)空楽(うつら)と、左の銀縁眼鏡の少年…、権藤(ごんどう)正美(まさよし)の三人が揃ってしまった。嫌な予感しかしない。

 この三人組、何かにつけて騒動を起こすことが学内では有名で、ついた呼び名が『正義の三戦士(サンバカトリオ)』。ここのところの由美子の頭痛の種である。

「おまえら、暇なンだな」

「ヒマとは失敬な」

 空楽が眉を額の方へ上げる。

「これでも世界の平和を守るために色々と忙しい日々を送っている」

「せかいへいわあ?」

 猜疑心たっぷりに聞き返すと、空楽は拳を唇に当て、咳ばらいをして答えた。

「例えば、(リルガミン)に再び神の加護を得ようと地下深くに潜ったりだな、囚われの王女を救いに、遥かマーモトード砂漠の北部にあるという幻の都市(テーベ)に、十一人の仲間と一緒に乗り込んだりだな…」

「はいはい」

 最後まで聞く前に馬鹿らしくなって、由美子は会話を切り上げた。

「だいたい二人して待っていたのに、なかなか戻ってこない貴様が悪い」

 見るからに機嫌を悪くした空楽の矛先がサトミに向いた。

「階段から落ちでもしたんじゃないかと期待して…、いや心配して来てみれば」

「まさか、藤原さんと逢引きなんて」

 台詞の後半を引き継いだ正美が、ニヤニヤと意味ありげな笑顔を作って見せた。

「ん、まあね」

 冷やかされてもウインク一つで返して何事も無かったかのようにサトミ。由美子の方が顔を赤くして行動に移っていた。



 胃液らしきものを撒きながら廊下に転がる二人を見おろしながら、由美子はサトミを睨みつけた。

「で? 誰が倒れてるって?」

 自分が作った死体もどきを無視して、サトミに問いただす。

 由美子は、夏休み始まってすぐの蔵書整理をサボった同じクラスの図書委員、真鹿児(まかご)孝之(たかゆき)を捜して、このC棟西側の男子便所の前まで来たのだ。副委員長の自分と同じ一年一組から図書委員に選出された孝之が、サボり常習犯ではどうにも締まりが悪い。学活終わりに教室で捕まえた彼を連行中「ちょっと用事がある」と言ったので、解放してしまったのがココだったのだ。

 放課後とはいえ男子便所へと入って行くことを乙女の由美子が迷っているところに、丁度いい具合に男であるサトミが現れた。

 見失ってからもうだいぶ時間が経っているので、さすがに孝之が便所に居るとは思っていなかったが、サトミに中を見てきてもらった。すると孝之ではなく「なんか知らないオジサン」が倒れているらしい。

 これがサトミのヨタ話しに出てきた一見変態風の男だと、逆に他人事になりそうにないので困った。人には明かせないが、そういう人物に学校で出くわすことに、由美子には少々心当たりがあるのだ。

「だから、上はタンクトップに下はジーンズを着た成人男性。まるでボディビルダーみたいなムキムキ」

 サトミが男子便所の個室に倒れていた人物をそう表現した。便所の個室は、扉の足元に大き目の隙間が開いているため、中に人が居るか居ないかぐらいは覗けばすぐに分かるようになっている。

 鍵がかかっていた個室があったので、そこから中を覗いたところ、その「なんか知らないオジサン」が倒れているのが見えたようだ。

 身長差から由美子の表情を見おろしていたサトミが、ニヤリと笑った。

「姐さんの知り合い?」

「…」

 一瞬どう答えようか迷ってしまう。由美子が考えている通りの人物ならば、ここ一ヶ月で知り合った男性となる。

 が…。

(まさか「そいつは『天使』です」なンて言っても、頭がおかしいヤツと思われるわね)

 由美子は、彼女自身が『頭がおかしいヤツ』に分類しているサトミの顔を見上げた。

 つまり明かせない事情と言うのはコレの事なのである。

 先月の終わり頃に、この清隆学園高等部校舎B棟屋上で、由美子は自称『天使』と出会った。『天使』を自称するならば、地上では有り得ない美しさに美しい長い髪、そして背中に白い羽根という姿を期待したいところだ。しかし由美子が出会った『天使』は、いまサトミが表現したような、特異な姿をしていた。

 天使の口からは「地上に下りてきたのは、正義を為すため」と説明はされていた。

 そしてその『天使』は、よりにもよって今捜している孝之に憑りついたのだ。

(なンて言って説明しようか…)

 考えあぐねる由美子。

 信頼と実績で図書委員会副委員長を務めてきた自分が、まさか超常現象ですと言い出せるわけも無かった。

 だが、ちょっとだけ長い沈黙が答えになっていた。

 笑顔の質を変えると、いまだ床に転がる二人を見る。

「三人も男が居れば、運び出せると思うけど?」

「そうか」

「で?」

 生意気にも右眉だけを跳ね上げて、人を見下した態度を取る。まあ、彼の方が彼女より身長が高いので、真っすぐに立たれると自然に視線は上下方向にずれる事になるのだが。

お願いします(プリーズ)ぐらい言えないの?」

 その途端、由美子の雰囲気が変わった。

「あ…」

 彼女の顔を見ていたサトミの顔に後悔が浮かんだ。ちなみに床に転がる二人からは、彼女がどんな形相をしたのかは見えなかった。



「ほら。とっとと起きて」

 由美子の号令で、まるで生きている死体(リビングデッド)のごとく廊下の床から三人が立ち上がった。

「えー、気が進まないなあ」

 それでもまだサトミは抵抗するようだ。

 キッと睨みつけると、三人は顔を見合わせた。

「タダ働きか…」これは空楽。

「でも、人が困っていたら助けてあげないと」こちらは正美。

「ほら、姐さん来週誕生日だから。これがお祝いの代わりという事で」これはサトミ。

「安上がりだな」

「そうでしょ」

「え? 誕生日なの? おめでとう藤原さん」

「ありがと」

 三者三様の反応に、腕組みをした由美子は額へ筋を浮かせながらも礼を言った。

「で? なンでおまえは、あたしの誕生日を知ってンだっていう話しなンだが?」

「そら美人のプロフィールをチェックするのは、普通の事かと?」

 逆に不思議そうな反応をするサトミに、諭すように正美が言った。

「いや個人情報保護法とかあるし」

「貴様の目がフシアナであろうがどうでもいいが、いまの形容詞に些かの抵抗感があるな」

 これは空楽。

「無駄口はいいから、さっさとヤレ!」

 とうとう由美子が爆発した。

 由美子の爆発に、首を竦めた三人が渋々と男子便所へと入って行く。まだ腹部をさすっていたりする様子は、集団食中毒の被害者に見えなくもない。もちろん腹痛の原因は内科的要因ではなかったのだが。

