39 陛下と寵妃とクリームあんみつ①
「寵妃様! 危のうございます!」
「大丈夫、大丈夫! 風の精霊達が落ちないように支えてくれてるから!」
白銀のドレスローブをたなびかせ、長い銀糸の髪を風に遊ばせるままに、ディアナは魔術式飛空艇の甲板の上に立っていた。
今回の旅に同行してくれた女官達が、艇内への入り口で蒼くなりながら制止の声を上げているが、こんな景色、見る機会など滅多にないのだから、見逃すのはもったいない。
眼下に広がる世界は、深い藍色の夜天と、まばゆく輝く黄金色の夕映えの狭間に横たわっていた。雲は緋色に燃え、合間からのぞく海は、日没とともに黄金色から真紅へと変わっていく。雲の上の空から眺める夕暮れが、こんなにも色鮮やかで美しいものだなんて、ディアナは知らなかった。
「まるで、世界にある全ての色が集まって、風の絵筆でかき回されているみたい……とても綺麗ね! ハスター!」
はしゃぐディアナに対し、傍に立つ風の精霊獣、黄衣の王ハスターはフードからあらわにした美貌に、呆れた表情を浮かべている。遮る物のない甲板の上はかなりの強風が吹いているが、風の首領たる彼の纏う黄衣は大して揺れ動いてはいない。飛空艇の周りは、彼の従える風精達が群れをなして取り巻いている。彼等は皆、大きな鳥や、翼を生やした魚や、鯨の姿を好む。
『ただの夕暮れがそんなに珍しいのか? こんな大層な物に乗らなきゃ、空すら飛べないとは。つくづく、人間は不便だな』
「それはそうよ。だから、貴方達の力を借りたがるの。迎えに来てくれて、ありがとう!」
『別に、迎えに来たわけじゃない。離宮にいると他の奴らが、お前が今どのへんにいるか教えろと煩いから、逃げて来ただけだ』
「どちらにしても、嬉しいわ。グランマーレ帝國に行っていたのは一週間くらいなのに、なんだかすごく懐かしいの… …あ、あのね、陛下はお元気だった?」
頬が赤いのは夕陽のせいだけではなかった。もじもじと身動ぎながら答えを待つディアナに、ハスターは蜂蜜色の双眸を意地悪く細める。
『そんなもの、着いてから本人に聞けばいいだろう。ーー見えたぞ。お前の国だ』
「ーーっ!」
陽が沈み切ると、空は急激に暗くなる。
飛空艇の高度が下がり、船首が薄絹を裂くように雲を切っていく。
雲を抜けた先ーーディアナの眼の前に、満天の星空が開けたかと錯覚するほどの、壮麗な夜景が広がった。
魔法大国バルハムート帝国、帝都ドラゴニア。
隆起の多いリアス式の海岸線に沿っているため、その全貌は龍の翼の形をしているのだという。そう、授業で習った時は、大して似ていないと思っていたのに。
「本当に、翼の形に見えるのね……古い言葉で、帝都が光の龍の翼と呼ばれている意味が分かったわ」
『そうだな。ーーおい。艇内に戻れ、お姫様』
唐突に、厳しい声でハスターが促した。それまでは柵から身を乗り出そうが何も言わなかったくせに、と、ディアナは怪訝に思って彼の顔を見上げる。彼もまた、喉をそらして天を見上げていた。
『妙な気配がする。向こうの国から何か連れて来たのか?』
「気配……? 別に、何かを連れて帰って来た覚えはないんだけど」
『良くも悪くも、お前はやたらと精霊に好かれるからな。相手の正体がはっきりしない以上、害がないとも言い切れん。念のために艇内に入っていろ。どのみち、じきに着陸する』
「分かったわ」
ディアナはうなずいて、言われた通りに艇内へひっこむことにした。甲板を去る寸前、天の高みから、低い遠雷のような響きを聞いたような気がしたが、眼を凝らしてみても、夜天と雲の他には何も見つけることが出来なかった。
❇︎❇︎❇︎
皇宮敷地内に設けられた、魔術式飛空艇、専用飛空場は、途方もない大きさをした円形の石盤である。
ディアナを乗せた飛空艇は石盤の上にふわりと降り立ち、その帰還を宮廷魔術師副師長のオルカナ・ラファエラ・ジブリール率いる多くの従者達が待っていた。ディアナの親友、ソレイユの父である彼は、美しく垂れ下がる金蜜色の髪や強い意志を感じさせる翡翠色の目元などが、彼女によく似ている。
「ディアナ様。ご無事のご帰還、心よりお喜び申し上げます」
オルカナはタラップを降りたディアナに深々と頭を下げ、帰還の無事を丁寧に祝った後、後に続いた父アンブローズに近づき、何やら小声で耳打ちをした。
アンブローズは蒼の双眸を少し見開き、やれやれと言うように嘆息する。
