55 運命を嘲笑うもの
『タウィル・アト・ウムル……扉よ、導きたまえ!』
白銀の扉が開くと同時に、咽せるような薔薇の香りが立ち込めた。
扉を一枚隔てた向こうは、白銀の薔薇の咲き誇る円形の庭園が広がっていた。ディートリウス陛下と過ごした東の庭園に似ているが、薔薇の途切れた先は星の海が広がっている。頭上も宇宙に覆われ、まるでこの庭園だけが、果てのない闇と星の漂う空間の中に、ぽっかりと浮かんでいるかのようだった。
庭園の中央には、門が聳えている。
不思議な門だ。硝子のように透明かと思えば、次の瞬間には、緻密に凝らされた彫刻模様の細部まではっきりと目視できるほど、明確に現れる。
これが、ルシウスの言っていた精霊界へ通じる門なのだろう。門扉は少しずつ、開きかけている。月が天頂にのぼりつめようとしているのだ。門の正面には暗い闇が落ちており、闇に行手を阻まれるように、私の父、アンブローズが蹲っていた。
近づこうとした瞬間、闇が蠢いた。闇に思えたそれは、純黒の鱗に覆われた魔龍だ。魔龍は鋭い動きでこちらへ首を向け、口腔を開いた。
『ディアナ……! 何故、ここへ来た……!?』
その美しい低音は、間違いなくディートリウス陛下のものだった。龍化は、その難易度ゆえに変異系魔術の中でも修得者が確認されていないと言われるほどの最高位魔術だ。陛下は自ら魔龍と化し、父が精霊界への扉を潜ろうとするのを止めてくれていたのだろう。
陛下が意識を逸らすと同時に、父が動いた。長い、銀灰色の導衣の下から覗いたものは、私の知る父の姿とはかけ離れていた。顔の半分は溶け落ち、奇妙な泡のように膨れ上がっていたのだ。それは絶えず形や大きさを変える虹色の輝く球の集積であり、互いに接近しては離れを繰り返している。手足の痕跡もほとんどなく、異形の脚が生えていた。
「お父様……っ!!」
『駄目だ、ディアナ!!』
二人に駆け寄ろうとしたが、その腕をルシウスが掴んだ。
『おそらく、これがこの運命での時の呪縛の形なんだ。アンブローズは力の歪みに飲まれ、自我を失いかけている。彼自身の持つ力が暴走して、存在自体を飲み込もうとしているんだ。近づけば、君が危ない……!』
「そんな……!」
これが、父に降りかかった死と破滅の運命の結果だいうのか。このままでは、父が父でなくなってしまう。眼の前にある、ありえない父の姿と、その事実に耐えきれず震撼した時、僅かに残った父の顔がーーその蒼い瞳が私を捕らえた。
『……ぜ、な……ぜ、それを、ここに……連レテ、来た……精霊王……ッ!!』
『……それ、か。もはや、愛しい娘の名を呼ぶことすら恐れるのか、友よ。ーーここへ来たのは、僕の寵児を救うため。そして、お前自身を救うためだ。新たな運命が彼女を導いた。お前は、その選択を受け入れなければならない!』
『ふざ、けルな……! 駄目だ! 今すぐにここを去れ! それを、俺に近づけるな……ガ、アア……ッ!!』
父の導衣の袖から、光線のように何かが放たれる。父の仕込み杖の刀身を思わせる、硝子めいた虹色の触手だった。
私の身体を貫く勢いのそれらが、寸前で焔炎の壁に阻まれる。クトゥグァだ。焔炎の壁は、その後ろで黄衣を翻すハスターの暴風を受けて更に燃え上がり、勢いを増していく。
父の呻き声に眼をやると、彼の身体は暗緑色と透き通るような水色の触手に拘束されていた。クトゥルフとシュブ=ニグラスが、真の姿を顕現わしている。
『姫さん、言葉をくれ! 俺達全員にとっとと攻撃を命じろ! アンブローズはかつて魔龍だった俺達を、剣一本で一刀両断したような化け物だ! 全力でなけりゃ、アンブローズは倒せねぇぞ!!』
「た、倒すって、何言ってるの……? 嫌よ! お父様と戦うなんて、絶対に嫌……!!」
『姫さん……!』
言ってる場合か、と言いかけたものの、クトゥグァは言葉を濁らせた。金色の双眸は哀れむように私を見下ろしている。
『助けるつもりなのか……だが、どうやって。俺達は破壊の邪神から名を授かった。俺達にも、名を失ったルシウスにも、あの状態のアンブローズを元に戻す力はねぇぞ』
「それは……! でも、でも、嫌なの……! やっと分かったの。お父様は、私を幸せにしようとしてくれていたんだって……そのおかげで、運命は大きく変わった。だから、必ず方法があるはずよ! 時の呪縛を、根本から覆すような方法が……!!」