 三人がのろのろと入って行った男子便所に聞き耳を立てる。もし目撃者が居たら、痴女に見えなくもない絵面だ。

「ここか?」

「ああ。鍵がかかってるだろ」

「こじ開けるか?」

「また、すぐその木刀を持ち出す」

「アメリカ帰りのとある忍者に聞いたところ『物事は単純な方がいい』と昔の人は言ったらしいぞ」

「いや、壊さなくてもいいだろ。こういう時こそ、正美。君の出番だ(きみにきめた)

「え? 僕?」

「こうして、二人でヤグラを作ってやるから、上から入れ。カギさえ開ければ、後はどうとにもなる」

 それからしばらく籠った声で会話が続いたため、何を話しているのか分からなくなった。

「よし、オレがおぶろう」

「貴様が? 大丈夫か?」

「これぐらいなら」

 どうやら二人の手を借りて、サトミが背負うというような話になっているようだ。ということは、本当に倒れていた男は居たらしい。しかし由美子が知っている人物ならば、サトミの細い体で持ち上がるのか分からないほどの巨躯のはずである。

 三人の中で選ぶと、スポーツ選手のように均整の取れた身体である空楽ならば、まだ理解できるのだが。

 ちなみに三人とも帰宅部であり、由美子に言わせれば空楽の肉体もムダということになる。

「お待たせ~」

 明るい声で、誰かを背負ったサトミが出て来る。後ろから二人がサポートしていた。

 が、助け出されたのは「なんか知らないオジサン」などではなかった。

「真鹿児っ」

 つい声を上げてしまう。由美子が捜していた人物ではないか。

 頭には、もう陽が沈むかという時刻なのに寝癖が残っていた。特徴と言えばその撥ねた髪だけで、体格が特に良いわけでも無く、かといって蔑むほど貧弱でもない。

 辛そうな表情はしているが、その面差しは背負っているサトミのように目を引かれるような整った風貌でもないし、逆に目を背けるような異貌でもない。とても平均的な顔をしている。

 上から下まで全身が、あまりにも平凡すぎて印象に残らない、そんな少年であった。

 彼が由美子と同じ一年一組から図書委員に選出された真鹿児孝之であった。

 どこか体調を崩しているのは間違いない、とても真っ青な顔色をして目を瞑っていた。

「ちょ、ちょっと」

 慌てて由美子は駆け寄ると、彼の顔を覗きこんだ。

 息はとても浅く、意識は無いようだ。

「いま、救急セットは持ってないんだよね」

 横からサトミに言われて思い出した。一月ほど前に彼が倒れた時も、サトミが背負って保健室まで運んでくれたのだ。その時は、サトミが「丁度持ち合わせていた」救急セットで応急手当までしてくれたのだ。

「おまえ、オッサンが倒れてるって言ったじゃないか」

「そう見えたんだけどなあ。錯覚か何かかな?」

 首を捻るサトミ。だが実は由美子の方が、そう見間違えても仕方のない理由を知っていた。孝之の体には、自称『天使』が憑りついている。そして、たまに入れ替わって地上で活動をしているようなのだ。

「早くせんと、保健室が閉まってしまうのではないか?」

 空楽が冷静に指摘した。

「そうかも。じゃあ僕が先に行って、見て来るよ」

 正美がD棟の廊下を南に向かって走り出した。ここはC棟とは言っても、D棟との繋ぎ目にあたる。南北方向に建つD棟を駆け抜け、南側の階段を下りたらA棟にある保健室は目の前だ。

「ざっと見たけど、大きな外傷などはなし。ただ腹を殴られたり、脳内出血だったり、外から見て分からないダメージは受けているんじゃないかな」

 あっという間に見えなくなった正美の背中を追うように、サトミが足を運ぶ。釣られて二人も歩き出した。

「脳内出血?」

 サトミの口から物騒な単語を聞かされて、由美子の顔も青くなった。『天使』は正義を成すと言っていた。そのために由美子の知らない内に、暴力的な事件が起きたのかもしれない。もしかしたら『天使』が受けたダメージのせいで、孝之の体が壊れてしまったのだろうか。

「まあ、その可能性は低いと思うけどね」

「なンで、そう言い切れるンだよ」

「イ・ビ・キ」

「はぁ?」

 目を丸くする由美子へウインクしてサトミ。

「イビキ掻いてないでしょ。脳内出血なんかは喉の奥が気道の方へ落ち込んで、イビキを掻くことが多いんだ」

「ああ、俺も聞いた事があるな」

 空楽が腕組みをして、したり顔で頷いて見せた。

「とある田舎忍者の相棒が呑んだくれて横になったと思ったら、突然普段は掻かないイビキを始めてビックリしたと。その田舎忍者が慌てて救急車を呼んだから、後遺症も無くて済んだけどな」

「へえ」

 由美子が感心した声を漏らした。

「普通、手が動かなくなるとか聞くけど」

「それが、手当てが早かったから、風邪ひいたくらいで済んだと」

「そりゃ強がりだろ、その相棒さんの」

 空楽の情報に、サトミまでツッコミを入れた。

 と、どこからか二人の使用人を従えて全国漫遊の旅に出た越後の縮緬問屋の隠居を装った、先の副将軍が活躍する番組のオープニングが聞こえ始めた。

 しかも定番な東野英治郎時代でも、異端な石坂浩二時代の物でもなく、なんと使用人の細い方が必殺技の「流星十文字斬り」を使い、太い方がここぞという時に「力襷」を締めて百人力になるシリーズである。

「?」

 聞き慣れないメロディに、由美子とサトミが顔を見合わせると、何のことも無いように空楽がスマートフォンを取り出した。

「どうした? 正美…、そうか、わかった」

 二人に遠慮なく耳へ当てると、通話自体は短く済んだ。

「やはり、もう保健室は閉まっているよう…、どうした?」

「なにその着メロ」

 微妙な顔の由美子に問われて心外とばかりに眉を歪める。

「かけてきた相手によって変えているのだが? そんなにおかしいか?」

「いや、曲の選択(チョイス)

「ちなみにオレだと?」

 サトミの質問に答えようと空楽が口を開いた途端、その手元から、先程の番組が放送していた頃に、隣のチャンネルでやっていた番組のオープニングが流れ始めた。イプシロン星系五一の惑星を平定した、星間国家エドン王国のエドワード王子が、お供の二人を連れて星から星へ視察の旅をするという内容の番組だ。

