8 五人の寵妃
謁見の間に通されて、愕然とした。
「そんな……どうして……?」
驚きのあまり、途中で足を止めてしまった私の傍で、ルシウスがくすりと笑みを漏らす。
『ーーへぇ。これは、面白いな。〝精霊王の寵妃〟が五人とはね』
あり得ないことだ。この国には皇帝が側室を持つ習慣がない。妻は皇后ただ一人であり、故に、〝精霊王の寵妃〟に選ばれる乙女はたった一人だ。
それが、長きにわたる帝国の伝統だった。
それなのに、何故。
深い漆黒の、曇りひとつ無い総大理石造りの広間には、私よりも先にこの場に参じた四人もの花嫁達が、従者や侍女、たくさんの召使達を従えて立っていた。ヴェールに覆われているせいで、花嫁達の顔は分からない。ーーが、その内の一人のヴェールから溢れる、陽の光を集めたような金蜜色の髪に、思わず声を上げた。
「ソレイユ……!」
「その声は……ディアナ? まさか、そんな……どうして貴女まで!」
間違いない、ソレイユだ。
今日の昼休み、一緒に昼食とお菓子を楽しんだ馴染みの友人が、眩しいほどに優美な純白の花嫁衣装を纏い、目の前に立っている。
夢でも見ているような心地だった。
「私にも、わけが分からなくてーー」
ーーカンッ!
唐突に耳を穿ったその音が、会話を断ち切り、言葉を砕く。玉座の下に設けられた壇上に厳粛な面持ちの父の姿があり、今のは、父の杖が床に打ち付けられた音なのだと気がついた。
謁見の間には、その独特の形状から、飛龍の翼と呼ばれる左右一対の官僚席が設けられている。右の翼壇に皇帝陛下直属の精霊騎士団が。左の翼壇に父アンブローズを筆頭第一席とする宮廷魔術師団が、それぞれ十二名ずつ並ぶ。
中央最上段の玉間には、翼を広げた漆黒の飛龍を象った、見事な細工の玉座が鎮座している。
そこに、闇色のマントを翻し、悠然と歩み出る影があった。
ーー仮面の魔帝ディートリウス・アウレリアヌス・バルハムート。
強大な力を抑えるために、彼はいつ何時でも、漆黒の龍の頭部を模した仮面をつけているーー巷で囁かれている噂の通り、目の前に現れた彼の顔も、仮面に覆われていた。
その異様な姿にわずかも違和感を感じないのは、顔を隠してなお、あまりある荘厳さと、その全身から発せられる威圧感のせいか。
仮面はまるで、彼の身体の一部であるかのように納まっている。
飛龍の翼、右翼の第一席。ロベルトの父、精霊騎士団長のローゼンハイツ・フリードリヒ・アデルハイド公が、陛下への一連の挨拶を述べた後、この場に参じた五人の寵妃の名を、順に述べていった。
寵妃の一人は、なんとローゼンハイツ公の第一令嬢にあたる、ロザリア・アレキサンドラ・アデルハイド。私の友人ロベルトの、実の妹だ。ロベルトよりも二つ年下の彼女は、幼い頃から負けん気の強い、男勝りなおてんばだった。それがすごく可愛くて、よくロベルトやソレイユと一緒に、彼女を英雄に見立ててドラゴン退治ごっこをしたものだ。大きくなってからは、私達とは別の養成学院へ入学したと聞いていたけれど……それが、こんな形で再会するとは思わなかった。
次の一人は、帝都一の大商会、ファフニール商会を経営する侯爵家の御令嬢。レジーナ・フォン・ド・ファフニール。商会は皇帝陛下直々に魔術式飛空艇による商船団の運営を一任されており、前皇帝、現皇帝ともに信頼が厚い。レジーナ嬢は私やソレイユと同じ帝国立リンドブルム魔術学院に通う学院生でもある。たしか、彼女は魔術科でなく魔術商業科だったはずだ。
そして、他とは違う圧倒的な威圧感を発しているのは、青藍の輿の中におわす東の友好国、グランマーレ帝國の皇女、アルテミシア・ラリマール・グランマーレ。彼女はお忍びという名の公認の慰安旅行のために、この帝国にやって来ていた。皇宮にて皇帝陛下と謁見の後、西方に位置する保養地にて滞在の身であったという。建国の物語に登場する〝月の娘〟の血を守るため、〝精霊王の花摘み〟で選ばれる寵妃は〝国中の乙女〟に限られるはずなのだが……本当に、今回は異例続きだ。
そして、宮廷魔術師第二席、オルカナ・ラファエラ・ジブリールの令嬢、ソレイユ・ガブリエラ・ジブリール。実技魔術および座学ともに優秀な学年首位の宮廷魔術師候補生。私の友人であるソレイユだ。
最後の一人が、この私。宮廷魔術師長、アンブローズ・メルリヌス・ゾディアークが娘。魔力ゼロの落ちこぼれ令嬢こと、ディアナ・ゾディアーク。
アデルハイド公が全ての寵妃の紹介を終えた後、玉座に座していた魔帝陛下が立ち上がった。
