52 暗黒のマグナマータ
それは、建国伝承に伝わる厄災の化身。
かつてこの世界に巣食っていたという、伝説の悪龍達の名だ。
太陽を喰らう業炎の魔獣、火獣魔龍。
天を蝕む暴風の怪鳥、風鳥魔龍。
海を呑む厄渦の巨鯨、水鯨魔龍。
ソレイユの呼びかけに応じて現れた三体の巨大な魔龍達は、雷のような咆哮を上げ、翼を広げて競うように飛翔した。
彼等は魔剣の使い手、霧の賢者によって討伐され、改心した後は四柱の高位精霊達として帝国の守護者となったのだがーー暗雲の巻き起こる空を飛ぶ姿は禍々しく、邪悪そのものとしか思えない。
本の挿絵でしか見たことがなかった魔龍達を前に、私は茫然と立ち尽くすことしか出来なかった。
こんな旧世界の怪物達を、何の儀式も無く召喚できるわけがない。
考えられる可能性は、一つだけだ。
「ーーまさか、精霊獣に名前を」
『そうよ! 貴女が皇宮を出て行ってくれたから、彼等に新しい名を与え直したの。建国伝承の魔龍達を蘇らせるなんて、魔力のない貴女には、到底真似できないでしょう!? やはり、寵妃に相応しいのは、わたしなのよ! ーーさあ、この落ちこぼれを捻り潰してしまいなさい!!』
ソレイユの言葉に呼応するように、魔龍達が一斉に咆哮を上げる。集結し、増幅する魔力が暴風と化し吹き荒れて、私はなすすべもなく足をすくわれ、地面に転がった。精霊獣達の力は今まで散々目にしてきた。まともに戦える相手ではないーーいや、そもそも、私は彼等と戦いたくなんてない。
何の相談もなく、突然、何もかも放り出して逃げ出してしまったのだ。彼等が怒るのは当然だ。私の与えた名前を捨てて、ソレイユに新しい名を授かっても、責めることなんて出来ない。
彼等は私のことを、嫌いになってしまっただろうか。命令ひとつで命を奪えてしまうほど、憎んでいるのだろうか。
見上げた先に、火獣魔龍の金色の双眸が光っていた。
その眼が訴えていた。
ーー今なら、まだ間に合うと。
「……っ」
髪からコサージュを引き抜いて、立ち上がる。
杖と化したそれを掲げ、精一杯の思いを込めて私は詠唱った。
「ーー悠久の時を超えたるものよ。太古の大地を支配せし、焔炎と天空と海洋の旧支配者達よ! 過ちを犯したる我を許したまえ! 愚かなる我が罪を許したまえ! 我が与えし愛名の下に、再び姿を顕現さんことを! イア! イア! 〝クトゥグァ〟、〝ハスター〟、〝クトゥルフ〟!!」
叫んだ瞬間、眼の前に眩い光が炸裂した。金と紅に燃える火柱の中で、無数の光球が乱舞している。クトゥグァだ。彼のこの姿を眼にしたのは、二度目だった。
「あ、あの、本当に、その……勝手に出て行ったりして、ごめんなさーー痛っ!?」
ビシッ、と額の真ん中に叩き込まれたのは、デコピンだった。それも、立て続けに三回だ。痛みと驚きに、パチパチと瞬きする視界の中で、いつの間にか人間の姿になった三柱の旧支配者達が仏頂面を並べていた。
『ーー今回だけだぞ』
ぽん、と頭に置かれたクトゥグァの掌は、大きくて温かい。
『どうして……!』と、ソレイユが声を戦慄かせる。
『そんな!? どうしてよ!! 魔龍に戻りなさいよ!!』
『お断りだ! 火獣魔龍の名を付けられるのはこれで五回目なんだよ! どいつもこいつも、俺の黒歴史を掘り返しやがって、しつけーぞ! 忘れろ!!』
『俺もいいかげん、鳥っぽいのは飽きた』
『僕もそろそろ魚介類から離れたいんだけど。クトゥルフって蛸なのは頭だけだから、こっちの方がマシかなって』
「そんな理由で!?」
『どんな理由だろうと、戻ってきてやったんだ。文句言うな』
さらり、と流すハスターに、言葉もない。
『そんな……そんなの、納得いかないわ! だって、わたしの方が優秀なのに……!』
『だからだぜ、ソレイユ』
髪を振り乱し、喚くソレイユにクトゥグァは言った。
『しばらく過ごして思ったが、あんたは完璧すぎて、俺達がいる必要がない。ーーでも、こっちの姫さんはどんくさくてお人好しですぐにひとを信じるからすぐに騙される。何やらかすか分かんねぇ上に危なっかしくて退屈しねぇお馬鹿さんだ! 一緒にいて楽しい方につくに決まってんだろうが!!』
「それってほとんど悪口じゃないの!?」
『ふざけないで! 前寵妃様はどうなるのよ、立派な方だったわ!』
『馬鹿言え、ド天然だったぜ! なにせ、水瓶座を水亀座と勘違いして水に名づけちまったんだからな。そのせいで宮廷魔術師どもが大慌てで、星座を改訂せざるを得なくなった!』
クトゥグァの言葉に、思わず咳き込んだ。当のクトゥルフは素知らぬ顔だ。
「も、もしかして、前寵妃様の御即位時に、水瓶座が海亀座に変わったのって、そのせいだったの!? クトゥルフ! 何で名づけを受け入れちゃったのよ、間違いだって教えてあげれば良かったのに!」
『だって、水瓶をかついでるとか重そうだし。甲羅の方がマシじゃない?』
「そんな理由で!?」