 自分のスマートフォンの画面を見て、目の前の人物がかけてきたことを確認する。その両手は、背中の孝之を支えるために回されているため、どうやって発信したのかは分からない。

「ちなみに貴様の着メロはなんだ?」

 仕返しとばかりに空楽はサトミへの通話回線を開いた。今度はサトミの方から着信メロディが流れ始めた。

 途端に軍隊調の音楽が流れ始める。聞いた事があるメロディなので、なにかドラマのオープニングかと思ったら、羽佐間道夫のいい声でナレーションが流れ始めた。

「ベトナムで鳴らしたオレたち特攻野郎は、濡れ衣を着せられ当局に逮捕されたが…」

 呆れた顔をした空楽は呼び出し(コール)を続けるスマートフォンを切った。

 そこへ四人が到着するまで待っていればいいのに、わざわざD棟の階段を上って正美が戻って来た。

「職員室にも先生方いないよ。どうしよう」

「タクシーを呼んで、彼の家に運ぶ? それとも救急車にする?」

 サトミが由美子に訊ねた。

「そうね…」

 孝之の家までぐらいのタクシー代ぐらいならば持ち合わせがあるし、足が出たって家の人に払ってもらえばいい。救急車だと、けっこう離れた病院まで運ばれてしまい、ご家族が駆け付けるのに大変な場合もある。

 孝之の住所や電話番号は、先程述べた『天使』と知り合った時に教えてもらった。実際に一度訪ねたこともあるから、道案内も出来るはずだ。

 これで孝之の容態がはっきりと悪ければ、悩むことなく救急車の出場を願うところだが、傍から見て彼は気絶しているだけのようにも見える。ここはタクシーを選択するのが正しい行動であろう。

 由美子の明晰な頭脳がそう答えを出した途端に、どこからか「何かが接近してくるような風切音」が聞こえてきた。

「?」

 一同が顔を見合わせると、連続して空気を鋭く裂く音に加えてダブルホーンの特徴的な和音が長く鳴らされた。

「新幹線?」

 サトミと顔を見合わせた由美子が訊いた。

「うん。しかも山陽本線の『こだま』」

()で、ンなことまで分かンだよ」

「風切音が途絶える間隔が七回あったでしょ。ということは八両編成だから『こだま』じゃないかなって」

「あ、僕のスマホだ」

 慌ててスマートフォンを取り出した正美が画面を確認した。

「なんで、この距離で電話?」

 不思議そうに、目の前のサトミに訊ねる正美。

「いや、みんなの着信音はどんなのかなって話があってさ」

「ちなみに俺だと?」

 空楽が手に持っていたままだった自分のスマートフォンを操作する。

 するとまた「何かが接近してくるような風切音」が正美の手の中から流れ始めた。

 今度はダブルホーンではなく、ピイイイイッと耳をつんざくような音の後に連続して空気を鋭く裂く音が続いた。

「スーパーライナー?」

 サトミが首を傾げる。

「半分正解」

 少々癇に障るドヤ顔をした正美は、スマートフォンの画面をみんなに見せた。

「今のは『スーパーライナー』を牽引するEF二〇〇でした」

「へ、変電所殺し…」

「ちなみにさっきのも、ただの『こだま』じゃなくて、『五〇〇タイプEVA』でした」

 画面が切り替わり、今では引退した特別塗装の新幹線車両が、先程と同じダブルホーンの長い音色を引きながら走り去っていった。

「そんなマニアでも分からん音使いおって」

 空楽が呆れる。

「まあオレでも新幹線とスーパーライナーぐらいにしか分からなかったな」

 ちなみにサトミと正美は、初対面時に鉄道模型で意気投合して会話するようになった仲である。

「じゃ、じゃあサトミは何の曲使ってるのさ、僕の時は?」

「かけてみればいいだろ」

 言われて「はいそうですか」と実行するところが正美らしかったりする。正美がスマートフォンを操作した途端に、サトミの方から音楽が流れ始めた。

 途端にテクノポップ調の特徴的な曲が流れ始めた。これまたどこかで聞いた事があるような音楽である。空楽の時のようにドラマのオープニングかなと思った時には、小林清志の渋い声でナレーションが入った。

