45 秘策と奇襲
ーーなんだろう。
温かくて、柔らかくて、いい匂いがする。
少し体温の低い掌が、頬を撫でていく。なめらかな長い指の心地よさに、いつまでもこの微睡みの中にいたいと思ってしまう。
薄く開いた瞼の向こうに映るのは、波打つ銀糸の髪と、鋭利な横顔だ。私の視線に気がついたのか、冴えた色味の蒼い瞳がこちらを向いた。
「……お、とう、さま……?」
ほう、と父は口角を上げ、艶のある低音で囁いた。
『そなたはまた……私の腕の中にいながら、他の男の名を紡ぐのか。ーー妬ましいことだな』
「ーーっ!?」
瞬きと同時に、眼の前にいたはずの父の姿が別人になり変わった。人間離れした魔性の美貌。眩しい朝日の中、薄地の夜着を裸体に纏った信じられないような美青年が、絹のシーツの上にその身を横たえている。
白皙を縁取る艶やかな黒髪の下で、宵闇色の眼差しが面白そうに私を眺めていた。
「……ディー……トリウス、陛下……?」
『おはよう、愛しき寵妃。ーー昨夜のそなたは、素晴らしかったぞ』
「は……っ!?」
つ、と顎を持ち上げる指。
耳元に囁かれた、あまりにも妖艶な言葉に、全身の血が沸騰するかと思った。
ここは何処だ、ーー陛下の閨だ。
どうしてこんなことに、ーーそうだ、昨日の夜、彼の仮面を盗むために忍び込んで……!
昨夜起きた一連の出来事が、走馬灯のように脳裏を駆け巡った。
水の精霊達の解放に力を貸すかわりに、償いとして添い寝をしろと言われたことは覚えている。
致し方なく、それを承諾したことも。
……が。
まさか。
ーーまさか、これがいわゆる朝チュンというものなのか!?
「えっ? ええっ!? わ、私、な、なな何もしてませんよね!? 添い寝しただけですよねっ!?」
『ははは……!』
破顔され、また冗談を言われたのだと気がついた。
「陛下!」
『すまない。ーーだが、そのように可愛らしく照れるそなたも悪いのだ』
さらり、と赤面必須、理不尽極まりない台詞を仰る陛下である。何だ、今の無邪気な笑顔は。まともに直視出来ないほどの美形を見たのも初めてだが、一眼で思考を吹っ飛ばされる笑顔を見たのも初めてだ。
もうこれ以上、心臓が持つ気がしない。
『ディアナ、そなたにこれを』
絹のシーツを頭から被り、ますます赤くなる私の前に、彼は黒龍の仮面を差し出した。
『秘石、魔黒封石で創られた唯一無二のこの仮面は、触れただけで魔力を吸い取られてしまう。故に、普通の人間には触れられぬ。皇女アルテミシアがそなたを差し向けたのは、そなたが魔力を持たぬが故だろう。彼女の望み通り、貢物として差し出すがいい』
「で、でも、この仮面がないと陛下は……!」
『任せておけ。ーー私に良い考えがある』
そっと私の髪を撫で、陛下はその素顔に甘やかな微笑みを浮かべた。
❇︎❇︎❇︎
「確かに、仮面を持って来いとは言われたけど……」
その後、精霊執事達に身支度を整えてもらった私は、陛下の指示通り、北の離宮を訪れた。
入り口には、例の女官型の自動人形達が待ち構えており、私は彼女達に向かって、両手に抱えた黒龍の仮面を差し出した。
希少鉱石、魔黒封石で創られているという仮面は、裏側に複雑な魔術紋がビッシリと彫り込まれており、ヒヤリと冷たくズシリと重い。
ーー本当に、こんなことをして良いのだろうか。
陛下は構わないと仰られたものの、極度の緊張で掌の震えが止まらない。
女官達は私の手元を確認すると、一糸乱れぬ機械的な動きで踵を返し、奥のサロンへと導いた。
サロンには、昨日と同じように大量の貢物が置かれ、中央に高座と輿が鎮座している。
輿の傍に座した自動人形が、声高に言った。
『〝よう参った。さあ、その仮面をこちらへ〟ーーと、御姫様は仰っておられまする』
言葉とともに、女官の一人が私の前にそそと現れる。
