6 月夜のバージン・ロード
「あ、貴方は……」
『精霊王様の御使いで参りました。守護精霊のルシウスと申します。以後、お見知りおきを』
にっこりと、碧玉の双眸が微笑みを浮かべる。月を背に、ゆっくりとその場に立ち上がった青年ーールシウスは、直視したこちらが思わず息を飲んでしまうほど、美しい顔立ちをしていた。
名のある魔術師貴族の令息達にも美形は多いが、ここまで整った造形は見たことがない。
ほどよく体格のいいスマートな身体を、銀の刺繍の入った白い従者服に包んでいる。
癖のない、乳白がかった真珠色の髪に、目の覚めるような碧玉の瞳。少し下がり気味の眦は穏やかで柔らかく、精霊、という言葉の通り、耳の先がほんのちょっと尖っている。でも、言われなければ普通の人間と区別はつかないだろう。
ーーものすごく、美しいのは別として。
通常、特別な儀式を行わない限り人間の眼には見えないとされる精霊が、こんなにもくっきりはっきりした形で見えていることが不思議で、ついつい、ぽーっと見惚れてしまった。
『どうされました?』
「ーーっは! す、すみません。つい……あの、守護精霊なんて、どうしてそんな高位精霊が私のところへ? 召喚した覚えはないというか、そもそも私にはそのような真似は出来ないのですけど……」
守護精霊とは、数多の精霊の中でも特に力が強いものが、精霊王による命令、または高位の魔術師の召喚契約によって、対象を守護する役割を担うものを指す。
ルシウスは、私の問いに対して静かに首を振った。
『いいえ。召喚ではなく、僕は精霊王様の御使いで貴女を彼のもののもとへお連れするために馳せ参じました。ーー〝精霊王の寵妃〟』
「はあっ!?」
あ、いけない。
あまりの驚きに、つい前世の私の庶民性が飛び出してしまった。
「し、失礼致しました。ーーそれは、なにかの間違いかと。そもそも、私は魔術を扱うための魔力を持っておりません。〝精霊王の寵妃〟は、皇帝陛下と共に強大な魔力をもって、この国を治めるべき大切なお役目です。私などには到底、勤めることなど出来ません」
『残念ながら、それをお決めになるのは、貴女ではなく精霊王様です。彼の王は今宵、貴女を見初められた。ーー貴女は、魔力を持たないものを馬鹿にしたり、蔑んだりしない、優しい人でしょう?』
形の良い唇に、にっこりと策略的に微笑まれ。ぐっと言葉を詰まらせてしまう。
ーー貴方、さては盗み聞きしてたのね!?
『さあ、時は刻々と迫っております。花の路が消えてしまう前に、参りましょう。〝精霊王の寵妃〟』
「えっ!? ち、ちょっと!」
このルシウスという青年ーー守護精霊は、柔和な見た目に反してずいぶんと強引であるらしい。
携えていた白銀の薔薇の花冠を私にかぶせるや、そこからひとりでに広がった薄絹のヴェールで顔を覆い隠した。
結婚式でよく見る、花嫁入場の際のアレである。
『ーーお手を』
「は、はい……」
ーーはっ!
つ、つい、雰囲気に飲まれて手を取ってしまった。慌てて離そうとしたが、ルシウスは満面の笑みで掴んだ手を離さない。
静かな風が、足元から巻き起こる。
踵が、爪先が、床から離れてふわりと浮く。
私と彼の身体は、そのまま窓の外へ。
待ち構えていたのは、帝都ドラゴニアに住む人々から沸き起こる、夜天が震えるほどの大喝采と拍手の嵐だった。
先ほど、帝都の空に渦巻いていた花弁が、今は窓辺から東に位置する皇宮に向かって、白銀に光る花の路となって続いている。
まるで、夜天に延びるバージン・ロードだ。
「お、落ちないんですか?」
『大丈夫、僕を信じて下さい』
そんな……某有名アニメーションの、アラブの王子様的な台詞で微笑まれましても。
しかし、彼の言葉に偽りはなく、花の路はヒールで踏み締めてもびくともしない。精霊王のなせる技なのか、それともーー
『どうされました? 我が主』
万を超える大衆の眼に晒されているにも関わらず、胸を張り、堂々と、私をエスコートしていくルシウスを、ヴェール越しに見つめた。
「……さっきも言いましたけど、こんなーーこのような大役、私には到底務まるはずがありません。魔力のない私が陛下の元へ嫁いでも、父の名を汚し、恥を晒すだけです。ですからーー」
『なら、その旨を直接、陛下にお伝えされてはいかがですか。どちらにせよ、貴女は精霊王様に選ばれた乙女なのですから、皇宮に赴かなくてはなりません。手紙一枚でお断りというわけにはいかないでしょう?』
「ーーっ」
『それに、我々精霊というものは、時として人間以上にタチが悪い。一度機嫌を損ねると、手がつけられなくなることも少なくありません。精霊王様のせっかくのご好意を無碍にしては、国家転覆の天変地異が起こらないとも限らないのが、この国の怖いところです』
「おどっ、脅しておられるんですか!?」
『いいえ。残念ながら、事実です。ーーそれよりも、従者の僕に対して言葉を畏まる必要はありませんよ。楽に話して下さい。その方が気が楽です。人間って、どうしてこうも堅苦しいのを好むんでしょうね。精霊の僕には、理解しかねます』
あっという間に死んでしまうんだから、楽に生きれば良いのにと、ルシウスは歩み同様、ゆったりとした口調で言う。
その考えには、なんだか好感が持てた。
「……じゃあ、お言葉に甘えて、そうさせてもらうわ。ルシウスも、私に畏る必要なんてないのよ? どうせ、すぐに出戻り予定の寵妃なんだから」
『そんな、嫁ぐ前から出戻ることなんて考えないで。大丈夫、なんとかなる。運命は、巡るべき方向に巡るんだからね』
巡るべき方向に巡るーーその言葉は、状況に混乱する私の胸の中に、妙にすとんと落ちついた。
同時に、私の心の中にいる、前世の私がこう叫んでいる。
こうなったら、直接文句言ってやれ! と。
『さあ、そろそろ着くよ。ーーつかまって』
「ーーえっ? ーーっひゃあああ!!」
それまで足元を支えていた花の路が、大きく波打つ。ルシウスに身体を支えられるまま、まるでソリに乗って坂道を滑り降りるように、夜天から皇宮目がけて下降した。
門は、ひとりでに開いていく。
通常であれば、手続きをふまないと通れない廷門をいくつも超えた先。
皇宮の核心たる、謁見の間の手前で、花の路は途切れた。
待ち構えていたのはーー
「……お、お父様」
私の父。宮廷魔術師長アンブローズ・メルリヌス・ゾディアーク、その人だった。