5 アステルという名の少女①
『おい、ルシウス。ティーハウスを開くんじゃなかったのか? なんで本なんか並べてるんだ』
『前の寵妃が、よく本を読みながらお茶を飲んでいたのを思い出してね。ディアナも、本を読む時には必ずお茶を欲しがるだろう? だから、店内で自由に本が読めたら、お茶もスィーツもゆっくり楽しんでもらえるんじゃないかと思って、月の離宮の書庫から持って来たんだ』
ルシウスは人差し指で空中に線を描くように動かしながら、何もないところから次々に現れる無数の本を、本棚へと並べていく。もともと棚などなかった場所にも、家精達の突貫工事によって、本棚が増設されていく。店内の壁は瞬く間に、本という本で埋め尽くされた。
『本当に客なんて来るのか? だって、あの看板はーー』
『クトゥグァ、待って。誰か来る。その格好じゃまずいから、とりあえず、ウェイターにでもなってて!』
パチン、とルシウスが指を鳴らすと同時に、二人の格好はティーハウスの従業員に相応しい制服に変わる。おい、ウェイターなんて聞いてねぇぞとクトゥグァが悪態をつく前に、店のドアが開いた。
カロン、カロン……と、銀のドアベルが鳴る。
「あの……看板に書いてあった、〝月の扉〟っていうお店は、ここですか……?」
おずおずと、中をうかがうように入って来たのは、長い黒髪の女の子だ。腰下がプリーツになった藍色のドレスローブは飾り気が少なく、シンプルなデザイン。黒い髪も、黒曜石のような瞳の色も、バルハムートでは珍しい。彫りの浅い、年若い少女のような可愛らしい容姿をしている。どことなく、碧い薔薇の寵妃候補の面影を感じたルシウスは、もしかして、グランマーレの子かな? と勘ぐってみた。
『そうだよ、来てくれてありがとう。僕はルシウス。ここの店主だ。今、開店したばかりでね。君が当店一人目のお客さんだよ』
ようこそ、と迎え入れたルシウスの顔を、その子はびっくりした様子で見つめた。蒼白い印象だった頬が、ふわりと朱に染まる。
「ア、アステルと言います。あの、ここって、本屋さんですか? 看板には、確か、ティーハウスだと……」
『ティーハウスで間違いないよ。この本は、お茶をしながら自由に読んでもらおうと思ってね。家にあったのを並べてみたんだ。本は好きかな?』
「好きです……! すごい、この棚に並べてあるのは建国伝承ですよね。本伝だけでなく外伝も全巻揃ってるだなんて……! こんな貴重なもの、本当に読ませてもらっていいんですか?」
『勿論。守りの魔法がかけてあるから、お茶をひっくり返しても平気だしね』
本の価値のことは、ルシウスは知らなかった。前の寵妃がいなくなった後は、ずっと書庫にしまいっぱなしになっていたのだ。しかし、そう言えば、貴重な本がこんなにあるのに、読まないなんてもったいないとディアナが言ってたな、と思い出していたら、「きゃあっ!!」と、アステルが叫んだ。
『どうしたの!?』
「き、きき霧の賢者シリーズが、全部揃ってる……っ!?」
震える手で、蒼い背表紙の一冊を手に取ったアステルは、表紙を開いて、さらに驚きの声を上げた。
「しかも、初版じゃないですか!? こんなの、帝立図書館にもあるかどうか……! 私、グランマーレからの留学生なんですけど、霧の賢者様の武勇伝が大好きなんです! 魔術師なのに魔術も使わずに、焔の谷の焔炎の魔龍を魔剣で一刀両断する話とか、最高にかっこよくて……! こ、こここれも、読ませて頂いていいんですか!?」
非常に苦々しい顔をするクトゥグァの隣で、アステルに驚かれるのも無理のない話か、とルシウスは苦笑した。
数多くの英雄の武勇伝が記された帝国伝承の中でも、最も人気のある銀髪白皙の大魔法使い、霧の賢者。
