29 水の懲罰
その頃、所用を終えたレアンドロスは〝月の扉〟のある学院街へと向かっていた。
また人だかりが出来るようなら転移の魔術をと思いもしたが、休日のキャンパスは人気がなくガランとしている。誰かに出会さないうちに、とキャンパスの中庭を横切ろうとした彼は、ふとあるものを見つけて足を止めた。日当たりの良い石畳の路にへばりつくように、一人の青年がぐったりと倒れている。
「……何だ?」
不審者かと思ったが、身なりがかなり良い。黒に近い藍染の導衣には、光の当たり加減で青海波が浮かび上がる。よく見ると、綿密に織り込まれた魔術紋だった。
こんな手間の込んだ導衣を着ているのだ。よほど高位の魔術師に違いない。抱き起こして顔を見てみると、恐ろしく美しい青年だった。青みがかった黒髪を襟足の部分だけ長く伸ばしている。きつく目を閉じ、顔色は蒼白だ。視線で細い喉をたどっていくと、胸元の合わせに行き着く。グランマーレの伝統的な装束に似た作りだ。
もしや同郷の者か、とレアンドロスは興味を惹かれた。何よりも、その身から滲み出す水の魔力の清浄さに驚いたのだ。
「ーーもし。大事ないか、見たところ、具合が悪そうだが?」
声をかけると、長い睫毛がわずかに震えた。薄っすらと持ち上がった瞼の下から、宝石のような瑠璃色の瞳がのぞく。青年は瞳の面にレアンドロスを映したまま、赤みの失せた唇を開いた。
『………………死にたい』
「は?」
『……もう嫌だ。暑いし、眩しいし、大嫌いだ……太陽なんて、僕が大きかった時に飲み込んでおけばよかった……』
「……よく分からないが、暑さに弱いのなら日陰に移動するべきではないだろうか。向こうの池の畔にベンチがある。座って休んだ方がいい」
『無理……もうこれ以上動けないし……動きたくない……このまま干からびた方がマシだ……』
「何故に、そうも悲観的なのだ」
『……僕は、静かなのが好きなんだ……ただ、静かにじっとしていたいだけなのに、出てこい出てこいって煩いしさ……出てきてもろくなことがないのに……あの子が溺れかけたのだって、僕がいたせいで、無駄にみんなが張り切ったからだ……やっぱりこんな所、来なきゃよかった……』
「あの子?」
『……何でもない……もう、どうでもいいよ……』
無気力な言葉とともに眼を閉じてしまった青年に、レアンドロスは嘆息した。これ以上の説得は無駄と割り切り、立ち上がって、溜塗の杖でトン、と地面を突く。
次の瞬間、二人は庭にある池の畔に移動していた。合歓の木の梢枝が頭上を覆い、木陰にはベンチがある。
レアンドロスは青年の身体をベンチに腰掛けさせ、持っていた手巾を手渡した。
「しばらく、ここで休んでいくといい。僕が良く読書に使う場所だ。池の上を渡る風が、冷たくて心地良いだろう?」
『……うん』
「では、用があるので、僕はこれで」
『……うん。……どうも、ありがとう』
「大したことはしていない」
レアンドロスは青年に背を向け、その場を立ち去ろうとする。ーーその時、背後で、水の魔力が急激に高まるのを感じた。青年の声が頭の中に響く。
『ーー静寂を愛する者に安らぎを。水底に眠る者の祝福あれ』
「ーーっ!」
振り向くと、今の今までベンチに座っていた青年の姿がどこにもなかった。
「……今のは」
レアンドロスはあっけに取られた。母国で言う、狐に摘まれたような心地だった。何が起きたのか確かめようとベンチに近づきかけたが、不意に上がった数人の悲鳴に引き留められた。
すぐ側の、薔薇の垣根の向こうからだ。
「今度は何だ……!」
回り込んでみると、十人ほどの生徒達が防御系魔術で生み出した水の壁の中で膝をついていた。彼等の前には鋼鐡で出来た巨大な槍が立ちはだかり、ひとりでに突いたり、素早く回転して斬りつけたりして、防御の壁を破壊しようとしている。
よく見ると、中にいるのは全員、グランマーレからの留学生だった。レアンドロスが冷静に状況を把握しているうちにも、槍の猛攻は激しさを増し、ついに防御の壁を貫いた。留学生達がいっせいに大仰な悲鳴を上げる。
レアンドロスは、トン、と溜塗の杖で地面を打った。
「ーー壮麗なる氷精よ。我が意に沿いて盾となれ」
瞬間、巨槍の前に盾のような氷塊が幾重にも突き出した。猛然と彼等に迫る槍の動きを防ぐと同時に、見る間に表面を霜が覆い、そのまま氷漬けにしてしまう。それだけに止まらず、氷塊の温度はさらに下がり、キシキシと軋む音を立てながら、亀裂が入っていく。
「砕けよ!」
パァン……ッ!
粉々に砕けた氷晶が辺りに舞い散り、キラキラと輝きながら消失した。槍の影は微塵もない。窮地を救われた留学生達は、我先にレアンドロスに駆け寄った。
「レアンドロス皇太子殿下……!!」
「ありがとうございますっ!! なんとお礼を申し上げたらよいか……!!」
だが、いくら涙ながらに礼を言われても、レアンドロスの心には届かなかった。感謝を伝えた二言目には、見えすいた媚を言わなければ気が済まないのかと呆れてしまう。これなら、先ほど出会った悲観的な青年が、ポツリと呟いた感謝の言葉の方が何倍も嬉しかった。
レアンドロスは、彼等が代わり代わりにおべっかを言うのを片手で制し、尋ねた。
「術者がいなくても敵を追尾する、鋼鐡の巨槍。そんなものを生み出せるのはーーヴィルヘルム・ヴァンクール・アイアンノーツ。火と地の精霊の厚い加護を受けた、あの男しかいない。お前達、彼との間に何があった」
「な、何も……何もありません、殿下!」
「そうです! 突然、戯れのようにあの槍を放たれ、我らはなすすべもなかったのです……!」
「ーーそうか。それは、災難だったな」
ふぅ、と薄い唇の間からため息を吐く。
瞬間、目の前にいた一人を残し、その場にいた留学生達全員が、地面から噴き出した無数の水柱に飲み込まれた。
「ガッ……!?」
「ゴボッ、ガボボ……ッ!?」
水柱は見上げるほどにまで聳え、硝子のように透明な円柱の水塊となる。留学生達は硝子瓶の中の生物標本のように閉じ込められ、肺の中の空気を吐き出しながら、ただただ、もがき苦しむことしか出来ない。
「ひ……っ! ひいいっ!?」
一人残された留学生は、ガクガクと震えながら、蒼白になった顔を向けた。
「で、でで殿下……っ! い、一体、何をなさるのです……っ!!」
「嘘を吐いた罰だ。僕は、なによりも嘘が嫌いだ。お前が本当のことを話さなければ、皆、溺れ死んでしまうぞ?」
淡々とした声音で言いながら、それを見下ろすレアンドロスの表情は動かなかった。
怒りを感じる時はいつもこうだ。
心が熱くなり、感情が爆発するのではなく、逆に、心も、感情も、思考すらも、熱を失って凍りついていく。
やがて、留学生は噛み合わない歯の間から掠れた声をひり出した。
それは、怒れるレアンドロスの心から、人間らしい熱や感情をさらに奪っていく内容だった。