『嘘よ……! こんな、魔力の欠片も持たない出来損ないの落ちこぼれより、わたしの方がいいじゃない……このミスティルテインの杖を使えば、貴方達の望むだけ魔力を吸い集めることだって出来るのよ!? だからーー』
『思い上がるな』
『ーーっ!?』
『俺達にとっては人間ごときの魔力なんて、どれだけ集めようがカスみたいなものだ。あろうがなかろうが、どっちでもいい』
ハスターの言葉の冷たさに、ソレイユはその場に立ち尽くした。震える手で杖を握りしめ、喉が裂けるほどに彼女は絶叫する。
『認めないわ!! ディアナが寵妃だなんて、認めてたまるものですかッ!! ーーミスティルテインの杖よ! 真なる姿を我に示せ! 地魔精霊獣!!』
杖の先端の精霊石が緑柱石の光を放った瞬間、石は砕け飛び、寄生樹の蔓が噴き出した。ソレイユの身体をあっという間に飲み込んで、のたうちながら増殖していく。
「ソレイユ!」
寄生樹は急激に増殖し、見上げるほどの巨木と化した。二本の足と、腕。虚のような眼を持つ緑の巨人ーー地魔精霊獣は、触れた地面から魔力を吸い上げながら、私に向かって腕を振り下ろした。
『危ねぇ! 離れろ、姫さん!!』
クトゥグァの放った灼炎が、その腕を一瞬で灰にする。しかし、相手は植物だ。地魔精霊獣は新たな腕を生やすなり、離宮の回廊の石柱を掴み折って振り投げた。
ーー逃げ切れない。
しかし、石塊が打つかる寸前、私の身体に何かが巻きつき、ひょいっと持ち上げた。直撃を免れた石塊が、地面にめり込む。
地魔精霊獣のものとは違う。どうやらそれは、あの畑に突然生えてきた、謎の巨大植物から伸びた根っこのようだ。いつの間にか、双葉の間から新芽が伸び、大きくたわんだ先に実を結んでいる。
あ。とそれを見上げて、クトゥルフ。
『いたよ。君が探してた地の精霊獣だ。あいつは食止めておいてあげるから、さっさと名づけを済ませなよ』
「あの林檎みたいなのが!? わ、分かったわ。任せて!」
根っこが私を地面に下ろすなり、私は地魔精霊獣をクトゥルフ達に任せ、謎の植物に向かって猛ダッシュした。
万物の母なる大地。
地にして樹なる、偉大なるもの。
ーー少々大物だけど、これしかない!
杖を振りかざし、心の中の地獄の門を久々に開け放つ。
「イアールムナール・ウガ・ナグル・トナロロ・ヨラナラーク・シラーリー! 千匹の仔を孕みし森の黒山羊よ! 黒き豊穣の女神にして、闇より生まれし暗黒の偉大なる母! 昏き混沌の地に根づき、芽吹きたまえ! 愛名を求めし幼子に、汝が御名を与えたまえ!」
ボトリ、と私の身長よりもはるかに大きな果実が地面に落ちる。ーーと、バックリと二つに割れたその中から、暗緑色の、無数の触手が空に向かって噴き出した。纏まり、絡みつき、黒雲のように膨れ上がり、更に伸び上がっていく。それは離宮どころか皇宮の敷地を越え、市街に浸食してなお勢いを増すほどの巨きさだった。巨大なはずの地魔精霊獣が豆粒のように思えるほどに。
「イムロクナルノイクロム! ノイクロム・ラジャーニー! トナルロ・ヨラナルカ! 山羊よ! 森の山羊よ! 我が生け贄を受取り給え、今ここに顕現せよ! イア! イア! ーー〝シュブ=ニグラス〟!!」
〝シュブ=ニグラス〟。
盲目白痴の主神アザトースが、闇より生み出した外なる神々の一柱。
豊穣の女神や大地母神という性格を持ち、クトゥルフ神話の中でも最も広く、また、数多くの信仰を集めている。 その儀式や集会はサバトの原形であり、古代宗教で豊穣の象徴と崇拝され、キリスト教によって悪魔にされた黒山羊の偶像がシュブ=ニグラスの象徴となっている。
姿を見ただけで発狂したり、召喚したら最後、酷い場合は惑星ごと滅ぼしてしまう外なる神々の中では、比較的、人間に対して友好的だ。
ーーだが、このシュブ=ニグラス。呪文や儀式にはやたらと名前が登場するくせに、クトゥルフ神話に関わる作中に実際に姿を現すことは滅多にない。
そのため、姿形はあやふやで、黒雲のように巨大な何かだとか、巨木のような節くれだった巨体だとか、泡立ち爛れた雲のような肉塊で、のたうつ黒い触手、黒い蹄を持つ短い足、粘液を滴らす巨大な口を持つ暗黒の豊穣神だとか、常に異形の子を孕み絶えず怪物を産み落とすだとか、なんとも好き放題に言われているのだ。
でっかい。
とにかくでっかい。
大きすぎて何がなんだか分からない。
これに尽きるのだと思う。
「ちょっと!? ストップ、ストップ!! もういいから! せっかくその姿になってもらったところ悪いんですけどーーっ! 人間になってもらえませんかーーっ!?」
顕現したシュブ=ニグラスがそのとんでもない質量を増しているうちに、月の離宮や足元にいた地魔精霊獣までもが、いつの間にやら触手の海に飲み込まれてしまっていたのだ。
その様子を眺めていたクトゥグァが、気の毒そうにため息をついた。
『相変わらず、強いのに地味だよな……地』




