51 ミスティルテインの杖
陛下の低音が術文を紡ぐうち、ふわり、と心地よい浮遊感に包まれた。
書斎の風景は水に溶けるように消え、次に地面を踏みしめた時には、薄青い夕闇の中、一人きりで立っていた。
白銀の薔薇の樹に、龍の噴水ーーどうやら、ここは東の庭園のようだ。
だが、どうも様子がおかしい。
噴水にも薔薇の樹にも、網の目のような茎を持つ植物が絡みついている。
「これ……全部、寄生樹だ! どうしてこんなことに……!」
寄生樹の勢いは庭園内だけに収まらず、その周りの回廊にまで溢れているようだ。我が物顔で生い茂り、全てを飲み込んでいる。
不気味な光景だった。
明かりもなく、風の音も、水の流れる音もしない。
精霊達の姿がどこにもない。
「ーーっ! 月の離宮のみんなは、無事なのかな……確かめに行かないと!」
回廊に蔓延る寄生樹をかいくぐり、月の離宮を目指して走り出す。ーーしかし、いかほども行かないうちに立ち止まった。誰かが倒れている。紺青の騎士服に身を包んだ、鳶色の髪の青年だ。
「……ロベルト!?」
寄生樹が絡みつき、身動きが取れなくなっている様子に慌てて駆け寄る。力づくで蔓を引き千切っていると、閉じていた瞼が薄っすらと開いた。
「……ディアナ?」
「ロベルト! よかった……! どうしたの、何があったの!?」
「ソレイユだ……ロザリアの時と同じだ。力に溺れ、暴走した彼女がこの植物を操って、皇宮中の魔力を集めているんだ……」
「ソレイユが……!? どうして、私が寵妃を辞退したんだから、最後に残った彼女が選ばれるはずじゃなかったの?」
「……ディアナ。ソレイユは、してはいけないことをしたんだよ」
「してはいけないことって……」
ロベルトの言葉にドキリとする。彼は呼吸を整え、身を起こした。
「花摘みの儀のことを覚えてるだろう。寵妃候補となる乙女達に花が贈られたあの朝、彼女は花を授からなかった。だから、魔術で偽りの薔薇の花を作ったんだ」
自分の娘は候補にもなれなかったのだと、父親を悲しませたくなかった。彼女はただ、それだけのつもりだったのだと、ロベルトは続けた。
しかしその後、娘が花を贈られたことを知った彼女の父、宮廷魔術師団副師長のオルカナが、絶対にソレイユが寵妃になるはずだと大喜びし、方々に触れ回ってしまったのだという。そして、誰もがそうに違いないと、過度な期待を持った。
ソレイユは悩んだ。
花を贈られながらも寵妃に選ばれなければ、父の顔に泥を塗ることになる。しかし、いくらなんでも〝精霊王の寵妃〟を偽ることなど出来るわけがない。
困り果てた彼女に、奇跡が起きた。
花摘みの夜、複数人の乙女が寵妃に選ばれ、花の道を通って皇宮へ迎えられたのだ。
その光景を目にした彼女は、素早く術式を組み上げた。いつも、彼女が得意のお菓子作りに利用している連続魔術法式を応用し、周りの者には、彼女がひとりでに花嫁衣装を纏い、出現した花の道を通って皇宮に迎えられたように見えるように。
五人の寵妃のうちの一人にならば、紛れ込むことが出来るかもしれないーーそんな風に、彼女は考えたのだという。
「でも、ソレイユの行いを、精霊王様は見逃さなかった。彼は、彼女が寵妃候補になることは許したけれど、罰として魔力を奪い、魔術を使えなくしたんだ」
「そんな……! でも、私はソレイユが術文を唱えて、枯れかけた薔薇の樹を元通りにするのを見たのに」
でも、と思う。
彼女は言っていた。ここに来てから、急に精霊達の姿を見ることが出来るようになったのだと。
「魔法……? まさか、私と同じように魔法を使っていたの……?」
ロベルトはうなずいた。
「ソレイユは、精霊王様は自分を君と同じ立場に置いたのだと言っていた。魔力を奪われ、魔術が使えなくなった彼女は、ひどく落ち込んでね。でも、ディアナがたった一人で、暴走した火魔精霊獣や、風魔精霊獣に立ち向かい、ロザリアやレジーナ嬢を救い出したという活躍を聞いて、寵妃には君がなるべきだと確信した」