「…陰謀と、破壊と、犯罪の渦巻く現代の戦士。ドリームカー・ナイト二〇〇〇と共に…」

「おお」

 正美が感心した声を上げると、横の空楽がつまらなそうな顔になった。

「なんで俺がコッチじゃないんだよ」

「いや、特に意味はないのだが…」

 返答に窮するサトミ。そんなバカ話をしている横で、由美子は自分のスマートフォンを取り出した。

 目の前の三人の番号を選択し、一斉に送信してみた。


 清隆学園高等部D棟の廊下に、爆発音が轟いた。


「は?」

 三人が同時に天井を見上げた。

 続けて、ジュゼッペ・ヴェルディ作曲の「マンゾーニの命日を記念するためのレクイエム」の第二部「怒りの日(ディエス・イレ)」が流れ始めた。

「あら」

「おや」

「ん?」

 三者三様に自分のスマートフォンを確認する。

「どうしたの姐さん?」

 両手が塞がっているため、どうやって確認したのか分からないが、サトミが由美子に訊いた。

「目の前にいるのに電話して来るなんて」

「これは、アレだな」

 チラリと画面を確認して切った空楽が人差し指を立てた。

「俺たちが、藤原さんの呼び出し音をどんなモノに設定しているか、試してみたかったのであろう」

「大丈夫だよ藤原さん」

 にこやかに正美。

「ちゃんと、分かりやすくしてあるから」

 清隆学園高等部D棟の廊下に風が巻いた。とても黒い風だった。

「ンで、ンな曲なンだよっ」

 華麗な二連撃で、空楽と正美をまた廊下へ叩き伏せた由美子は、孝之を背負っている故に攻撃対象から外したサトミに訊いた。

「え? 分かりやすいでしょ? 爆発音直後のディエス・イレ」

「なんか、あたしからの電話が、この世の終わりの扱いなンですが?」

「それがなにか?」

 怒りに燃える由美子に、その原因が分からないとばかりにサトミはこたえた。



 わずかな振動で孝之は瞼を開いた。視界に入ったのは、一面ビニール張りの天井だった。

「ごめんなさいね」

 どこか遠くで、自分の母親の声がする。

「いいえ、そんな」

 すぐ近くから聞き慣れたクラスメイトの声がした。

「運転手さん。これだけアレば足りるかしら?」

 再び遠くからの母親の声。

「ええと、少々余るぐらいかもしれませんけど」

 意外に近くで知らない中年男性の声。

「では、その分で、こちらのお嬢さんを駅までお願いできるかしら?」

「ああ、丁度いいぐらいです」

「もしお釣りが出たらコーヒーでも」

「すみませんね。あ、手伝いましょう」

 そう言うとドアの開く気配がして中年男性の気配が遠のいた。それと同時に、幼いころから嗅ぎ慣れた柔らかい香りに孝之は包まれた。

「かあ…さん?」

「あら。目が覚めたのね。大丈夫? 立てる?」

「こ…ここは?」

「ウチの前よ。あなた、また学校で倒れたのよ」

 苦笑のような声。実際に霞む視界に映る母親の顔は、微妙に困ったような笑みを浮かべていた。

 母親に導かれるままに車内から地面へ足を出し、支えられながら立ち上がる。

「ホント、ごめんなさいね。藤原さん」

 孝之に肩を貸した母親が誰かにそう話しかけている。やっとの思いで振り返ると、黄色いタクシーの車内から、彼の事を心配そうに見上げる由美子の姿があった。

「玄関まででも手伝いましょう」

 反対側から会社の制服姿の運転手が孝之の体を支えてくれた。女の細腕とは違って、彼を家の玄関まで、グイグイと少々強引なほど運んでくれる。

 後から由美子もついてきた。

 夏特有の、陽が沈んでいても微温(ぬるま)湯のような風が頬を撫でる。そんな物でも孝之の意識をはっきりさせる助けにはなった。

 玄関に着くころには、自分の意思で立てるまでに回復していた。

 由美子が先に回って、玄関の扉を開いたままにしてくれた。

 そのまま雪崩れ込むように玄関へ運ばれ、孝之は尻もちよりマシな程度で框の上に座らされた。

「じゃあ、私はコレで」

 由美子が心配そうな顔のまま母親に挨拶する。

「あとで連絡してね」

 クラスでは見せない猫を被った声を孝之にかけると、視界から消えた。

「それじゃあ、奥さん」

 運転手も制帽を直して軽く会釈する。

「本当にありがとうございました」

 運んでくれた運転手に、母親が頭を下げる。

「それでは、またのご利用を」

 由美子を駅へ送り届けるためか、運転手は名残惜しさすら感じさせずに車へ戻っていった。

「俺は…」

「学校で倒れていたんですって」

 玄関にへたりこんだままの孝之から靴を脱がせながら、母親が教えてくれた。

「学校…?」

 孝之は自分が覚えている最後の記憶を遡ってみた。たしか一学期が終わって、図書委員会は図書室の蔵書整理とやらで忙しくなるから逃げるなと、由美子に言われたのだ。

 教室で由美子にタックルされて掴まって、強引に図書室のあるC棟まで連れて行かれた。しかし強制労働なんか真っ平御免の孝之は、トイレの前でごねてみせた。

「人によると『飲む、食べる、する』は労働者の権利らしいぞ」

「『飲む』『食べる』は分かるけど『する』って何だよ」と話しに乗って来た由美子へ、意味ありげな視線だけでトイレを指差してみせた。

「ちょっと用事がある」

 まあ自分なりに考えた作戦だったと思う。

「まさか藤原さん、出待ちする気?」

「あったりまえじゃないの」

 孝之から手を離した由美子は腕組みして胸を張ってまで言った。

「そーですか」

 執念すら感じた孝之は一回だけ肩を竦めてから、とりあえず男子便所の個室へと入った。ポケットに入れておいたスマートフォンを取り出すと、ズボンもおろさずに腰かけて電源を入れる。

 ここ最近チェックしているブログに繋ぐ。

 梨農家を営む男性が、ダンボールで巨大ロボを作ることに挑戦している記事である。どうやら場所は東京近郊のようだが、よくもまあ挑戦する気になったものだ。

(農家は土地があるから有利だよな)

 作っているのは全世界的に有名な三色塗装(トリコロール)の巨大ロボである。その巨大ロボが活躍するアニメ番組の提供をしている玩具メーカーが、海辺に立てた実物大立像と寸分も違わない物が赤土の中に立っていた。

 快晴の空の向こうに富士山が見えており、借景となっていた。

 ダンボールだけだと自重で潰れてしまうから、中に工事用足場の鉄パイプが骨組みとして入っているらしい。

 もちろん結局は紙であるから悪天候だと壊れてしまう。必要な時以外はパーツごとに分解して納屋にしまっておいて、こうして撮影の時などにわざわざ組み立て直すらしい。

(趣味のためにする苦労は別なのかな?)

 自身に置き換えてみる。孝之の趣味は天体観測である。そのために天文部に所属していた。

 重い機材を夜中に星が見える場所までえっちらおっちら運ぶことを思い出す。

「まだかよ」

 そんな事を考えながら更新された記事を読んでいると、遠くから由美子の声。

「うん、いまゲートを通過したところ」

「実況なンてしなくていいわっ」

 校舎中に響くような怒鳴り声が返って来た。

 スマートフォンの画面には、ロボットの顔を修正している様子が映し出されていた。まだ色を塗っていないため、有名な飲み物のロゴがあちこちに印刷されたままだ。

「おまえ、まさかスマホなんて弄ってンじゃねぇだろうな?」

(ギクッ)

「そんなことないよー」

 少し力んでいる様に演技しながら孝之は答えた。

「いま一捻り目。二回目に挑戦するところっ」

「待ってられないわ!」

(おや。意外と短気だったな)

 孝之が想定していたよりも半分の時間だった。

「先に行ってるから、必ず来いよ。そうじゃないと怖いよ!」

「りょうかーい」

 もしかしたら男子便所の中へ話しかける自分が恥ずかしくなったのかもしれない。なにせここはC棟とD棟の境目である。C棟の専門教室では各種文化会系のクラブが活動するし、D棟には生徒会に関する部屋が集まっている。放課後が始まったばかりの今は、人通りが、たくさんあるはずだ。

 それでも孝之はすぐに出ようとはしなかった。黙って自分を待ち伏せしている由美子の姿を幻視する。

「本当に後から来るンだよ!」

(ほら、やっぱりいた)