彼が活躍した口伝を集め、黄道十二星座になぞらえて十二巻にまとめたものを、霧の賢者シリーズと呼ぶ。絶大な人気があるのに残存している書数が極端に少ないのは、当の霧の賢者本人が、恥ずかしがって眼につくたびに燃やしたからだ。ーーという真相を、実際に目の当たりにしたルシウスだけが知っている。しかし、その度に愛読者達により複写され、こうして禁書のごとく、ひっそりと今に残されているというわけだ。
『そんなに喜んでもらえると、僕も嬉しいよ。いいよいいよ、好きに読んで。お茶は何にする? 君は初めてのお客様だから、何杯でもご馳走するよ』
「そんな、駄目ですよ! こんな貴重な本を読ませて頂ける上に、ご馳走して頂くだなんて」
『構わないよ。ほら、アステル。この店にお客さんは君しかいない。自由に過ごしていいんだ。好きなところに腰かけて、好きな本をゆっくり楽しむといい』
アステルは少し迷った様子だったが、霧の賢者シリーズの第一巻を手に、庭の見える窓際の席に腰掛けた。
ルシウスはカウンターに入り、クトゥグァに頼んでお湯を沸かしてもらうことにする。ポットとカップを温めたところで、そう言えば、お茶の好みを聞き忘れたなとアステルのもとに戻った。
ーーしかし、様子がおかしい。
てっきり本を読んでいるものと思っていたのに、本の表紙は閉じられたまま、テーブルの上に置かれている。それを前にしたアステルの小さな肩が震えていた。
『アステル……?』
「ーーっ! す、すみません……!」
『謝ることじゃないよ。どうしたの、その本の内容がよっぽど感動的だった?』
茶目っ気たっぷりに言いながら、ルシウスはハンカチを取り出し、アステルの頬を濡らす涙をぬぐった。
アステルはしばらくの間、こみ上げる嗚咽と戦っていたが、やがて落ち着いたのか、深い息を吐いた。
「ーー私、小さい頃からバルハムート帝国の建国伝承が大好きで、いつかこの国に来てみたいと思っていたんです。私の家は、もともと皇宮に仕える魔工技士の家系なのですが、お爺様がお亡くなりになってからは、すっかり落ちぶれてしまって。だから、この国で高度な魔術学を学んで、誰も造ったことのない強力な魔術具を生み出すことが夢でした。でも、なかなか思うようにいかなくて……」
アステルの唇には、自虐的な微笑みが浮かんでいた。彼女の細い手が、本の表紙をそっと撫でていく。
「上位の学級に推薦してもらうには、試験の成績はもちろんですが、それ以上に魔力の量が重要なんです。私は、もともと持っている魔力の量が少ないから、どう頑張っても上の学級には所属出来ません……今日も、火の精霊の召喚実技訓練で大失敗してしまって。きっと、もうすぐグランマーレに帰されてしまう。ーーだから、最後に幸せな思い出が出来たことが、とても嬉しかったんです」
『ふぅん……』
ルシウスは彼女の話を聞きながら、様々な思考を巡らせていた。どうやら、可愛い寵妃の置かれている状況は、ルシウスが想像していた以上に過酷であるらしい。
ーーいや、だからこそ、ここに店を構えた甲斐があるというものだ。
『それは大変だったね。火の精霊達に、意地悪をされたのかい?』
「意地悪……? いいえ、火の精霊を呼び出すための魔力が上手く集まらなくて、召喚出来なかったんです。火属性の精霊は、他の属性の精霊を召喚するよりも、たくさんの魔力を消費しますから、密度の高い魔力を手元に留めておくことが難しくて」
『火の精霊は、とっても食いしん坊だからね』
チラリと、ルシウスはクトゥグァに視線を送る。
彼はキッチンの入り口に寄りかかり、無言のままアステルの話に耳を傾けていたが、ルシウスの促すような視線に耐えきれなくなったのか、チッ、と舌打ちして近づいてきた。




