1 精霊王の思いつき
「えっ!? 蜂蜜酒って蜂蜜と水だけで作れるの!?」
宮廷魔術師長の一人娘。魔力ゼロの落ちこぼれ令嬢、ディアナ・リーリス・ゾディアークが、ひょんなことから〝精霊王の寵妃〟に選ばれ、魔法大国バルハムート帝国の現皇帝ディートリウス・アウレリアヌス・バルハムートの婚約者となって、はや一週間が経った。
連日、式典に祝賀会に挨拶回りにと引っ張りだこになっていた彼女だが、今日は久しぶりに予定がないらしく、朝から月の離宮にやって来て、料理好きの精霊王ルシウスから蜂蜜酒の作り方を教わっている。
ルシウスは硝子の大瓶に、巣から搾ったばかりの蜂蜜を流し入れながら、先の質問に答えた。
『そうだよ? 建国伝承でも、樹の虚に溜まっていた天然の蜂蜜酒を、森で迷った王が見つけて飲む話があるだろう。熊に襲われた蜜蜂の巣に雨水が溜まって、蜂蜜と混ざる。そこへ、偶然通りかかった酒の精霊が足を滑らせて中へ飛び込んで、発酵して蜂蜜酒が出来たというのが始まりなんだ。それをあえて作るとすれば、材料と作り方はこうなるね』
言いながら、ルシウスは立てた人差し指をくるりと回す。すると、なみなみと水をたたえた水球が空中に現れ、蜂蜜を入れた瓶の中に、ひとりでに水が流れ込んでいく。
『蜂蜜の分量に対して、倍から三倍の量の水を入れて薄めたら、酒の精霊を呼んで、瓶の中に入ってもらっておしまい。酒の精霊の代わりに酵母を使った方法だと一週間ほどかかるんだけど、この方法なら一日もあれば出来上がるよ』
「ずいぶん簡単なのね。もっと手間がかかってるんだと思ってた」
『そんなことを言ったら、葡萄酒なんて葡萄を潰して樽や瓶に詰めるだけじゃないか。そもそも、酒というのは甘い飲み物に酒精が宿れば出来るんだ。酒精はとても小さいけれど、君の眼になら見えるだろう』
ディアナはうなずいて、瓶に顔を近づけた。最近の彼女は正装のドレスでいることが多かったが、今日の彼女は見慣れた白銀のドレスローブ姿だ。紫水晶の瞳を張り詰め、じっと目を凝らす彼女とともに、ルシウスも瓶の中を覗き込んでみる。
魔力で攪拌される蜂蜜と水の渦の中で、黄金色の蜜蜂の仮面をつけた小さな小さな酒の精霊達が、楽しげに舞い踊っている。早くも発酵が始まっているのか、シュワシュワと弾ける泡の音に混じって、こんな歌が聞こえてきた。
『いあ! いあ! はすたあ! はすたあ! くふあやく・ぶるぐとむ・ぶぐとらぐるん・ぶるぐとむ! あい! あい! はすたあ! 』
『ーー見えたかい?』
「……ええ、まあ」
何故か、ディアナはちょっと頭の痛そうな様子で眼を逸らした。
とはいえ、この蜂蜜酒は普通のものとはひと味違う。この帝国に棲まう風の精霊達の首領、黄衣の王ハスターが、精霊界の植物である精霊花から、手ずから集めた蜜を使った特別な神酒ーー黄金色の蜂蜜酒なのだ。
これを飲んだ者には幻視の力が宿り、星間宇宙を旅する力が与えられる。完成品は輝くような黄金色で、薔薇や白葡萄酒を思わせる馥郁たる香りと味を持ち、酒精が強い。
仕込みの済んだ蜂蜜酒に蓋を閉めながら、ルシウスはふと浮かんだ疑問を口にした。
『そう言えば、どうして急に蜂蜜酒の作り方を教えてくれなんて言い出したんだい?』
「それが、夜会や晩餐会に行くたびに皆から言われるのよ。陛下と婚礼の儀を上げたら、美味しい蜂蜜酒を沢山作らないといけませんわねって。理由は知らないけど、そういうものみたい。私、この帝国にそんな伝統があったなんて、ちっとも知らなかったわ」
『……ああ、それはね』
隠語だ。
ルシウスはその言葉の意味するところを知っていたが、ストレートに伝えるとディアナの頭が破裂しかねない。
そこで、ちょっと考えてから、こんな風に切り出した。
『昔からの習慣でね。結婚すると、新婦が新郎のために一ヶ月の間、蜂蜜酒を作って飲ませるんだよ。蜂蜜には滋養強壮の効果があるだろう? 蜂蜜酒を新郎に飲ませて子作りに励んだことから、その月を蜂蜜のひと月……蜜月と呼ぶようになった。子沢山の蜜蜂にあやかっただけとも言われているから、効果のほどは分からないけどね』
「へえ〜、知らなかった。ハニームーンにはそういう意味が………………子作り?」
サラリ、と長い銀糸の髪を揺らして、彼女は首を傾げる。
「ーーっ!!??」
ーーが、次の瞬間、ボンッと音がするほどの勢いで、頬どころか首まで真っ赤になった。
気づいたな、とルシウスはほくそ笑む。
