49 夢の終わり
「おはよう、ディアナ! 今日はシフォンケーキを焼いてみたのよ。ルシウスの作った精霊果のジャムに合うと思って」
「ありがとう! 今お茶を淹れるから、入って!」
先日の再会を境に、ソレイユは月の離宮を訪れてくれるようになった。
得意のお菓子を作っては、持ってきてくれる。生粋のお嬢様育ちにも関わらず、ソレイユは自宅に自分専用の薬草園を作ってしまうほどのガーデニング好きだ。離宮での畑仕事にも興味深々になり、二人で泥だらけになりながら、日暮れまで土をいじる日もあった。
その甲斐もあり、畑の植物は前にも増して元気に育っている。畑の世話をしている地の精霊達も、すっかりソレイユに懐き、彼女の姿を見るたびに、押し寄せるように集まるのだった。
楽しい時間を過ごしながら、二人で皇宮を探索して、地の精霊獣を探している。
南の庭園、西の庭園、北の離宮にも行ってみたのだが、それらしい気配は見つからない。なら、まだよく探していない場所が怪しいのではないかと、今日はソレイユと一緒に、クトゥグァ達を率いて東の庭園に来てみた。
クトゥグァの話によると、地の精霊獣は存在感が薄く、引っ込み思案で、極度の恥ずかしがり屋なのだそうだ。
『たぶん、探せば探すほど出てこねーぞ? 地の性格、風や水以上に面倒くせぇから』
『火が単純なだけだ』
『燃やすしか能がないものね』
『ンだと、このタコ野郎!!』
「喧嘩しないの! ここは陛下の執務室が近いんだから、静かにしないとお邪魔になっちゃうでしょう?」
相変わらずの三人を嗜めていたら、ソレイユが私を呼びよせた。
「この薔薇の木、少し枯れてるわね」
「本当だ……前に来た時は、あんなに綺麗だったのに」
龍の噴水近くの、いつも陛下がお茶を楽しまれている場所に生えた薔薇の樹だ。白銀の花弁が、力無く萎れている。そう言えば、他の庭園でも枯れかけた木や花を見かけた。
「どうしてなんだろう。水の精霊獣の力は取り戻したはずなのに」
「単純に、地の魔力が足りていないのよ。魔力というものは四大元素のバランスが大事だから。早く地の精霊獣を見つけないと、他の三つの力に飲み込まれてしまうかもしれない。離宮に生えたあの巨大な植物も、力が不安定な証拠よ」
言いながら、ソレイユは薔薇の木の下に立ち、その根本に翠緑の杖を突き立てた。両手をかざして、眼を閉じる。
「ーー健やかなる地精、我が声に応え、我が元へ集え。汝らの力を汲み分けたまえ」
ソレイユの紡ぐ術文に呼応するように、杖の先端にはめ込まれた緑柱石に似た精霊石が光を帯びる。地属性の精霊達が次々に集まり、彼等が薔薇の樹に触れるたびに、萎びていた花弁がぴんと張り詰め、樹全体が生き生きしていくのが分かった。
パチパチ、と背後で拍手が鳴る。
丁度、朝の執務を終えたのか、黒衣の陛下が三人の精霊執事を引き連れ、佇んでいた。
『見事だな、ジブリール嬢』
「ディートリウス陛下!」
「陛下、ご機嫌麗しく存じます。ーーどうぞ、ソレイユとお呼び下さいませ」
さっと淑女の礼を取るソレイユに、陛下は優しげな視線を向ける。
『ひと息入れようと思っていた所だ。ディアナ嬢、ソレイユ嬢、そなたらも一緒にどうだ?』
「ありがとうございます。えっと……でも」
ソレイユはどうだろうか。前に話した時は、陛下のことをずいぶん怖がっていたから。尋ねる意味で視線を送ると、彼女は穏やかに笑んだ。
「大丈夫よ、ディアナ。今なら何の恐怖も感じない。きちんと陛下と向き合える気がするの」
「よかった……! それじゃあ、みんなでお茶が出来るね!」
