9 月の離宮
つい、と漆黒の龍の仮面の口端が、翼壇に控える父を向く。
『……アンブローズ』
「は……」
陛下の声が父の名を紡いだ瞬間、身が震えた。
子の責任は親の責任、子の罪は親の罪だ。私の犯した失態のせいで、父がなんらかの責任を負わされる可能性もあるーーしかし、その心配はすぐに杞憂に終わった。
先ほどは、気のせいかと思われるほどの微笑だったが、白い手元が添わされた陛下の口元から、『くっく……』と明確な笑みが零れたからだ。
翼壇の二十四名が、ざっ、と揃って玉座を見上げる。
彼等の表情から察するに、陛下がこうして笑みを零されるのは珍しいのだろう。
しばらく経って、仮面の下から愉悦の滲んだ言葉が漏れた。
『……流石、お前の娘というだけあって、威勢が良いな』
ーーッ!?
「も、申し訳ございません……っ!!」
再度、謁見の間に、少々うわずり気味の私の声が響き渡った。父の顔は怖すぎてもう見れない。出来ることなら、このまま一生平伏していたい。顔も身体も、真っ赤を通り越して茶色くなってしまいそうだ。
世にその名を轟かす魔帝陛下その人に、「おたくのお子さん、お元気ねぇ(苦笑)」的な台詞を、公然の場で述べられてしまうなんて……!
は、恥ずかしい、恥ずかしい……っっ!!
だがしかし、事態は明転したようである。
陛下のご反応に、お咎め無しと判断したらしい皇宮付きの女官達が、あれよあれよという手際で謁見の間から私を連れ出していく。
「ーーささ、寵妃様。こちらへ」
そのまま、寵妃達の滞在用に用意された賓客室へと案内される手筈だった。賓客室は防犯の関係上、一室一室に距離がある。私にあてがわれたのは中庭に面した一室でーーだが、部屋を目指して回廊を渡る途中、遠目に、廊下を横切る父の姿に気がついて足を止めた。女官達に断りを入れ、父のもとへと駆けつける。
ただ一つだけ、確かめておきたいことがあった。
「お父様……!」
護衛もつけず、父は一人でいる。式典用の導衣を着たままということは、謁見の間から直接こちらへ来たのだろう。進行方向に回り込む形で現れた私に、父は足を止めざるを得なかった。それが本意ではないということは、表情の険しさを見れば分かる。
邪魔だと一蹴される前に、先手を打つ。ドレスの裾を優雅に持ち上げ、最上の礼を取った。
「先程の、謁見の間での一件。場を弁えぬ稚拙な行いでございました。謹んで、お詫びを申し上げます」
「ーー用件はそれだけか」
「いいえ。……お父様にお伺いしたいことが御座います。謁見の間でのファフニール嬢の言葉は、お父様もお聞きになっていたはずです。確かに、反対を押し切って、あの場に参じると決めたのは私です。どんな結果になろうが、受け止めるべきなのかもしれません。ーーけれど、陛下のおられる公然の場で、娘が貶められたのです。それも、実の子供ではないのでは、という侮辱まで受けました。なのに、どうしてなにも言って下さらなかったのですか……?」
言葉でなくてもよかった。
一瞥をくれるだけでも、杖で床を打つだけでもいい。
父ならば、それだけで確実にファフニール嬢の暴言を止められたはずなのに。
なのに、あの時の父は、こちらに顔を向けようともしなかった。
手を差し伸べようとする意思を、少しも感じなかったのだ。
一体、どうして。
「お……お父様は、私のことを、愛してくれて……いないのですか」
「ーーお前は」
父の苛立ちが痛いほど伝わってくる。彼は、とても煩わしいものを見る目をしていた。
その冷たい蒼の底に、わずかでも憂いや悲しみの類が沈んでいないかを感じ取りたくて、すがりつくように眼を凝らす。
ほんの少しでいい。
小さな希望が欲しかった。
だが、父は私から顔を背け、決定的な一言を穿った。
「お前は、自分が愛されているとでも思っていたのか?」
「ーー……っ!」
「俺は、お前が生まれてこの方、ろくに顔を合わせようともしなかった名ばかりの父親だ。お前はもっと、賢いと思っていたのだがな」
「どうして……ですか? 私に、魔力がないからですか……?」
そうだと言って欲しかった。
魔力がないから、魔術が使えないから、才能がないから、努力が足りないから。
だから、愛せないのだ、と。
父は、ゆっくりとかぶりを振った。
「魔力があろうとなかろうと、関係ない。お前が望まれて産まれて来た子供なら、その名には祝福名が刻まれる。それすらも持たないお前は……そういうことだ」
「……」
わかっていた。
わかっていたのだ。
