11 馥郁たる黄金色の蜂蜜酒③
学生街に連なる日差しを抜け、円形の中央広場へ。
強い日差しの中に身を踊らせたソレイユは、耳の横を伝い落ちる汗を手の甲でぬぐった。三時の時鐘は鳴ったばかりで、広場も街も、まだ閑散としている。その仕草をみっともないと嘲笑う者はいない。
「ソレイユ。はい、ハンカチ」
ーーが、周囲の眼よりもはるかに厳しいお目付役がいることを忘れていた。
ソレイユは軽く息をついて足を止め、背後のロベルトを振り向いた。
「ありがとう。流石、英雄名家アデルハイド家の御令息ね。こんな時でも立ち居振る舞いが冷静で紳士的だわ」
「それはどうも。ーー少し、影に入って休もう。学生街は広い。焦ると、見つかるものも見つからなくなる」
「焦ってなんかいないわ! 真剣に探しているだけよ!」
「はいはい、分かったからこっちにおいで」
柔らかな、しかし有無を言わせない態度で、ロベルトはソレイユの手を取り、広場の端にある木陰の中とエスコートしていく。
ソレイユの皮肉や剣幕を、何でもないことのようにいなしてしまえるのは彼くらいのものだ。幼馴染みはこれだから困る、とソレイユは唇を噛みしめる。長年に渡って染みついた兄妹のような感覚は、いくつになっても無くならない。
ロベルトとは片手で数えられる年端の頃からの付き合いだ。彼はその頃から落ち着いていて、物分かりの良い大人びた少年だった。ソレイユにとっては実の兄のような存在だったから、同い年だと聞かされた時には大いに驚いた。
親友であるディアナが〝精霊王の寵妃〟に選ばれた後、密やかに積み上げてきた想いが通じて、二人は晴れて正式な婚約者となった。夢にまで見ていた願いが叶ったのだ。物語の中の恋人同士のように、自分達も甘い時間を過ごすことが出来るのだろうかと憧れを膨らませていた。
ーーしかし、いくら待ってもロベルトは、ソレイユのことを恋人として扱おうとしない。
相手が尻込みしているならこちらからと思うのだが、他のことならまだしも、女性からその手のことに誘いをかけるのは、教養ある淑女にあるまじき行為だ。ロベルトに失望されることを恐れ、ソレイユには待つことしか出来なかった。不平不満は一日ごとに積もり、もはや、爆発する寸前だ。
静かな怒りをふつふつと滾らせるソレイユに、ロベルトはちょっと困ったような笑みを浮かべた。静かに、その目蓋を閉じる。
「ーーたおやかなる風精よ。空より来たりて涼やかに吹き渡れ」
「……!」
サアッと吹き降りた一筋の風が、ソレイユの金蜜色の髪を揺らしていく。梢を鳴らし、足元の御影石に翠緑の木漏れ日が散った。涼やかな風は火照った肌に心地よく、昂っていた気持ちが少しだけ落ち着いた。ソレイユ、と呼びかける声はとても優しい。
「最近、ずっと苛々してるね。どうしたの、ディアナが学院にいないのが寂しいのか?」
「……違うわ」
どうしたもこうしたも、あるものか。
見当違いの問いかけに、治りかけていた怒りがふたたび火を吹いた。憤りを溜め込んだまま黙っていたら、ロベルトは小さく息を吐き、受け取らないままになっていたハンカチで、ソレイユの額の汗を拭き取ろうと手を伸ばしてきた。
「子供扱いしないで!」
「ソレイユ?」
「いちいち貴方に突っかかって、ムキになって、みっともないと思っているんでしょう。所詮、貴方にとってわたしは手のかかる妹なのよ。だから、こんな子供じみた扱いしか出来ないんだわ。ロザリアとわたしに、明確な違いがあると言える?」
「ソレイユ、ちょっと待って。何を怒っているのか分からない。どうして、ロザリアの名前が出てくるんだ?」
「あらそう、分からないならはっきり言ってあげるわ。貴方にはわたしのことを、恋人として愛するつもりがないのだと言っているのよ!!」
スッパリと言い切った瞬間、ロベルトの空色の瞳がいっぱいに見開かれた。彼はそのまま沈黙してしまったが、しばらくして、ーーふっ、と唇を歪めた。
強い力で腕を引かれたのは、その時だった。
「ソレイユ」
トン、と顔に当たったものは、ロベルトの胸板だ。抱きしめられているのだと気がついたが、頭に浮かぶのは何故、どうしてという疑問符ばかり。そうこうしているうちに、大きな腕にすっぽりと包み込まれてしまう。ドレスローブ越しに身体の線をなぞられ、ゾクゾクと背中を走る未知の感覚に、ソレイユはますます混乱した。
