50 彼との絆
久しぶりに帰った父の屋敷は、ひと気がなくひっそりとしていて、廃墟のようだった。
自動人形達のお陰なのか、塵ひとつない自室の床に、硝子窓から差す斜陽が血溜まりのように広がっている。
白銀の薔薇のコサージュをルシウスに預けた私は、黙って皇宮を後にし、ここに戻ってきたのだ。
窓辺に腰掛けて、美しい夕映えに光る皇宮を眺めるうちに、涙が溢れた。
精霊王様は、どうして私を選んだのだろう。
寵妃にさえ選ばれなければ、こんな悲しみを味わうこともなかった。
誰にも期待されない。
誰にも必要とされない。
そんな自分を、今更、自覚し直すこともなかったのに。
「……私は、本当に誰にも求められていないんだわ」
『クスクスクスクス……!』
「……え?」
頬を伝う涙をぬぐった時、甲高い笑い声がした。
足下に落ちた影の形がぐにゃりと歪む。私の影だけではない。長く伸びた窓の格子、部屋の調度品、ありとあらゆる物が落とす影の形が、角や翼を持つ異形と化したのだ。
『クスクスクスクス……!』
『アハハハハハハハ……!』
「なに……? 貴方たちは、精霊なの……?」
右眼を隠せば、姿が消える。
影そのもの、闇そのもののような彼等。
子供のような笑い声を上げながら、異形の影達は私の影に向かって次々に手を伸ばす。
鉤爪のある手に影を捕らえられた途端、氷のような冷気が身体を貫いた。異形の爪が私の影に突き立てられるたび、体温が急激に奪われていく。寒くて、心が痛くて堪らない。心の中にある悲しみという悲しみを、無理矢理に引きずり出されるかのようだった。
孤独感と寂しさが、際限なく膨らんでいくーーいつの間にか、私は自室を出て、廊下の突き当たりにある父の書斎へと向かっていた。ひとりでに動いていく足元を、影の異形達が笑いながらついてくる。
重たいドアを押し開けた先は、夢で見た通りの室内だった。雑然と積み上げられた本の柱の間に挟まるように、父の杖が立て掛けられている。
それに近づき、手に取った時、以前に聞いたルシウスの言葉を思い出した。
父の杖、犀利の銀杖は仕込み杖であると。
杖は、手に持っていることが不思議なほど軽く、逆手に握り込むとしっくりと掌に馴染んだ。杖の先端には翡翠の彫刻が施され、捻りながら引き抜くと、硝子のような細身の刃がスラリと現れる。
初めて手にした父の杖のことを、何故か私はよく知っていた。
喉に押し当てれば、然程の抵抗も無く、その刃が沈み込んでいくことも。
「……そうか。私がいなくなれば、きっと、お父様は喜んで下さるんだわ」
呟いた言葉は、自分の声とは思えないほど冷たく響いた。
産まれたことを憎まれるだけなら。
どんなに頑張っても、努力しても。
誰からも必要とされず、誰からも愛してもらえないのなら。
ーーこの世界に、私がいる意味なんて。
抜き放った冷たい白刃が、熱を持った喉に触れる。その心地よさに、うっとりと瞼を閉じたーーその時。
『去れ! 闇を喰らう徒よ、その者は私のものだ!!』
するはずのない声が響いた瞬間、影達は悲鳴を上げて霧散した。腕が掴まれ、引き寄せられる。黒衣が視界を埋め、力強い腕がこの身を抱いた。
黒龍の仮面ごしに、宵闇色の双眸が私を見下ろしている。
「へ……いか……?」
夢ではないのだと示すように、彼は私の身体をきつく抱擁する。驚いた拍子に、仕込み杖が手から滑り落ちた。刀身が床を叩く音に、虚ろだった意識が一瞬で覚醒する。
私は今、何をしようとしていた?