 そう自画自賛したところで記憶の糸が途切れていた。

 母親の肩を借りて、とりあえず部屋に上がる。布団はすでに敷かれていた。もしかしたら由美子からの連絡があって、すぐに準備されたのかもしれない。

「どこが具合悪いの」

 少々怒った風に、母親が容態を訊いて来た。

「なんか風邪ひいて寝込んだ時のような、そんな感じ」

 まるで誰かが背中から圧し掛かってきているような倦怠感である。もしかしたら熱も出ているのかもしれない。

「夏風邪かしら」

 母親のしっとりした掌が孝之の額へ当てられた。

「おかーさーん。もってきたよー」

 脳髄に突き刺さるような高音で、妹がお盆を持ってきた。上に体温計と水を湛えたコップ、真鹿児家の常備薬である「優しさが半分」の鎮痛解熱剤が乗っていた。

「測っちゃいなさい」

 電子式の体温計のスイッチを入れて渡される。

 体温は少々高めであるが、それ以外に異常は無いようだ。扁桃腺が腫れているわけでも無い。

「とりあえず今日は横になって、明日様子を見ましょうか」

 症状だけみると、本当に軽い風邪のようだ。これぐらいで医者へ行くのも躊躇われる程度の不調である。

「ご飯は食べれそう?」

「うん、なんとか」

「じゃあお夕飯はオカユじゃなくて、普通でいいわね」

 後は静かに寝ているのが一番であろうと、母親は妹と一緒に出て行った。孝之はお盆の水だけいただくことにする。

 ボーッとしがちな頭がいつものルーチンとばかりに、制服からパジャマへ着替えを促すが、制服を脱いだところで力つきた。

 下着姿のままで孝之は布団の海で夢の世界に泳ぎ出した。



「夏休みの計画?」

 ダイニングキッチンで、お茶請けのアラレを口に放り込んでいた美少女が、問われた意味が分からずに聞き返した。

 いまは夏らしく半袖がそのままフレアになっている水色のTシャツに、同じ色をした膝丈のスカートを履いている。

 これがまた絵に描いたように似合っているスタイルであった。

 しかし、見た目は美少女でも中身は違う。その者、海城(かいじょう)アキラは、昨年まで男子中学生である海城(あきら)として普通に暮らしていた身である。

 進学してソッチの方向へ高校デビューしたわけではない。

 それまでは至らない所もそれなりにある、普通の男の子として生活していた。背も伸び始め、母親を見おろすほどにもなった。自分の進路も見定め、それに有利な清隆学園高等部を受験する事にし、実際に入学試験も受けた。

 しかし、その入試発表の日に、彰は不幸な交通事故に遭遇し、身体はズタズタになり、死んでしまうところだった。

 それを偶然居合わせた、科学者でもある幼馴染に助けてもらった結果が、この事故前とは似ても似つかぬ女の子の身体というわけである。

 残念ながら助けてくれた幼馴染は、天才科学者である前に、変態だったのである。

 そんな説明を普通の人にしても「何を言っているのかわからない」と言われてしまうので、いまのアキラは女子生徒として、清隆学園高等部に在籍していた。

「ん、まあな」

 アキラに夏の計画を訊いた相手は、これまた誰がどこから見ても黒髪が良く似合う美少女だった。今はテーブルに頬杖をついたりして、気の無い返事をしている。

 その相手もアキラのように同じ女子高生であったが、これまた同じように「女の子のようなもの」であった。

 名前は新命(しんめい)ヒカル。アキラの延命に役立った物と同じ『施術』と呼ばれる技術で、長い時間を生きてきた『創造物(クリーチャー)』という存在である。

 今日のヒカルは、夏らしく白いTシャツに黒い作業用ズボンといった服装であった。口元から生やしたように咥えている白い物は煙草ではなくて、世界的に有名なキャンディの柄だ。

 うるさげに髪の毛をかき上げる。見事な黒髪なのだが、アキラは少々残念そうにヒカルの髪を見た。

(もっと魅力的な黒髪だったんだけどなあ)

 アキラの感想には意味があった。ヒカルは最近、髪を染めるようになったのだ。

 もちろん理由がある。

 ヒカルは、自身を『クリーチャー』として生み出した『施術者(マスター)』を失って、身体を維持する事が困難になったのだ。

 それを、アキラの身体を女の子にした幼馴染が、代わりに看るようになったのだ。

 二人の身体を『施術』で維持すると、不老不死に近い状態となる。それはある意味人類にとって夢の技術なのだが、かわりに『生命の水』という薬品が欠かせなくなる。

 どうやらこの『生命の水』とやらが『マスター』ごとに成分が違うらしく、アキラと同じ『生命の水』を使用している現在、ヒカルの身体は徐々に弱り始めていた。

 そのせいか見事だった黒髪に、最近白い物が混じるようになってしまったのだ。当人はアキラに拳で八つ当たりするほど機嫌を悪くした。しかし究極の選択である。このままアキラと同じ『生命の水』を注射して延命するか、それとも拒否して活動を停止するか、どちらしか無いのだ。

 口では死ぬのは怖くないと(うそぶ)くヒカルであったが、もうちょっと生きていたかったようだ。

 髪に白い物が混ざるのは、人間では加齢によってよくあることである。そのための商品は薬局に揃っている。しかし以前の艶やかな黒を知っているアキラからは、やはり魅力が減ったように見えるのだ。

 上座に座ってお茶の準備をしてくれた女性が、二人の不器用でぶっきらぼうな会話を聞いて、堪えきれなかった様子でクスクスと笑い出した。

 黒目がちなかわいい瞳に、はっきりとした虹彩。小振りの鼻は恋人につつかれるのを待っているかのような魅力で、唇は薄く適度に湿っていた。

 プリプリの肌は十代の張りを保っており、髪はボリュームも長さも申し分ない。

 彼女の写真を持って街角で男子高校生にマイクを向けて感想を求めたら、十人中十人が可能ならば彼女にしてみたいと言うだろう。

 だがその正体は海城家の台所を預かる主婦、海城(かいじょう)香苗(かなえ)であった。もちろんアキラの生みの親である。

 息子…(娘?)のアキラが高校生なのだから、それなりの年齢であるはずなのに、この美貌。アキラが彰だったころは、兄弟姉妹と間違える者が居たほどである。しかも彰が中学生になる頃には、姉ではない方に間違える人が多かったような気もする。

 彰がアキラとなってからは、さすが親子である、まるで姉妹であるかのように瓜二つとなった。おそるべしアンチエイジング。

「ヒカルちゃんは、アキラちゃんに誘ってもらいたいんだよね」

「ばか」

 一瞬で赤くなったヒカルが、香苗の方へ振り向いた。町のチンピラどもが道を譲る程の眼光で睨みつける。それを年齢からくる余裕なのか、香苗はズーッとお茶を啜って受け流した。

