5 花摘みの夜
「相変わらず、ソレイユの手作りお菓子は美味しいわ……」
その日の夜。
サクサク、と、薔薇の花をかたどった絞り出しクッキーを齧りながら、私は一人、寮の部屋の窓辺に座し、夜祭に賑わう帝都ドラゴニアの光景を眺めていた。
連なるランタンの灯り。色とりどりの天幕が透けて、街全体がステンドグラスのように輝き、とても綺麗だ。
でも、あそこへ降りようとは思わない。賑わしい場所は苦手だし、花をつけた乙女は酔っ払いが囃立てるかっこうの餌食になる。それに、花をもらえなかった乙女による力づくでの強奪戦が多発しているのは、学院内でも帝都でも同じはずだ。
実際、ここから眺めているだけでも三件目撃した。魔術犯罪を取り締まる精霊騎士団も、てんやわんやしているのだと、ロベルトが渋い顔で唸っていたっけ……。
昼間、ソレイユからたくさんクッキーをお裾分けしてもらっておいてよかった。夜食にはこれで充分事足りる。ソレイユは一流の良家の令嬢でありながら、宮廷魔術師候補生であり、おまけにパティシエも顔負けの一流の菓子職人でもあるのだ。
その作り方というのが面白くて、粉をふるいにかける、卵を割って粉と混ぜる、など、お菓子を作るのに必要な個々の動きを念動系魔術の術式に起こし、さらに、それらを繋げて、製作工程に沿った連続魔術法式を創るのだ。
結果、それを起動させるための魔術を行使するだけで、かの有名アニメーション映画のごとく、材料や道具が勝手に動いてクッキーを作り上げるという光景が出来上がる。
小さい頃はこれを見るのが楽しみで、よくロベルトと誘い合わせては、彼女の家に遊びに行ったものだ。
複雑な術式を流れるように操るソレイユは、私の憧れる魔術師の姿、そのものだった。
「〝精霊王の花摘み〟か……」
冷えた海風に乗って、街の子供達が歌う花摘み唄が聴こえてくる。
くり返し、くり返し。ゆったりとした単調なリズムは、いつしか宵闇の向こうの海から響く、潮騒と重なった。
『咲いて、咲いて、宵闇を照らす月の花。
摘んで、摘んで、わたしのために咲く花を。
どうか、どうか、逢いに来て。
愛しい、愛しい、あのひとが、わたしを迎えて下さるように』
「愛しい、愛しい、あのひとが……か。元の唄とずいぶん違ってるんだな」
子供達が歌っているのは、民間に広く伝わっているものだ。この唄は、とある伝承が基になっている。帝国の建国に関わる古い伝承で、幼い頃、寝物語に読んで聞かせてもらったその話が、私はとても好きだった。
ーー昔、魔族との戦に敗れ、傷ついた王が、深い森の中へと逃れた。その様子を見ていた月の娘が、死の淵にたゆたう王の姿を見て恋に落ちる。
彼女は天から舞い降りて、王の傍らに寄り添い、唄を歌った。
『辿れ、辿れ、宵闇に咲く花の路を。
摘んで、摘んで、この子のために咲く花を。
どうか、どうか、ここへ来て。
愛しい、愛しい、眠り子が、死にさらわれてしまう前に』
月の娘の唄は森中に響き渡り、同時に白銀の薔薇の花を咲かせた。木という木に、枝という枝に。そして、彼女の唄と美しい薔薇の花に導かれ、二人の救世主が王の前に現れる。
一人は、森に生きる精霊達を治めていた精霊王。
もう一人は、森の奥深くに棲んでいた伝説の魔法使い、霧の賢者だ。
王の命はこの二人によって救われる。後に二人は王のよき親友となり、力を合わせて魔族と戦い、これを退け、この地に広大な規模の大帝国を築くに至る。
そして、月の娘は王の妻となり、彼の生涯が尽きるまで愛し愛され続けたという。
この国の歴史は、人間と人間ならざるものとの愛から始まっているのだ。
「ーーあれ? でもこの話、誰に読んでもらったんだっけ」
父からでないことは確かだが、でもそうなると、誰だったのか思い出せない。
「……誰だっけ」
分からない。
記憶を探ろうとしても、霧のように朧げだ。
むぅ、としかめっ面で新しいクッキーに手を伸ばそうとした時、帝都から「ワアッ!!」と歓声が上がった。慌てて窓の外に顔を出す。
「わ……!」