「わ、わたし、い、今……自分で……!」
『そなたの意思ではない。あれらは、夜魔精霊と呼ばれる夜の精霊だ。人間の負の感情を好んで集まり、苦しみや悲しみの記憶を増幅させて食らう。だが、まさか自害に追い込むことがあろうとはな……。時のーーとは恐ろしいものだ』
「時の……?」
聞き取れなかった言葉に首を傾げる私に、今はそのことはいい、と陛下は囁いた。
『精霊王から全てを聞かされ、後を追ってきた。寵妃の座の辞退を申し出たそうだな』
「……はい」
うなずくと、仮面の奥から深い溜息が溢れた。
『……すまなかった。二人の寵妃には、公平な立場を示すよう釘を刺されていたのだが、芝居じみた真似などするべきではなかった』
「違います……そのことは関係ありません。陛下は、何も間違ったことは仰っておられませんでした」
『嘘をついたことは過ちだ。そなたを傷つけてしまった』
そっと頬に触れた掌が、眦に溜まった涙をぬぐい去っていく。
うつむいていた顔を上向かされ、ディアナ、と静かに名を呼ばれた。
『私は、そなたがいい』
「……っ!」
『力でも、財でも、血筋でも、才能でもなく、私と共にこの国を支えてくれるものは、数多の刃を納めることの出来る、優しさであって欲しいと思う。そなたはずっと、私の傍にいてくれた。恐れを抱かず、私のことを見てくれた。そなたでなければ、嫌なのだ』
陛下の指先が、ゆっくりと髪を梳いていく。黒衣を透して伝わる彼の高鳴りに、素直な喜びが胸を満たしていく。
「でも、わ、私じゃ……魔力のない私には、魔術が使えません。精霊に対する強制力を持たない魔法の力では、帝国が危機にさらされた時、この国を守ることが出来ないかもしれない。そのせいで、大切な人を失ったら、私は……!」
『そなたが魔力を持たぬのは、その身を通して、絶えず膨大な量の魔力が循環しているからだ。よって、自身の魔力も留まることが出来ずに流れてしまう。故に、保持している魔力の量が測定出来ない』
「えっ?」
淡々と紡がれる言葉を、必死に理解しようとした。魔力の量とは、魔力を蓄えておける器の大きさを示す。魔力が留まることが出来ないということは、その器がないということ。
「つ、つまり、私には魔術を使う才がないということですよね……?」
『違うな。ーー皇女アルテミシアの魔力が愛欲を増幅させるように、私の魔力は恐怖を増幅させてしまう。だから、常に仮面の力で魔力を抑え、周りに影響が出ないよう抑制しておかねばならない。しかし、そのせいで魔力の流れが滞り、澱むのだ。私の感情ひとつで力が暴発してしまうほどに。だが、そなたが傍にいることで、澱んだ力が全て循環し、あるべき流れに戻る。だからこそ、ソレイユ嬢も私に近づくことが出来た。証拠に、そなたの前ならこの仮面を外すことすら容易に出来る』
言いながら、陛下は黒龍の仮面に手をやり、ゆっくりとそれを外した。艶やかな黒髪が額に落ち、白皙の美貌が顕になる。
『そなたが集め、循環させた魔力は、周りにいる者達の力になる。名を与えた精霊獣達が、他の寵妃達の守護精霊を一瞬で塵芥にするほどの力を有しているのもそのためだ。彼等にとって、そなたは力の根源そのものだ。だから、どんな時も、彼等を信じて戦えば良い』
眼の前に差し出された掌に、白銀の薔薇が咲いていた。
皇宮を去る際、ルシウスに返したはずのコサージュだった。
その花弁はまだ、一枚たりとも散ってはいない。
『ディアナ……心優しき、私の寵妃よ。親友を相手にするのは辛いだろうが、今一度、頑張ってはくれまいか』
「がんば、る……?」
誰にも期待をされたことがなかった。
初めてだった。
誰かに、頑張れと言われたのは。
「わ、たし……」
『……』
「頑張り、ます……! 陛下が……陛下が応援して下さるなら、頑張ります!!」
陛下は嬉しそうに微笑んで、私の髪にコサージュを挿した。
そして、真剣な眼差しをする。
『ひとつだけ尋ねたい。ーーそなたはまだ、アンブローズのことを父親として愛しているか?』
「はい、勿論です……!」
『それは、本心か? 奴は、幼いそなたを孤独の中に放っておくような酷い父親だ。産まれたばかりの赤子から祝福名を奪い、愛さぬと言った男だぞ。その行いに理由があったとしても、そなたが納得するものとは限らない』
「それでも、彼は私の父です。……それに、いつか、私が私自身のことを誇れるようになったら、父はきっと私のことを認めてくれる。きっと愛してくれる。私の中の何かが、そう信じているんです。だから、諦めません」
『そうか……では、奴のことは私に任せておけ』
瞼を伏せ、まるで、誓いを立てるように言った後、彼は私の身体を抱き上げた。
『皇宮へ送ろう。そなたの成すべきことを成すがいい』