精霊執事達が見る間に整えたお茶の席に着き、私とソレイユは地の精霊獣探しの一件を陛下にお伝えした。クトゥグァ達の姿はいつの間にかない。
『地の精霊獣か。母に仕えていた時は、確か、大きな熊に似た姿だったように思う』
「熊ですか。うーん、じゃあ、ハスターの蜂蜜酒で誘き出してみるとか……?」
「ディアナ。精霊獣達は前寵妃様が精霊界に去られた際、名をお返ししているんでしょう? なら、好きな姿になっているはずよ。姿は名が縛るものだと、読んだことがあるわ」
ソレイユの言葉に、確かにとうなずいた。
陛下のお話によれば、前寵妃様は精霊獣達に星の名を与えていたそうだ。火には獅子座のレイリア。風には風鳥座のカラルー、水には海亀座のサダルメリク。地には大熊座のミザール。
それならきっと、私の守護精霊のルシウスに名を与えたのも彼女だったのではないだろうか。
ルシウスは、天球の中心に輝く星の名だ。
美しい仕草でカップを持ち上げたソレイユが、さらり、と陛下に尋ねた。
「陛下。前寵妃様は、前皇帝陛下が帝立魔術学院に御就学の際、御見染めになった方だとお伺いしております。陛下は、わたしとディアナ。どちらの寵妃を選ばれるおつもりですか?」
「……っ!」
咳き込みそうになるのを必死で堪える。柔らかな物腰にもかかわらず、ソレイユの物言いは相変わらず単刀直入だ。
陛下は、ふむ、としばし考えた後、こう答えられた。
『寵妃を選ぶのはあくまで精霊王であり、私の意思は関係がない。母の場合は、偶然、父が見染めた相手が精霊王の眼鏡にも適ったのだ。彼女は、学院始まって以来の才女であったから、それも当然だったのだろう』
ーーだが、と、彼。
『その重責を担う器があると見込まれた乙女ならば、どちらが選ばれようとも、私はそれを受け入れ、心から愛すると決めている』
穏やかな言葉だった。
だからこそ、余計に心が痛んだ。
でもそれは、自分勝手で幼稚な我儘だということも分かっている。陛下の言葉はもっともだ。彼はこの国の皇帝として、公平な立場を示しただけ。
だから、彼の言葉を不満に思うのは間違いだ。
ざわつく心とは裏腹に、お茶の時間は和やかに過ぎた。陛下が執務へと戻られ、お開きになった後、私とソレイユは月の離宮へと戻ることにした。
「ありがとう、陛下とお話しできたのはディアナのおかげよ」
「どういたしまして。私も、一緒にお茶が出来て楽しかったよ」
ソレイユに喜んでもらえて嬉しいはずなのに、心の底がじくじくと痛む。
それを笑顔で覆い隠すことが辛い。
何でもいい、会話をして紛らわしてしまいたいと思っていたら、不意に、ソレイユが立ち止まった。
「ディアナは、ディートリウス陛下と本当に仲が良いのね」
「そうかな……? ソレイユだって、ロベルトと仲が良いじゃない。お茶を飲みながら話をしたりするのは、同じだと思うんだけどーーそうだ、ロベルトには会った? ソレイユのこと、すごく心配してたのよ。悩んでいることがあるみたいだって。前に離宮に来た時も、思い詰めていたみたいだったし。私で良かったら話して。なんでも相談に乗るから」
「……」
「……ソレイユ?」
「わたしが悩んでいたのはね、ディアナ。貴女のことなのよ」
「私の?」
ええ、とソレイユはうなずいた。
「以前、わたしは聞いたわよね。ディートリウス陛下のことを、どう思っているかって。あの時の貴女は、まだ陛下への気持ちに気がついていなかった。でも、今は違うのでしょう?」
ソレイユは翡翠色の瞳で、真っ直ぐに私に見つめて尋ねた。
「彼の事を、愛してしまったのね」
「……っ!」