「……でも、もしかしたら……他に、理由があるのでは、と」
あって欲しいと、願っていた。
ずっと、長い間ーー
「ーー愚かだな」
その言葉を聞き終わる前に、踵を返して駆け出していた。頭ではなにも考えていない。返答への衝動的な拒絶だった。用意された賓客室には向かわずに、回廊から階段を下って中庭へと駆け降りる。
ヒールの踵が石畳の目地に挟まり、靴が脱げても止まらなかった。
どこに行こうとしているのか、走っている自分にも、もうわからない。
ーーただ、ただ、今は。
「ルシウス、ルシウス……! ひ、独りに、独りになりたいの……誰にも、見つかりたくない……!」
それまで、気がつくと傍に控えていた彼の姿が、今はどこにもない。無意識に、頭上の花冠に手が触れていた。彼が贈ってくれたこの花が、彼と私を繋げてくれるような気がしたのだ。
ルシウスは、すぐに現れた。
『お任せを、我が主。ーーでは、どうぞこちらへ』
息を切らせて走る私の手を、彼が取る。白銀の薔薇の咲き誇る緑門の中へ、導かれていく。潜り抜けた先に、今まで走っていた中庭の景色はなかった。
「ここは……」
やけに静かな場所だった。
夜天から注ぐ月明かりの下、緑の木蔦に守られた、離宮と思わしき石造りの建物がひっそりと建っている。
居住空間の周囲を、たくさんの柱に支えられた回廊に囲まれた、ずいぶんと古めかしい様式の建物だ。
『ここは、〝月の離宮〟と呼ばれる場所だよ』
ルシウスが、離宮の入り口の扉を開きながら言う。
『昔、とある寵妃が好んで住んでいた場所でね。しばらく使われていなかったから、ちょっと掃除しなきゃいけないだろうけど。どうかな?』
「静かな所……」
しんと押し鎮まった離宮の中は、ひんやりと冷たく、砂塵の匂いがする。窓から差す蒼い月明かりをみつめていると、砂漠に建つ神殿にでもいるような錯覚に陥った。乱れていた心の内が、不思議と落ち着いていく。
最奥の部屋は、広々とした間取りの閨だった。
明かりもないのに不自由しないのは、天井に取られた丸い天窓のお陰だ。硝子越しに月が覗いている。
寝台の上に腰かけて、シーツの上に掌を滑らせてみた。しばらく使われていない場所だとルシウスは言っていたが、絹の寝床には虫食いひとつなく、埃らしい埃も積もっていない。
そっと身を横たえた途端、身体は泥のように動かなくなった。
疲労感と睡魔が、押し寄せてくる。
「ルシウス。私、しばらくの間、ここにいてもいいかな」
『御心のままに。今は誰も使っていない場所だし、構わないだろう。たまにあの子がーーっと、今はいいか。とにかく、君がいてくれた方が、みんなも寂しくない』
「みんな……? ここには、私達以外にも誰かがいるの?」
『それはもうたくさんね。ここに居着いている精霊は、以前、ここを愛していた寵妃を慕っていた者達ばかりだ』
「そうなんだ……残念ね。私にも、精霊の姿が見えたらいいのに……」
『君になら、見えるよ』
「無理よ……私には魔力がないから……だから、魔術だって使えない。だけど……」
『だけど……?』
ルシウスの声が、意識が、急激に遠ざかっていく。天窓から覗く月の輪郭が、銀色に滲んで、眦から零れ落ちた。
ひとつぶ、またひとつぶ。
やがては、止めどなく流れていく。
母の命を奪った私に、泣く資格などないのだと耐えて来た。父の前では、流すことの叶わなかった涙だった。
「なにもかも……わかっていたの。いくら努力したって、意味なんてないって。認めるのが怖くて、気づくのが怖くて……ずっと、そのことから目を背けてた。でも、さっき、ちゃんとわかっちゃった……」
『……』
「魔力があろうがなかろうが、関係なかったんだって。私は、産まれた時から必要とされてなかった。これから先も、何をしようと、お父様に愛してなんかもらえなーー、……っ!」
零れた涙を、すべらかな指先に受け止められた。
ルシウスの碧玉の瞳が、触れるほど近くで私を見つめている。窓から差す月の光が、長い銀糸の睫毛を透かして影を落とす。
ふ、とその双眸が笑みの形に細まった。
『泣き虫だね、ディアナ』
「ご、ごめ……なさ……っ!」
『謝ることなんてない。泣きたいなら泣けばいい。人間は、心が苦しいと、力が歪んでしまうんだよ。だから、好きなだけ泣くといい。それだけの涙を、今までずっと、堪えてきたんだろう』
ゆっくりと、一言ずつ。幼子に言葉を教える時のように、彼は言う。
頭を撫でられ、優しく背をさすられて。
ようやく私は、長い間、胸に閊えていたものを、吐き出すことが出来たのだった。