「あたしがそんなこと言うわけないだろっ」

 否定しても耳まで真っ赤になっていれば肯定しているのも同じである。

「ただ、ほら。親の実家に里帰りとか、普通はするだろ。そしたら、おまえらの護衛をどうするかとか難しくなるじゃねえか」

 二人の身体に使われている『施術』という技術は、不老不死に近づく物である。そんな人類の夢に繋がる技術に触れているせいか、最近周囲が色々とキナ臭くなってきていた。特に先日など『天使』と呼ばれる存在が『施術』自体を葬り去ろうと戦いを仕掛けてきた。

 それを、他にもいる『施術』で「人ならざる体」になった者たちと張った共同戦線で、一旦は退ける事に成功した。が、いつまた再戦を挑まれるか分からないのだ。

 ごく普通の中学生から毛が生えた程度で高校生になったアキラには、戦える術はほとんど無かった。そしてヒカルはというと…。

「だから一般家庭でピストルを抜くなよ」

 アキラが眉を顰めて言った。ヒカルは腰に巻いたウエストポーチに見えるホルスターから回転式拳銃(リボルバー)を抜いて、見事なガンスピンを決めて見せる。

 ヒカルは銃の専門家である。出会ってからこれまで交わした会話の内容からすると、どうやら歴史の授業で習う「冷戦」の頃から銃を頼りに生きてきたようだ。

「はん? エアガン程度に目くじら立てんなよ」

 ヒカルがいま手にしているのは、通っている清隆学園高等部の同級生から譲ってもらったフロンガスでBB弾を発射するエアーソフトガンであった。

 もちろん実銃も持っているのだが、日本で持ち歩くのにより便利な物を選択したようだ。

 といってもタダのガスガンではなく、威力は相当上げてある代物だ。これはヒカルが施した改造ではなく、前の持ち主が行ったものである。

 その威力は、金属製のベアリングを装填すれば、空き缶ぐらいは簡単に貫通するほどだ。もちろん人の目や口など急所へピンポイントに当たれば、大怪我をすること間違いなしだ。そしてヒカルには、それぐらい朝飯前でできるほどの射撃センスが備わっていた。

 ヒカルはすっかりこのエアガンを気に入ったようだ。本来なら銃後部に剥き出しとなる撃鉄部分に、シェラウドと呼ばれる部品を後付けして、抜く時に服など余計なところに引っかからないように細工をしていた。

 こんなパーツが遊戯銃にあるわけがない。そこだけは本場アメリカから取り寄せた、実銃用のオプションパーツである。

「じっか…」

 キョトンとした香苗が横から口を挟んだ。

「そうかヒカルちゃんは知らないのよね。ウチは帰らないわ。というか実家が無いの」

「ない?」

 訝しんで美しい横顔を歪めるヒカルに、ちょっと微笑みを寂しげにした香苗が答える。

「剛さんのご両親はすでに他界されているし、私も…」

「あっ」

 触れてはいけないプライベートな事に土足で踏み込んだ気がして、慌ててヒカルが手を振った。

「いい、いい」

 聞いた自分が悪かったと香苗の言葉を遮った。

 その時、タイミングよく玄関のチャイムが鳴った。

「あ、ほら誰か来たみたいだぜ」

 いつもなら来客があっても椅子から立ち上がろうともしないヒカルが、慌ててダイニングキッチンから玄関へ向かった。

「あら? 誰かしら?」

「通販でも頼んだ?」

 頬に手を当てて首を捻る香苗に、アキラが訊ねる。

「そういえば、注文していたわね…。それともアキザネくんかしら?」

「あいつならチャイム無しに入って来るじゃん」

 幼馴染の名前を出した香苗に、アキラがその生態を指摘する。この間まで玄関のチャイムどころか、二階にあるアキラの部屋にだってノックなしにズカズカ入って来ていた男である。さすがにそれはアキラが「女の子のようなもの」になってから、少しは改善された。

 海城家は普通の建売住宅である。ダイニングキッチンから玄関まで短距離走ができそうなほど長い廊下が続いているわけではない。

 程なくヒカルが玄関の扉を開いた。

「アロ~ハ」

 そこにサングラスをかけた長身の少年が陽気に立っていた。

 ヒカルは黙って扉を閉めた。

「ちょ、ちょっとまて。オイラがせっかく夏の雰囲気を出しているというのに」

 慌てた様子で来訪者自身が扉を開いて顔を突っ込んできた。

 日本人にしては彫の深い顔に、淡い色の髪の毛である。それもそのはず、このふざけた来訪者である御門(みかど)明実(あきざね)は、日本人の父と、スロバキア人の母を持つ混血児(ハーフ)なのだ。曰く「道産子とスロバキアの混血でチャキチャキの江戸っ子」だそうだ。深く考えたら負けである。

 今の明実は、いつも着ている白衣の下にドギツイ配色のアロハシャツを着て、膨らませた浮き輪を三つも体に通していた。頭には麦わら帽子、顔には安物のサングラス。

 これで体が小さければ、プールを前にして、はしゃぐ小学生といった風情であった。

 だが見くびってはいけない。彼は中学時代に大学までのカリキュラムを終えた天才であり、さらにいくつかのパテントを持つほどの発明家でもある。(ついでに言えば変態でもあった)

 そんな彼が現在取り掛かっている研究は『死の超越』である。そう交通事故で瀕死の重傷を負ったアキラを(身体は女の子にしちゃったが)助けた人物であり、同時にヒカルの身体を看ているアキラの幼馴染とは彼の事なのだ。

「浮かれている間に、少しは研究を進めろ」

 両手を使ってヒカルが明実の上半身を扉の外へ突き出した。バンと音をさせて扉を閉めると、わざと音が出るようにしてガチャリと施錠する。

 いま明実の『施術』に関する最大の課題は、アキラを男に戻す方法を見つけるという物だ。

「脳細胞にリフレッシュという刺激を与えないと、良い研究はできないぞ」

 防犯チェーンまでかけたヒカルの背後から、追い出された当の明実が話しかけた。

「どうやって入りやがった」

「普通に裏口からだが?」

 脱いで手に持ってきたビーチサンダルを玄関に放り投げた。

「なんだよ、その格好」

 騒ぎを聞きつけてアキラもやってきた。普段の明実は、学校が休みでも制服を着て、その上から白衣という姿である。

 上半身のアロハもそうだが、下半身はバミューダパンツという「どこのリゾートへお出かけですか?」と、いまは聞きたくなる格好だ

 体を通した浮き輪で、幅に余裕が無い廊下でクルリと器用に回ると、ニヤリと表情を歪めてみせる。

「せっかくの夏だし、海にでも行こうと誘いに来たのだが」

「海かあ」

 どちらかというと暑い季節は、クーラーのかかった部屋で、のんびりと過ごしたい派のアキラが、ちょっと顔を曇らせる。

「行ってもいいが、遠くは無理だぜ」

 指鉄砲を明実に向ける。

「来週から夏期講習が始まるから」

 学生の本分は勉学にある。進学校に分類される清隆学園は、夏期休業の間も一年生の段階から各教科の講習が用意されていた。

 もちろん参加は自由ということになっている。が、エスカレーター式に高等部から清隆大学への進学するのではなく、他の国公立大学や有名私大などを狙う受験組は、学力アップのため受講必須であった。そしてアキラの進路も、その受験組であるから、もちろん講習の申し込みは済ませてあった。