「本当は、そうなる前に言うべきだった。ディアナ。陛下をお慕いしていると言う理由だけで、寵妃になりたいというのは間違っているわ。貴女だって、本当はもう分かっているはずよ」
「ど、して……そんなこと、言うの?」
「私は貴女の友人だから。これは貴女のためだからよ。魔力のない貴女が寵妃になれば、魔力実力主義を貫くこの帝国の価値観の全てを根底から覆してしまう。多くの民に、不安と混乱を招いてしまう。民の上に立つものは、民の手本でなくてはならない。不安の種になってはいけないのよ」
「……っ!」
「それに、過去のように魔族がこの国に攻め込んで来た時には、寵妃は優れた魔術を以て、それを退けなくてはならない。この帝国に住む、たくさんの人の命がかかっているの。厳しいことを言うようだけど、魔術の使えない貴女に、帝国を守ることが出来るとは思えない」
「で、も……わ、私には、クトゥグァ達精霊獣がいる。彼等が力を貸してくれる。魔術が使えなくても、魔法が使えればーー」
「精霊達は気まぐれよ。有事の際に、必ずしも力を貸してくれるとは限らないわ。魔術のように魔力を介した契約という名の強制力が、魔法にはないの」
「……」
「辞退すべきよ、ディアナ。貴女が役目を果たせなかった時、たくさんの人達に傷つけられるところを、わたしは見たくない」
ソレイユの言葉に腹が立たないのは、納得してしまっている自分がいたからだ。
彼女は私が思い悩んでいたことを、代弁してくれただけ。
私だって頑張っている。努力している。魔術が使えない分、魔法を極めてみせるーーでも、口に出した途端、それらは全て、ただの子供の我儘に成り下がってしまうような気がした。
それほどに、絶対的に、ソレイユの言うことは正しかった。
ソレイユは、その場に立ち尽くした私に近づき、そっと両手を握りしめた。
「どうか分かって。貴女とわたしの立場は同じなの。貴女が陛下への気持ちを諦めるように、わたしも、ロベルトへの気持ちを諦めるのだから……」
涙の膜の向こうで揺れる、翠緑の瞳を見つめたまま、うなずくことも、反論の言葉を発することも出来なかった。
ソレイユがその場を立ち去った後、どうやって月の離宮に帰り着いたのかは覚えていない。
ただ、いつも通り笑顔で出迎えてくれたルシウスの顔を見た瞬間、それまで必死に心を支えてきたものが、耐えきれず、折れてしまった。
『ディアナ、どうしたの』
「ルシウス……お願い。お願いだから……精霊王様に、伝えて。寵妃の座を、辞退させて欲しいの」
お願い、と、嗚咽の間から絞り出す。
初めから、私でなければ良かったのだ。
月の離宮にやって来た寵妃も。
精霊獣と信頼を築き、名前を与えた魔法使いも。
陛下の傍で彼を見つめ、言葉を交わし、理解する相手も。
「ここに来たのが、ソレイユだったら良かった。クトゥグァ、ハスター、クトゥルフ……貴方達に名前を与えた寵妃は、魔力を持たない私なんかじゃなく、彼女であるべきだったのよ。ーーごめんなさい、ルシウス。初めから、私には寵妃になる資格なんてなかった。どうか、辞退させて下さい」
悲しいのは、寵妃になれないからじゃない。
寂しいからだ。
離宮を離れることが。
ここのみんなと別れることが。
ーー陛下に、会えなくなることが。
このまま、ずるずると居座ってしまえば、いざその時が来た時に、私はそれを受け入れられないかもしれない。
だから、今。
震える手で差し出した白銀の薔薇のコサージュを、ルシウスは静かに見つめた後、そっと、包み込むようにその掌に納めた。
『……いいよ。君が本当に、それを望んでいるのならね』