この分では、次の夜会で蜂蜜酒を作れと言われるたびに頬を赤らめ、大いに恥ずかしがるに違いない。そして、その素直で初心な反応を、彼女の伴侶、ディートリウスは宵闇色の双眸を細めて、優しく見守るのだろう。
その想像は、ルシウスの心をとても穏やかにした。この地の精霊を統べる、精霊王たる存在であるルシウス。新たな寵妃となったディアナから、ナイアルラトホテップという千の貌を持つ混沌の神の愛名と力を与えられたが、帝国を守護するその役割は変わらない。加護を与え、寵愛している二人が、仲睦まじく幸せに過ごしてくれることほど、喜ばしいことはないのだ。
『ーーさて、まだまだ蜂蜜は沢山あるからね。せっかくだから、もうひと瓶作っておこうか。今度はディアナが作ってごらん。君が作った物の方が、あの子も喜ぶだろうからね』
「えっ!? ええっと……で、でも、何というか、いくらなんでも、まだ時期が早過ぎるんじゃないかな……!?」
薔薇色に上気した頬を掌で隠し、わたわたと慌てる彼女は大変可愛らしい。
ルシウスが笑いながら蜂蜜の瓶を手渡した時、馴染みのある気配がして、キッチンの扉が開いた。
顔を覗かせたのは、もう一人の寵児だ。
『おや、ディートリウス。昼間に君がここへ来るのは珍しいね?』
『ディアナに会いに来た。ーーディアナ? どうした、そのように顔を赤くして。熱でもあるのか?』
その美貌を隠す黒龍の仮面ごと、首を傾げる現皇帝ーー魔帝ディートリウス・アウレリアヌス・バルハムートを前に、ディアナは赤面したまま、手に持っていた蜂蜜の瓶を、大慌てで背中に隠した。
「なっ、ななななんでもないです! なんでもないんですっっ!!」
『ディアナがね、君のために蜂蜜酒を作りたいって、朝から頑張ってるんだよ』
「ルシウスーーっ!!」
『……ほう、そうか。では、私もそなたの期待に応えるために、頑張らねばなるまい』
美しい低音美声を響かせるなり、彼はディアナの頬にそっとキスを落とし、強引にキッチンから連れ出して行く。
「陛下!? ど、どこに連れて行くおつもりですか、そっちは私の寝室なんですけど……っ!? 陛下、陛下ああーーっ!!」
あーれー! と、引きずられていくディアナの悲鳴が遠ざかっていく。
中庭に面した回廊の先の扉が、パタン、と閉まるのを見送って、さて、とルシウスは仕切り直した。
『ーーさてと。蜂蜜酒の仕込みをしたはいいけど、まだストックは沢山あるんだよね。どこに置いておこうか』
『ルシウス。今日の収穫分ですよ』
穏やかな声に振り向くと、黒に近い暗緑色の髪を足元まで伸ばした、背の高い男性が立っていた。ディアナから暗黒の豊穣神シュブ=ニグラスの愛名を与えられた、地属性の精霊を統べる地の精霊獣だ。影が落ちるほど長い睫毛。少し下がり気味の緑柱石の眼差し。シェルカメオの浮き彫りを思わせる繊細な相貌は、ルシウスをはるかに越える背の高ささえなければ、美女と見違えてしまいそうだ。
彼は深緑の導衣を纏った腕に籠を抱えている。中は色鮮やかな黄色い果物でいっぱいだった。人間の世界の檸檬に似た精霊果で、酸味は強いが風味が良く、食すると風の魔力を向上させる効果がある。
『ありがとう、ニグラスーーって、また、そんなに採れちゃったのかい?』
『はい。日に日に、新しい芽も増えていますよ。これも全て、我らの主様が皇宮内の魔力のバランスを整え、高めて下さったおかげです。喜ぶべきことでは?』
『うーん。豊作はいいんだけど、使い切れないんだよね。最近、ディアナもディートリウスも、祝賀会や夜会に引っ張りだこだから、スィーツや食事を作っても食べてくれる人がいないし。もう、離宮の食糧庫の中も、花茶に砂糖漬け、ジャム、蜂蜜漬け、果実酒やドライにした精霊果の瓶でいっぱいなんだよ。どうしたものかなあ……』
離宮に棲まう精霊達に食べさせてもいいのだが、彼等は黙々と食べるだけなので反応が薄い。やはり、ディアナのように、食べるたびに笑顔になってもらわなくては、作り手として張り合いがないのだ。
どうしたものかと悩むルシウスの足元を、背中に本を積んだ、小さな駱駝の商隊が横切っていく。今日は天気が良い。以前、ここに住んでいた前の寵妃ーーディートリウスの母が彼等に教えた、本の虫干しというものの真似事をしているのだ。
ここ、月の離宮は彼女のために建てられたもので、彼女はとても本好きだった。
中庭に面した位置に書庫を兼ねた図書室があり、よく、中庭でお茶を飲みながら、本を読んでくつろいでいたものだ。
その光景を思い出していたルシウスだが、ある瞬間にぽん、と手を打った。
『ーーそうだ! 面白いことを思いついた』