やめろ、と父が言った。喉を引き裂くような絶叫だった。
『やめろ……!! たとえ……この、呪縛カラ……解放されようと! オ、俺は……お前を、愛することはないッ!!』
「それでもいいの。お父様、貴方に認めて欲しかったのは……愛されたいと思っていたのは、貴方に、幸せになって欲しかったからよ。お母様を失ったことの悲しみや、後悔を、娘を持ったことへの喜びに変えられるように。貴方の誇りになりたいと、ずっと思ってた……もう、私のせいで辛い顔も、苦しい顔もさせたくない! ただ、貴方に幸せになって欲しいだけなの……!!」
父は双眸を見開き、絶句した。しかし、次の瞬間、父ではない何かが父の身体を乗っ取り、おぞましい咆哮を上げた。眼には捉えられない衝撃波が生まれ、空間を波打たせる。私の身体はあっけなく弾き飛ばされ、白銀の薔薇の庭園を越えて、果てのない闇の中に放り出された。
「ーーっ!!」
闇に吸い込まれる衝撃に瞼を閉じた瞬間、何かに抱きとめられた。驚いて眼を開くと、漆黒の龍の仮面が間近にある。ディートリウス陛下だ。いつかのように、人間の姿に黒龍の翼を生やした彼が、私の身体を受け止めてくれていた。
「陛下……!」
彼は、宵闇色の瞳で私を見つめたまま、突然、とんでもないことを尋ねてきた。
『ーーディアナ。私を愛しているか?』
「あ、愛……っ!? こっ、こんな時に、一体何を言っておられるのですかっ!?」
『こんな時だからだ。どうか、答えて欲しい』
「……っ!」
『私は、ディアナを愛している。別の運命での私達を知ったからではない。今のこの運命を、真っ直ぐに生きるその姿が、なによりも愛おしいと思うからだ。私の妻となり、これからも共に生きて欲しい。ーーそなたの返事が聞きたい』
どうしてこんな時に……!
でも、戸惑いよりも遥かに勝る喜びが、あっという間に胸を満たした。それがきっと、私自身の素直な気持ちなのだ。
「…………わ、たしも……愛して、います」
恥ずかしさのあまりうつむいて、唇だけを微かに動かして返事を返すと、陛下はとても嬉しそうに微笑んだ。
『その心、確かに受け取った。ーーでは、愛名を失いし精霊王に、新たな名付けを行うといい。そなたにはその資格がある。〝精霊王の寵妃〟』
「あ……っ!!」
それでようやく、彼の思惑を理解した。
「ルシウス……! ーーいいえ、愛名を失いし精霊王よ! 貴方に新たな愛名を授けるわ! おぞましき時の呪縛から、我が父を解き放ちたまえ……!!」
両手で持った杖を握り締めながら、私は前世を生きた私に大きな感謝をしていた。
魔力を持たずに生まれた私は、この世界を憎むことしか出来なかった。
でも、彼女はずっと諦めずに、剣と魔法の世界を心から愛し続けてくれた。
立ち止まりそうな私の背中を、押し続けてくれたのだ。
今もまた心の中で、彼女は叫んでくれている。
時の呪縛を覆す力を有する存在の名を。
彼女の持つ膨大な知識の中に、確かに、それはいた。
「ーーニャル・シュタン! ニャル・ガシャンナ! ニャル・シュタン! ニャル・ガシャンナ! 汝、貌を持たざる故に千の貌を持ちたる無貌の狂神よ! 我、死に見初められし者なり! 時に呪われし因果に逆らいて、汝を禁じられた遊戯に誘わん! 愛名を失いし古き王に、滅びと新たな産声を! 名状し難き冒涜的な祝福を以て、汝が御名を与えたまえ!!」
ルシウスの身体が大きく跳ね、ものも言えないほど目映い白銀の光に包まれた。光は渦巻き繭となり、その中で彼は姿を変えていく。その力の高まりに呼応して、空間全体が鼓動のように脈打つのが分かった。
「クトゥルフ・フタグン! ニャルラトテップ・ツガー! シャメッシュ! シャメッシュ! ニャルラトテップ・ツガー! クトゥルフ・フタグン!! ーー運命を嘲笑え! 這い寄る混沌、〝ナイアルラトホテップ〟!!」
白銀の光の繭が弾けーーほんの一瞬、ひらめく閃光のように、鞭に似た手足を有する貌のない邪神の姿を垣間見た気がした。その身体を縦に引き裂く口腔から、けたたましい嘲笑が響き渡るとともに、父の身体を蝕んでいた虹色の泡の集合体が、残らず弾け飛び、消え去った。