黒貂の毛皮だろうか。神秘的に艶めいたマントから、病的なまでに白い両の手が、こちらに向かって差し伸べられる。
ーー瞬間。
「ーーひ……!」
小さな悲鳴を上げたのは、私の隣に立つソレイユだった。彼女だけではない。よく見れば、並び立つ寵妃たちが、純白のドレスに包まれた身体をガタガタと震わせている。
……別段、寒くもないのだけれど。
首を傾げているうちに、夢で聞いた通りの、あの魅惑の低音美声が、謁見の間に朗々と響き渡った。
『精霊王に選ばれし聖なる乙女らよ。各々、足労大義であった。ーー此度、〝精霊王の花摘み〟の儀によって、異例ではあるが、複数の乙女らが選ばれたようだ。しかし、彼の者による選定は、未だ終わってはおらぬ。真の〝精霊王の寵妃〟が見出されるまでの間、乙女らには精霊王の加護溢れるこの皇宮内で過ごされるよう願いたい。……夜も更けた。皆、今宵はゆるりと休まれよ』
……耳がとても幸せだわ。
夢の中でも感じたが、彼の声はとても心地良い。コントラバスの音色が耳だけでなく身体全身で響くように、深く包み込まれる。
話の内容的には、集まってもらったけどまだ査定が終わってないみたいだから、ここで暮らしながらちょっと待ってね。ーーと、そういうことだ。
「精霊王様も、なんだかいい加減ね。そう思わない? ソレイユ……ソレイユ?」
父に聞き留められないよう、小声で彼女に声をかけたが、ソレイユはカタカタと歯を鳴らすだけで答えない。硬直しているのだ。なにか、恐ろしいものでも見ているように、蒼ざめた横顔をしている。
「……は、話には聞いていたけれど、なんて恐ろしい方……!」
「恐ろしい……皇帝陛下のことを言っているの? どうして、確かに妙な仮面を被っておられるけれど、それだけじゃないの」
「まさか……!! 今だって、お声に纏われた魔力が凄まじかったわ。それに、あれだけの間合いを取っているのに、気を抜くと全身から魔力が抜け落ちてしまいそうになる……どうして、ディアナは平気なの?」
「さあ……魔力がないからじゃないかしら?」
「ーーぷ……っ!」
幼い少女のような可愛らしい声で吹き出したのは、ソレイユの隣に並び立つ寵妃、レジーナだ。
ヴェールを被っているものの、彼女は五人の中で一際背が低い。体格も小柄で華奢だから、区別がつきやすいのだ。
「学院内で耳にした噂は、本当でしたのね? 〝かの大魔導師、宮廷魔術師長アンブローズ様のひとり娘は、魔術の使えない落ちこぼれ令嬢〟。その原因が、まさか、魔力が無いからだったなんて! 貴女、本当にアンブローズ様の娘でして? ぷぷ……っ! くすくすくすっ!」
「……っ」
「アンブローズ様もお気の毒に。これ以上、かの偉大なる御方に恥をかかせないためにも、せめて去り際くらいは美しくあるべきですわ。魔力のない者に、寵妃の座は務まりませんの。さっさと御辞退なさってはいかが?」
ーーそんなことは分かってる……!
絹の手袋が爪で破れるほど握りしめていた掌に、そっと別の手が添えられた。
ルシウスだ。
『ーーこんなに手を震わせて。怒っているのかい、僕の主』
「……あ、たりまえじゃない」
『魔力のないものは寵妃には相応しくないと、笑われたから? でも、君だってさっき自分で、そう言ってたじゃないか』
「私を貶めていいのは、私だけよ!! これまで重ねてきた努力も苦悩も知らない他人に、好き勝手言われる筋合いはないわ!!」
ーーそう、思いっきり怒鳴りつけて……ハッと気がつく。
そうだ、父の前でルシウスが言っていたではないか。
〝自分の姿は限られた者にしか見えない〟と。
当然、声に関しても同じなようで、勢いよく切った私の啖呵は、十回以上のエコーとなって、繰り返し繰り返し、荘厳なる玉座の間に轟き続けたのである。
「…………っっ!!??」
ーーやってしまった……!!
宮廷魔術師長アンブローズの娘、国の最高位の魔術師貴族の令嬢ともあろう者が、皇帝陛下のおわす謁見の間のど真ん中で、あの程度の軽口をいなす事も出来ず、大声を荒げて怒鳴りつけてしまうだなんて……!
不敬だと叩き出されてしまうだろうかと蒼白になる私を、飛龍の翼、両翼から四十八の冷たい瞳が容赦なく刺し貫いてくる。
しかし、中央におわす魔帝ディートリウス・アウレリアヌス・バルハムート陛下は、一連の様子を終始無言で見つめるばかりだ。
ひたと落ち着いていて、静かなその視線に、夢の中の彼の眼差しが重なった。
「……ぁ」
意図せず、顔が熱くなる。
ーーその時。
『……ふ』
仮面の下に覗く唇が、わずかに微笑みを刷いたように見えた。