躊躇いながらも仮面を手渡すと、その途端、女官は引きつったような動きになり、ガシャリとその場に崩れ落ちた。
おお、と御簾の中から鈴を転がすような声が零れる。これが、アルテミシア皇女殿下の肉声か。
『動力源の魔晶石から魔力が吸い取られたのじゃ! これこそまさしく、魔黒封石より創られた龍頭の仮面の力……!! 早う、早う、妾に渡したもれ!!』
「待ってください! その前に、捕らえた精霊達を解放して下さい!」
『水魔精霊獣よ!!』
瑠璃色の御簾がはためき、中から二体の水魔精霊獣が現れる。その手元の鏡から、深紅と黄金の精霊二人が飛び出してきた。
「クトゥグァ、ハスター!」
『そなたの精霊獣は返したぞえ! 水の精霊達の解放は、仮面と引き換えじゃ! さあ、早う渡せ!』
瑠璃色の御簾の間から、白磁のような細腕が突き出る。床に落ちた仮面を拾い上げ、私は高座の頂へと続く階段を登り、輿へと近づいていった。
状況を察したクトゥグァが、慌てた顔で叫ぶ。
『よせ! 姫さん、それが無いとディートリウスは……!』
「大丈夫よ! ーーお願いします、陛下!!」
手元の仮面がフワリと浮かび、空中に固定されたーー瞬間、誰もいなかった空間に、黒衣を纏ったディートリウス陛下が現れる。黒龍の仮面はその顔にしっかりと収まっている。彼の怒りと魔力の高まりを示すように、闇色のマントが大きく翻った。
『魔帝ディートリウス……!! 何故、何故じゃ!? 姿が見えぬどころか、魔力の気配さえもしなんだぞ……! な、何をした!?』
陛下の肩に貼りついていた海亀が、私の手元に戻ってくる。この亀さん、貼りついたものの姿はもちろん、気配や魔力すらも悟られないよう、隠すことが出来るのだ。
ただ、なかなかやる気になってくれないのが玉に傷である。途中でやる気を無くして、うっかり陛下の姿が現れてしまったらどうしよう……と、気が気ではなかった。
仮面の奥の、宵闇色の双眸を冷たく光らせ、彼は言う。
『皇女アルテミシア。魔力を持たぬディアナ嬢を唆し、私の仮面を盗み出すつもりだったようだが、戯れが過ぎたな。此度のこと、見過ごすわけにはいかぬ……!』
陛下が掌を払うと同時に、彼の影が巨大な黒龍に姿を変えた。羽ばたきが暴風を生み、輿を吹き飛ばしてバラバラに粉砕する。間違いなく高位の精霊だ。無詠唱にも関わらず、なんて威力だ。
輿の無くなった高座の上には、絢爛な金襴緞子の十二単衣に身を包んだ美姫ーーアルテミシア・ラリマール・グランマーレ皇女殿下が座していた。月光を集めたような雪白の肌、夜天よりも艶やかな射干玉の黒髪は、まさに輝夜姫そのもの。その顔の完璧な美しさは、女の私でさえ思わず魅入ってしまうほどだった。
そして、そんな彼女を庇い立つのは、黒龍の仮面を被った黒衣の魔帝、ディートリウス陛下だ。
「へ、陛下が二人……!」
『ほう。そなたには、あのような木偶が私に見えるのか? 不快だな。ーー澄みし闇よ、不浄を滅せ』
一刃の風が薙ぎ、ゴトリ、と偽物の陛下の首が落ちる。拍子に偽物の仮面が外れ、能面のような人形の顔があらわになった。本物の陛下の素顔とは、似ても似つかない。
『おのれ……よくも、よくも妾の大切な……!! 水魔精霊獣よ、清き水鏡の力を以って、狼藉者共を一掃せよ!!』
『どちらが狼藉者なのだ……全く』
皇女アルテミシアの命をうけ、数十体の水魔精霊獣が私達を取り巻いた。手元の鏡が怪しく輝き、大量の水が噴き出す。しかし、水撃は私達に届く前に風の壁に阻まれ、散り散りに霧散した。巨大な黒龍の羽ばたきのおかげだ。攻撃を全て防ぎ切ると、陛下は何故か重々しく嘆息を落とした。
『……ディアナ。私が助けられるのはここまでのようだ。先ほどから、精霊王が頭の中で手を出すなと喚いている。ーーやれるか?』
「はい、任せてください!」
私は髪に挿したコサージュを抜き、杖と化したそれを頭上に掲げた。