帝都は、光の花吹雪に包まれていた。
今朝の鳩の数など比べものにもならない。無数の花弁が風にさらわれては波のように舞い散る様は、私の中にある、もう一つの人生の記憶を手繰り寄せた。
桜、というのだ。
真珠のような光沢を持つ、小さな、薄いピンク色の花が、春になると国中に咲き揃い、冬の終わりを告げる。
家族と一緒に、桜を見るのが好きだった。
こうして窓辺に座って眺めていると、胸の中がとても暖かくなっていくのが分かる。前世の私にとって、それはきっと幸せな思い出だったのだ。
兄と妹、父と、母ーー
彼女の人生とともにあった家族との大切な思い出が、私の胸を満たしていく。
現世の私に、家族との思い出なんてないから。
冷たいそこを埋めてくれる、彼女の記憶が愛おしかった。
「……花が、散っていく」
一枚、また一枚、と。
髪に挿している白銀の薔薇から花弁が剥がれ落ち、風もないのに窓の向こうへと舞い散っていく。昼間は力づくでむしり取ろうが再生したくせに、散るときはこんなにも脆く、はかない。
満月が天頂に登り詰める時刻。
いよいよ、〝精霊王の花摘み〟が始まったのだ。
「うら若き乙女達にひとときの夢を見せて、一晩で全て摘み取ってしまうだなんて、考えてみれば趣味が悪いわね」
いや、実際は建国伝承に基づいた儀式なのだが、体験してみるとなかなか世知辛いものだと思う。
今や帝都は、空を埋め尽くす光の花吹雪と、花が散ることを嘆く〝乙女達〟の悲愴な悲鳴と絶叫で溢れている。
私はそっと、髪に挿した薔薇の花に手をやった。
花弁はもう、僅かも残っていない。
「……精霊王様。どうか、いい花嫁様を選んで下さいね。私のように魔術が使えない人を、馬鹿にしたり、蔑んだりしない、優しい人がいいわ」
ひらり、と。
言葉とともに、最後の花弁が散り終えた。
茎の部分はいつの間にか無くなっている。
「……終わっちゃった」
散っていく桜を見守るときは、いつでも心がきゅっとするものだ。まして、この光景は一年に一度見られるようなものではない。
この気持ちも、目の前にある幻想的な光景も、全て、私にとっての大切な思い出になる。
ひとつずつ、からっぽを埋めていこう。
そう思ったとき、穏やかだった花吹雪の流れが一変した。急に竜巻のように渦巻いて、帝都の空高く上昇し、四本に枝分かれしたのだ。
「なに……?」
枝分かれした先が、龍のようにくねりながらこちらに向かってくる。
こちらにーーこの、私のいる寮部屋の窓に向かって伸びてくる……!?
「ーーち、ちょっと待って、なにこれ……いやーーっ!!」
それはもう、ものすごい衝撃だった。
それはそうだろう。一枚一枚は肩に乗っても気づかない花弁でも、それが何万枚、何億枚という数えきれない量となって一気に押し寄せてきたら、勢いで壁に叩きつけられてもおかしくはない。
幸いにも、そうはならなかったみたいだけど……驚いて、眼を瞑ってしまったから、状況がよく分からない。
瞼をひらくと、部屋は一面、白銀の花弁に覆われていた。
部屋ばかりではない。
私自身も花弁だらけで真っ白だ。
「ああもう、雪だるまみたいになったじゃ……」
ぱんぱん、と。はたきかけた手が止まる。いつの間にか、嵌めた覚えのないレースの手袋をつけている。そして、花弁だらけだと思っていた白さはそのまま、纏っているドレスの純白なのだと気がついた。
「ーーこれって」
間違いない。
ウェディング・ドレスだ。
首元から胸元にかけての見事なレース細工が眼を惹いた。オープンショルダーで、その分、ドレスの繊細さが一層際立つ。絹やレースを幾重にも重ね、表面に細かな銀沙を散りばめてある。
ーーいつの間に。
『ーーディアナ・ゾディアーク。お迎えに上がりました』
ハッとして、ドレスから顔を上げる。
声などするはずがないのだ。私以外の誰かが、この部屋にいるはずがない。
しかし、時として、あり得ないことがあっさりと起こってしまうのが、この国だ。
いつからそこにいたのか。一人の美しい青年が、私の前に恭しく跪いていた。