 ちなみに天才である明実は受講する必要はない。それどころか大学の教授からは、飛び級をして高校を卒業し、はやく研究室に入ってくれと誘われているぐらいだ。

「安心しろ、都内を考えておる」

 ニヤリと顔を歪める明実。幼馴染のアキラが何度も見て、その後に碌な目に遭ったことが無い顔だ。

「おまえ…」

「三人とも、なにやっているの? お茶が入りましたよ」

 ダイニングキッチンから香苗が声をかける。もちろんアキラの幼馴染であるから、香苗もこの突然押しかけて来る少年をよ~く知っていた。

 おそらくアキラが様子を見に出たと同時に、明実の分のお茶も用意したに違いない。

「は~い」

 素直に返事をした明実が、その格好のままダイニングキッチンへ行こうとする。廊下一杯に迫るポリ塩化ビニールの塊に、アキラが押される形となった。

「おい、やめ、やめろお」

 そのまま横綱に突き出される小兵のように、空気圧のかかった浮き輪に押され、ダイニングキッチンの前まで飛ばされてしまった。

「あら」

「香苗さん」

 廊下とダイニングキッチンの境目は開けっ放しである。その位置で、まるで有名な大怪盗のようにジャンプ一回で浮き輪を脱ぎ捨てると、いつも自分が座る椅子へと着地した。

「今日も、お美しい」

「まあ、ありがとう」

 なみなみとお茶を注いだ湯飲みを差し出しながら、香苗も満足そうに微笑む。そして、その笑顔をクルリとアキラへ向けた。

「アキラちゃんも、ちゃんと女の子に美人とか可愛いとか言ってあげなきゃダメよ。誉め言葉は女の栄養なんだから」

「へー、そーですか」

 明実に突き飛ばされたまま廊下に座り込んだアキラが、胡坐をかいてそこへ頬杖をついた。外見からすれば言う側ではなく、言われる側だ。

「なんて顔してんだよ」

 面白くなさそうな顔をしているアキラのホッペを、ヒカルがつついてから椅子へ戻る。

「で? 海?」

 ズーッと自分専用の湯飲みからお茶を啜っていた明実へ、香苗が話しを振った。廊下の会話はここまで聞こえていたようだ。

「そうです香苗さん。夏らしく、海へ行きましょう」

 力説する明実の目には「欲望」の二文字があった。彼は科学者なので、まるで修行僧の様に、すべての欲求を捨てて理路整然としている事が多かった。こんなにあからさまなアピールは珍しいぐらいだ。

 だが、それも仕方の無い事。彼の頭脳は早熟で、幼稚園で塗り絵をしながら「これは平面であるから四色で塗り分けが可能なのだ」とか言い出す子であった。そういった早熟な子のそばに、幼馴染の母親で美人な香苗がいた。男の子の初恋相手がそういった対象であるというのは、よくある話で、「オイラ、オバちゃんのお婿さんになる」と宣言したのは、幼稚園の年長の頃であった。そのときに香苗は「じゃあ、大きくなったらね」と世の中のほとんどの女性がするだろう回答をした。

 それをしつこく明実は覚えており、いまだに香苗に好意を寄せていることは公言しているのだ。

 まあ、どんなことにも理性的な明実が、急に香苗を押し倒したりはしないだろうとアキラも思ってはいるが、自分の母親に迫る幼馴染を見ていて、あまり気分のいい物ではなかった。

 ちなみに、学生が夏休みのいま、南米はバルベルデという国へ出張中である香苗の夫、海城(つよし)氏は、相手が子供だからと余裕のある態度を見せていた。

「急に海って言われても」

 香苗が頬に手を当てて、首を傾げて見せる。

「女の子には色々準備があるのよ」

「そーだ、そーだ」

 夏休みの予定は、海になんて行かずに、部屋でゲームをする事にしたいアキラが、自分の母親を応援する。

「なんだ貴様は」

 とても機嫌の悪そうな声で明実が振り返った。

 いつもとは、あまりに雰囲気が違うので、アキラは仰け反ってしまった。

「ど、どうなされたのですか? 明実さん」

「貴様なんか四月まで『女の格好なんてできない』と嫌がっておったではないか。それを、いつの間にか、そんなチャラチャラした格好をして。『女の子の準備』? どの口が言うのだ」

 冷徹に指差されてしまった。

「これか?」

 自分のTシャツを摘まんでみせる。そういえばと、アグラをかいた事により乱れたスカートの裾を、慌てて修正した。

「涼しいんだよ」

 しっかり者の香苗が取り仕切っている海城家では、たとえ家でもだらしない格好は禁止である。それは夫であり父親である剛も従わされていた。

 暑いからといってパンツ一丁で歩き回っていたら、確実に香苗の雷が落ちる。

 ちゃんと外にも出られる服装ならば怒られることは無い。だからといって去年までの彰は、短パンですらうろつくことができなかった。

 うっかりそんな格好をしていると香苗に捕まり「きゃあ、彰ちゃんったら一丁前にスネ毛なんて生やしてるぅ」と、竹の定規で長さを測られる事間違いなしだった。

 よって、どんなに暑くても長ズボンを履いていた彰。アキラとなった今年はそんな事態に陥ることも無かった。なにせ見た目は美少女。スネ毛どころかムダ毛もあまりなく、カモシカのような足だ。さらに言えばファッションだって女の姿ならば、ズボンとスカートと比べて、涼しい方を選択できた。

 今のところ、唯一この姿になったことに感謝できる事柄であった。

「やっぱり、水着とか準備したいし」

「香苗さんの新しい水着。見たいですね」

 コロッと表情を変えて明実が香苗を振り返る。

「水着かあ」

 外見はいくら「女の子のようなもの」であっても、中身は男の子のアキラである。香苗からは女子更衣室の利用を控えよとの、指導という名の命令が出ていた。よって学校の体育の授業は出席していたが、夏季にある水泳の授業は、身体が弱いという理由を作って、全部見学していた。だからこの身体になってから、まだ水着を着た事はない。