「ーーそういうことは、俺よりもディアナが適任だろう。ディアナ、ディートリウスだが、会議が長引いたために迎えには来れなかったらしい。今週末、リンドヴルム魔術学院で行われる催しに参加するのが嫌だとごねているそうだ。お前からそれとなく説得してくれないか? いつまでも、皇宮の奥に潜む仮面の魔帝のままでは、政にも支障が出るからな」
アンブローズの言葉遣いに、オルカナの表情がとても渋いものになったが、これはディアナからのたっての希望である。公の場以外は、寵妃と臣下ではなく父と娘として接して欲しいと強く強く、強く希望し、ディートリウスにもしっかりと許可を取ったため、渋い顔をしたものの、オルカナは喉から出かかった小言を飲み込んだようだった。
「私がですか? 分かりました、陛下にお話をうかがってみます……でも、陛下はわがままを仰っているのではなく、ご自身の魔力による影響を案じられているのではないのでしょうか?」
今週末に行われる催しなら、きっと学院祭のことだろうとディアナは思った。今回のグランマーレ帝國への訪問もそうだが、ディートリウスは生まれつき持つ強大な魔力によって、周囲に望まざる影響を与えてしまうことを何よりも恐れているのだ。だからこそ、奇異に見られることを承知で、幼少の頃からあの重たい仮面ーー希少鉱石、魔黒封石で作られた龍頭の仮面ーーを、肌身離さず身につけている。父に反発するわけではないが、ただの子供のわがままのように言われてしまうのは悲しかった。
アンブローズは蒼い瞳を張り詰めてディアナの顔をじっと見つめた後、すまない、と小さく詫びた。
「言い方が悪かったな。勿論、そのことは俺達も良く分かっているつもりだ。ーーだが、それを理由に引き籠りがちになっていることも事実なんだ。ディアナ。ディートリウスの魔力による影響は、あの仮面と、お前が側にいて魔力を循環させることで、ほぼ完全に防ぐことが出来ている。しかも、開催場はリンドヴルム魔術学院。会場にいるのは鍛錬を積んだ優秀な魔術師ばかりだ。危険性は限りなく低い。あと足りないのは、トラウマを克服する勇気だけだ。お前が、あいつの勇気になってやってくれ」
その言葉には、一人の臣下として君主に抱く以上の深い愛情が込められているような気がした。アンブローズはディートリウスの父である前皇帝時代から、宮廷魔術師長として仕えてきた老臣だ。ディートリウスが産まれてからは腹心として、また、魔術の師として傍に寄り添い、幼少の頃に父母から引き離された彼のことを支えてきた。時を巻き戻した代償として、ディアナに注ぐことの出来なかった愛情の全てを、アンブローズはディートリウスに注いで来たのだ。臣下よりも、親に近い感情を抱くのも、当然のことかもしれなかった。
分かりました、とディアナは微笑んだ。
「月の離宮でお茶でも飲みながら、陛下とお話ししてみます。御用事がお済みになったら、来ていただけるようにお伝え下さい。ーーでも、どうしても嫌だと仰られたら、そこにはきっと深い理由があるのでしょうから、無理強いはしませんよ?」
「ああ。帰って早々、手間をかけさせてすまないな……」
アンブローズは柔らかく双眸を細めた後、ディアナの頭に手を伸ばし、優しく撫でた。
「……!」
ディアナは紫水晶の瞳をいっぱいに開いて、固まってしまう。物心ついた時から、父に触れられたことなどなかった。時の呪縛から解放され、ようやく本来あるべき親子の形に戻ってからというもの、アンブローズは時々こうして愛情を込めて頭を撫でてくれるのだが、そのたびに、幸せすぎて胸がいっぱいになる。
感極まるあまり、眦に薄く涙を浮かべるディアナに、アンブローズは苦笑した。
「リーリスに、良く似てきたな」
「そ、そう、ですか……?」
「ああ。お前は相手のことを良く考える。思いやりがあるところがそっくりだ。あいつの記憶があるわけでもないのに、子供というのは不思議なものだな……」
「……あの、お父様。よろしければ今度、お母様のお話を聞かせて下さい。どんな方だったのか、ずっと知りたかったんです……でも、今まで尋ねることが出来なくて。も、もちろん、思い出すのがお辛いようでしたらーー」
「そんなことまで気を回すな。……そうだな。俺もお前に知って欲しい。話したいことがたくさんある。今度、改めて時間を取ろう」
「ありがとうございます……!」
ディアナがにっこりと微笑んだ時、迎えの馬車が到着した。馬車に乗り込み、月の離宮へと向かいながら、また少し、父との距離が縮まったことをとても嬉しく思った。