「え……? え……っ?」
「ーー本当に、ソレイユは何も分かっていないんだね。子供扱いなんてしてないよ。どこの世界に、可愛い恋人が汗を浮かべながら肌を染めているところを晒したい男がいるんだ。そんな煽情的な君を、他の男になんて絶対に見せたくないんだよ……この意味が分からないほど、ソレイユは子供じゃないよね?」
怒っている。頭の上から降り落ちて来た声は、はっきりとそれが分かる声色だった。見上げれば、青く底光りする双眸に
射抜かれて、身動きが取れなくなる。温和な眼差しも、いつも彼が浮かべている優しげな笑顔も、今のロベルトには微塵もない。まるで別人のような冷たい表情に、ソレイユはおろおろと狼狽えた。
「ロベルト……? ご、ごめんなさい、言い過ぎたのなら、謝るわ……」
「そうじゃないよ。たぶん、僕達は根本的にすれ違っているんだと思うーーソレイユ。僕は、妹にこんな真似はしないよ」
おとがいを取られ、ゆっくりと重ねられた唇に、ソレイユは何が起こったのか分からないまま、ぱちぱちと瞬きをした。温かくて、柔らかくて。自然と胸が苦しくなる。間近で伏せられているロベルトの睫毛が、意外に長いのだなと思ったところで、彼の唇は離れていった。
「え……っ?」
ーーそれでようやく、キスをされたのだと気がついた。
「ーーッ!? ーーーーッ!!??」
「ソレイユ、ソレイユ……いきなりでびっくりさせたのは悪かったから、落ち着いて」
「ーーッ!! ど、……ど、どどどうして!? だ、だって、今までこんなこと、一度だって……!!」
「君のお父上のオルカナ様に、釘を刺されていたんだ。婚約を交わすことを許す代わりに、この学院を卒業するまでは、娘には指一本触れるなって。だから、このことは内緒にしてもらえると嬉しい。……ごめんね。まさか、そこまで不安にさせていたとは思わなかった」
ロベルトの腕に力が込められる。
「泣いているの、ソレイユ……本当に、ごめん。嫌なことをしたね」
「違うの……! 嫌だった、わけじゃないの。ただ、わけが分からないうちに終わってしまったから……ロベルト、貴方との、初めてのキスだったのに……」
「えっ!?」
もしも、ロベルトと恋人同士になれたら、初めてするキスはどんな風だろう。眼は開けたままなのだろうか、閉じるのだろうか、鼻は邪魔にならないのだろうか。歯がぶつかったらどうしようーー散々、思い描いていたはずなのに、実際はあっという間だった。
あっという間過ぎて、ほとんど思い出せない。
そのことが、悲しくて堪らなかったのだ。
翡翠色の大きな瞳からポロポロと涙を零すソレイユの眦に、ロベルトはハンカチを当てる。そうしながら、何かをじっと、真剣に、ものすごく、考え込んでいる様子だった。
ややあって、そうだ、と呟き。
「ソレイユ。さっき、君は眼を開けたままだったよね?」
こくり、とうなずくソレイユに、ロベルトは真剣な眼で言う。
「眼を開けたままのキスは、キスにならないから大丈夫。君と僕はまだ、初めてのキスはしていない」
「え? そ、そうなの?」
「うん。だから、今度はこんなやり方じゃなく、ちゃんとしようね」
にっこりと微笑むロベルトに、ソレイユはほっとしてうなずいた。
そうしてようやく、甘やかな雰囲気が二人を包んだその時だ。
大きな木箱を両腕で抱えた探し人、アステルが、嬉々として広場を横切っていった。
「いた!! ロベルト、ごめんなさい! また今度でもいい!?」
「……うん。いつでもいいよ、ソレイユ。君がして欲しい時に」
クスクスと、ロベルトは肩を揺らしながら答える。
幸い、木陰にいた二人のことに、アステルは気がついていないらしい。あんな大きな箱を担いで、どこへ行くのだろうと後をつけると、大通りから小径に逸れた所で見失ってしまった。
代わりに見つけたのは、銀の薔薇のフレームに囲まれた、美しい立て看板だった。
「何だろう、ティーハウス……?」
「〝月の扉〟。ーーロベルト、どうやらわたし達、黒幕の尻尾を掴んだみたいね」