 チラリと黒色が似合う相棒へ視線をやる。

「なんだ?」

 わずかに見ただけなのに、ヒカルが反応した。彼女もアキラにつきあって水泳の授業は見学していた。

「おまえ、あたしのナイスバディを想像してんじゃないだろうな」

「いや、まあ」

 図星だったので言葉が濁ってしまう。そんな態度にヒカルはエアガンを抜いて、アキラの右目に銃口を向けた。食いしばった歯でキャンディの柄が噛み千切られそうだ。

「そこの廊下に、おまえの脳みそぶちまけてやろうか?」

「いやいやいや」

 ヒカルのエアガンがどれだけ威力を持っているか知っているアキラが、慌てて両手を振った。

「冗談でもやめてくれ」

「ふん」

 いかにも撃てなかったのが残念そうに、ヒカルはガンスピンさせてチーフスペシャルを模したエアガンをホルスターへ戻した。

「揃って海はいいけどよ」

 アキラを放っておいて、ヒカルは深刻そうな顔をしてみせた。ユラユラと頼りなくキャンディの柄が揺れる。

「開けた場所だと狙撃なんかの心配をしなきゃなんねえ。あたし一人だと守り切れるかどうか」

「それは大丈夫だ」

 狂科学者(マッドサイエンティスト)のように顔を歪めてみせる明実。

「だれも近づけないような穴場を知っておる」

「あなばぁ?」

 幼稚園からの付き合いで、こういう顔をした明実を信用する危険性を充分認識しているアキラが、とても訝し気な声を出した。

「言っておくが」

 ヒカルが今度はアキラを指差した。

「あたしも水着の持ち合わせが無い。だから、いつもの格好だザマアミロ」

(いや、なんでザマアミロ?)

 ヒカルの心が読めなくて、キョトンとするアキラを見て、香苗がしみじみと言った。

「ごめんなさいね、ヒカルちゃん」

「まったくだ。母親ならしっかり教育しとけ」

「香苗さんになんという口の利き方」

 彼女を聖母マリアのごとく崇拝している明実が気色ばむ。

「でも大丈夫よヒカルちゃん」

 満面の笑みに切り替えた香苗は、少し胸を張って言った。

「こんなこともあろうかと、母さん準備は怠ってないわ」

「準備?」

 ヒカルが訊いた瞬間に、再び玄関のチャイムが鳴った。

「ちょうど来たみたいね。通販」



「う~ん」

 孝之は自分が汗まみれで横たわっていることを自覚した。

(あれ? 俺は…)

 記憶が曖昧で不安になる。そしてすぐに連想したことに慌てた。

(学校は! …夏休みだ)

 大事な情報を思い出して、とりあえず安堵する。それから現状把握に脳細胞が動き始めた。

(体を伸ばして横になっているという事は、俺は寝ているんだな)

 瞼を透かした明るさで、とっくに陽は昇っているという事は分かった。

(ええと、たしか終業式の日に学校で倒れて…)

 どうやら自分の部屋の、自分の布団で寝ているらしいとまで現況が把握できて、ほっと一つ溜息をついた。

 全身汗だらけの理由も推理できた。昨日、夕食をなんとか胃へ流し込んだ後、自室に戻った孝之は、体調が回復しないので、倒れるようにして眠りについたのだ。あまりにすぐだったので、部屋のエアコンを入れる暇すらなかった。そのせいで東京の熱帯夜を自覚する事なく寝る事ができたが、全身の水分という水分が寝汗として流れ出てしまったのだろう。

 そこまで思いついたら、夏の暑気を自覚するから人間というものは面白い。

「あちい!」

 腹部を守る様に乗せていたタオルケットを蹴飛ばすと、反動をつけて立ち上がった。いつもエアコンのリモコンを散らかしている学習机までやってくると、生活臭すら無いほど片付けられた机上からリモコンを取り上げて、壁面のエアコンへ向けた。

 段々と鮮明になって来る記憶の中で、由美子の心配げな表情が蘇った。

(藤原さんには悪いことをしたな。せめてお礼を兼ねて一報を入れておくか)

 由美子と連絡する手段ならば、スマートフォンがある。いつ置いたか自覚は無かったが、そのスマートフォンも学習机に置いてあった。

 一振りで電源を入れると、現在時刻が表示された。

 昼前と言うには早いが、いつも学校へ行く時間にしては遅い。そんな時間帯であった。

 それとたくさんの通知が届いていた。

 大半が、所属する天文部のメンバーからである。天文部は毎日、正午近くに太陽の黒点観測を行うのが伝統となっていた。倒れた昨日から参加していないのだから、先輩からはお怒りの電文が、同級生からは心配する内容が送られてきていた。

 とりあえず部員で構成されたグループに、昨日の体調不良と、今日の参加の見送りを入れておく。一晩寝たせいか体の調子はいつも通りといった感じではあるが、今から慌てて登校しても、観測に間に合わないかもしれない。それならいっその事サボってしまおうと考えたのだ。

 すぐに同じ一年から複数の返信が投稿された。それにイチイチ答えているとキリがないので、ミュートモードにして机に戻した。

 通信が落ち着いたころに由美子へ連絡を入れておけばいいだろう。

「さて、シャワーでも浴びるか」

 なにせ全身が汗まみれである。それと臀部に違和感すらあった。

 下世話な話しになるが、寝ながら大きい方を粗相してしまった感じがして目が覚めたのだ。

 恐る恐る自分の尻を撫でる。

 大丈夫だ、問題ない。だとすると、アレは悪夢の一種だったのであろう。それか固体に感じる程の濃さをしたガスでも出たか。

(とりあえず、着替えを用意して…、ん?)

 その時、いままで世話になっていた自分の布団が動いた気がした。

 蹴飛ばしたまま塊になっているタオルケットが、揺れるように動いている。

(ネコ? イヌ?)

 ちなみに真鹿児家ではネコもイヌも飼ってはいない。あれだけタオルケットが動くのであれば、虫などの小さな動物ではありえないはずだ。

 だが、孝之の知らない間に、妹の我儘が通って何か飼うことにしたのかもしれない。そう思いなおした孝之は、少々引けた腰のまま、自分の布団へと接近した。


 真夏の住宅街に、高校一年生男子が発したと思われる悲鳴のような声が響き渡った。




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