2 精霊王のたくらみ
ディアナとともに久しぶりの休日をゆっくりと過ごした、その翌日のこと。
ディートリウスは皇宮内東の庭園に位置した執務室にて、午前の執務を滞りなく進めていた。この場にいるのは彼一人で、護衛官の類はいない。近頃は、ディアナがここへ来て簡単な執務を手伝うこともあるのだが、今日は朝からグランマーレ帝國皇族主催の茶会に出席するために、魔術式飛空挺に乗り込み、発って行った。
以前、ディアナはそういった場は苦手だと言っていた。しかし、公務ではなく自分達のための祝いの席を設けてくれるとあっては、無碍に断るわけにもいかない。ディートリウスが同行出来なかったのは、自身の魔力の影響を案じたためだが、代わりに彼女の父、アンブローズが同伴者として名乗りを上げ、彼が出席することとなったため、彼女は非常に大変この上なく喜んでいた。
時の呪縛から解放されて以来、ディアナとアンブローズの仲は良好だ。その睦まじさは、ディートリウスが思わず嫉妬心を抱いてしまうほどである。
『……しかし、無理もない話か』
ふ、と龍頭の仮面の下から漏れた微笑みは優し気だった。ディアナは物心がついたときから孤独の中に置かれ、父親からの愛情を求めて生きてきた。一方、アンブローズは十六年もの長い時を耐え忍び、ようやくその愛情を娘に向けることが許されたのだ。彼女が父に甘えたがるのは当然であり、アンブローズが少々眼に余るほど娘を溺愛してしまうのも、うなずける話だ。
親子の過ごす温かな時間は、ディアナがこれまで胸の内に抱えてきた凍てつくような孤独を、きっと溶かしてくれるだろう。
ーー今は、存分に甘やかされるといい。
ディートリウスは微笑みを浮かべたまま、机上に積まれた今期の予算案の計画書を手に取りーーその中に、さりげなく紛れ込んでいたある物を見て、深々とため息をついた。
ペンを置き、意識を集中させて、彼の者の名を呼ぶ。
『ーー精霊王よ』
『なんだい、僕の愛しい寵児』
呼声に被さるような明るい返事に視線を上げると、黒々とした深い艶のあるマホガニー製の執務机を挟んで、白い従者服に身を包んだ、美しい青年が立っていた。
乳白がかった真珠色の髪を小綺麗に整えている。眼の色は吸い込まれるような碧玉だ。千の貌を持つ無貌の邪神ナイアルラトホテップの顕現は、定まる姿を持たない。ようするにどんな姿をしていても良いので、彼は何かと動きやすいこの姿と呼び名を好んでいる。
ニヤニヤと、いかにも何か企んでいますというその顔に向けて、ディートリウスは一枚の用紙を突きつけた。
『これは何だ』
『何って、見ての通り出店の計画書だよ。月の離宮で作ってる精霊界の植物が豊作でね。精霊花の花茶をはじめ、ジャムやコンポートやドライフルーツが有り余ってるから、店でも出そうかと思って。ーーディアナの通ってる魔術学院の敷地内に、学院街という街があるだろう?』
『そなたは、あの街がどういう場所か知っているのか? ーーまあいい』
酔狂なことだ、と言いながら、ディートリウスはペンを取り、許可の意であるサインを記した。
『おや。反対しないんだね。てっきり駄目だと言われるものだとばかり思ってたよ』
『よく言ったものだ。私が反対したところで、そなたは聞くまい。ーー出店の理由だが、本当にそれだけなのか?』
『……そうだなあ』
ルシウスはひょい、と肩をすくめた後、つと真面目な顔つきになった。碧玉の瞳をひたと光らせ、ディートリウスを見つめて言う。
『ーーアンブローズが時を巻き戻したことで生じた時の呪縛は、ディアナが〝精霊王の寵妃〟となり、僕に新たな愛名を授けてくれたことで、覆すことが出来た。その余波も、問題なく皆で処理をした。……でも、一つだけ気にかかっていることがあるんだよ。過去の運命で彼女に近づき、君の魔力を奪うよう唆した魔族が、この運命での彼女にも関わってくるんじゃないかってね』
『流石だな。私も、同じことを考えていた。だからこそ、アンブローズと一戦交えてでも、ディアナと共に閨に入ることを許可させたのだ。闇に紛れて、我が妻に不浄のものが近づくことのないように……幸い、今のところは何の先触れもないのだが』
『それは良かった。僕も気になって、どうにか前の運命を詳しく見ようとしてみたんだけど、一度覆してしまった運命って、消えてしまったも同然だから、上手くいかなくてね。ただ、その時のディアナが送っていた生活を考えると、魔族が現れたのは宮廷魔術師として勤めていた皇宮か、学生として通っていた魔術学院かの二択なんだよね。皇宮に魔族が入り込めるとは考え難いから、可能性があるとしたら学院だ。だから、出来る限り近くで見守れたらと思ってね』
『ふむ……しかし、それなら、わざわざ人間の真似事などせずとも、と思いもするが、そなたが人間の営みに興味を持ってくれることは、喜ばしいことなのかもしれぬ。ーーディアナには話すのか?』
『いずれはね。でも、しばらくは内緒にしておいてくれるかな? びっくりさせたいからね』
『承知した。ーーひとつ忠告しておくが、あそこの学生達は皆、眼も舌も肥えている。一筋縄ではゆかぬぞ』
『そうなんだ。まあ、何かあったほうが面白いよ』
まるで、新しい玩具を与えられた子供のように笑うルシウスを眺めながら、ディートリウスはやれやれと嘆息した。
道楽好きのこの王にも、困ったものだ。