「ーーっ!」
「ソレイユは言ってたよ。ディアナが〝精霊王の寵妃〟になった時、馬鹿にする人は全てわたしが黙らせる。ディアナが魔術を使えないなら、自分が第一席の宮廷魔術師になって、彼女の杖となり支えてみせるってね。ソレイユは、寵妃の座を辞退しようとしていたんだ。そのために、僕を呼び出して全てを告白した。ーーでも、その時、あの杖が……」
「杖……? ソレイユの持っていた、翡翠色の綺麗な杖?」
「そう。あれはソレイユじゃない……! 強力な地の魔力を秘めたあの杖が、彼女を操っているんだ。気がつくのが遅かった。僕はソレイユを助けたくてーーでも、とても敵わなかった。あっという間に魔力を吸われて、このザマだ」
ロベルトは立ち上がろうとしたものの、たちまち膝から崩れ落ちてしまった。魔力だけでなく、かなりの体力も奪われているのだろう。
「無理しないで……! ロベルトはここで休んでいて。寵妃に挑めるのは、寵妃だけよ。私が、必ずソレイユを助けてみせるから!」
「すまない、ディアナ……ソレイユは、月の離宮へ向かって行った。ソレイユの心を、あの杖から取り戻してくれ……!」
うなずいて、走り出す。
月の離宮へ。
何もかもを放り捨ててしまった私を、みんなはもう許してくれないかもしれない。
以前のように、温かく迎えてくれないかもしれない。
でも、それでも、叶うならもう一度、みんなのもとへ戻りたい。
みんなを守りたい。
ソレイユを救いたい。
あそこにあるもの全てーー楽しい思い出も、何かもかも全部。私にとって、とても大切なものだから。
月の離宮に駆け込んだ私は、大声でルシウスを呼んだ。しかし、返事はない。陽はとっくに沈みきり、離宮は夜闇の中で静まり返っている。
皇宮中に蔓延っていた寄生樹だが、ここまではまだ届いていないようだ。
しかし、ほっとしたのも束の間、畑の方で派手な物音がした。たくさんの太鼓をまとめて打ち鳴らすような、地の精霊達の悲鳴だった。
「ーーっ! まさか、ソレイユが離宮に来た目的って」
嫌な予感が的中した。畑に駆けつけた私が見たものは、円陣を組むように畑を守る地の精霊達と、彼等に迫るソレイユの姿だった。
ーーそうだったのか、と思う。
今まで、ソレイユが畑に来るたびに、押し寄せるように集まっていた地の精霊達は、懐いていたのではなく、畑に近づこうとする彼女を止めようとしていたのだ。
それに、ここへたどり着くまでにいくつもの庭園を横切ってきたが、草木という草木が寄生樹のせいで枯れ尽くしていた。どこも、ソレイユと一緒に探索した場所だ。地の精霊獣を探すふりをしながら、あちこちに寄生樹の種を植え付けていたのだろう。
今なら分かる。
ソレイユは、自分に都合が良いように、正論で武装した言葉で相手を陥れるような真似はしない。
彼女なら、理屈なんか並べずに、正々堂々と実力勝負を挑んでくるはずだ。
ーーそんなことにも気づかなかったなんて。
『あら、ディアナ。寵妃の資格を放り出した貴女が、今更何をしに来たの?』
振り向いたソレイユに、ソレイユの面影はなかった。白い肌は木肌のように爛れ、金蜜色の髪は植物の蔓に成り代わっている。澄んだ翠緑の瞳は失われ、虚のような穴の底に禍々しい緑柱石の光が輝いていた。
これでは、まるで木偶だ。
「ソレイユを助けに来たのよ! 偽物の寵妃のことも、杖の力のことも、ロベルトから全部聞いたわ……! ソレイユの姿をした貴女は誰なの!? ソレイユを返して!!」
『余計なことを知ってしまったのね。あの男、やっぱり仕留めておけば良かったわ……でも、残念ね。今更気がついても手遅れなのよ!』
ソレイユの唇が真横に裂け、つり上がった。燦然と輝く翠緑の杖を掲げ、声高に叫ぶ。
『ーーフレイムニール、ルドラー、カリュブディス!! 太古の厄災よ、蘇れ!!』




