44 謝罪と断罪
感情の全てを削ぎ落とした声音に、身が震えた。
前に、彼に大嫌いだと言って怒らせてしまったことがあったけれど、そんなものは比べものにもならない。
黒龍の仮面を外した陛下の美貌は、もう一枚仮面を被っていたのかと思うほどの無表情だ。
しかし、張り詰めた宵闇色の双眸の中に宿るものは、静かで、凝縮された怒りだった。
その御身から発せられる魔力がそうさせるのだろう。彼の腕に抱きとめられたまま、身動きはおろか、彼の瞳から眼を逸らすことさえ出来ない。
私の姿は亀の力で消えていたはずなのに、どうして見つかってしまったのだろうーー困惑する私の視界の端を、素知らぬ顔で亀が泳いでいく。
……あの亀、あとでスープにしてやるんだから!
ギロリと睨みつけようとした、その視界が反転した。ドサッと落とされたのは寝台の上だ。慌てる間もなく、漆黒の絹衣
に包まれた長身が覆い被さってくる。
「へ、陛下……!?」
『そのような薄い夜着一枚で、男の寝所に忍び込んだのだ……覚悟は出来ているのだろう?』
にやり、と妖しげな笑みを浮かべて彼は言う。冷たい指先におとがいを取られ、その意味を察した瞬間、冷や汗が噴き出した。
「でっ、出来ません、出来てませんっ!! ちち、ちが、違うんです、これは……!」
『……ふん』
冗談だとでも言うように、彼は身を起こし、寝台の上に置いたままになっていた龍頭の仮面を手に取った。
『では何だ。ーー私の素顔を暴きに来たのか?』
「……いいえ。訳あって、陛下の仮面を盗みに……本当に、申し訳ごさいませんでした……!」
『何?』
困惑に見開かれた彼の眼が、次の瞬間、鋭く光った。右手が真横に振り払われ、その指先から漆黒の荊の蔓が噴き出す。蔓は鞭のように大きくしなり、部屋の隅で様子をうかがっていた水魔精霊獣を、手元の鏡ごと真っ二つに切り裂いた。
跡には碧い煙と、あの甘くて深い香のかおりがゆらりと漂う。
『ーーなるほど。傀儡の香を焚かれたか。この魔力、皇女アルテミシアの仕業だな』
「傀儡の香……? は、はい。確かに、皇女様から睡蓮の香炉に入ったお香を頂きましたけど」
『皇女アルテミシアの魔力は、人間の愛欲を増幅させてしまうのだ。理性のタガが外れ、肉欲や愛憎が抑制出来なくなった者は、傀儡のように欲望に支配されてしまう。香には彼女の魔力が練り込まれている。そなたは、その香りを嗅いだのだろう。ーー彼女との間に、何があった?』
「あ、え、ええっと……」
流石は陛下だ……。
寝込みを襲われたこの状況下で、あり得ないほど冷静かつ正確な分析力。飛空艇での騒動で見た毅然とした対応力といい、彼の聡明さにはいくら敬服しても足りない。
これ以上隠し立てすることは何もないと、私は水の精霊を助けるために、皇女様と交わした取引について白状した。
『ーーつまり。そなたは、交換条件である私の仮面を盗むために、姿を消すことの出来る水精の力を借りて、ここに忍び込んだというわけか』
「うう……っ、はい、そうです」
情けない、とばかりに、陛下の唇から嘆息が漏れる。
その視線に込められた深い失望感に悲しくなった。重い沈黙に耐えきれない。魔力もない上に一人では何も出来ないと呆れられてしまった挙句、この始末だ。もう、以前のように一緒にお茶を楽しんだり、取り止めのない会話をすることすら、出来なくなってしまうのだろう。
ーーだが、次に口を開いた彼は、意外なことを言った。
『何故、私に相談しに来なかった。香の力に背を押されたとはいえ、盗みに入るなど、そなたらしくもない』
「相談……? で、でも、私を助ける義理はないと仰ったのは、陛下じゃないですか」
『そんなことを言った覚えはない』
「お、仰いましたよ!? 今日の夕方、北の離宮へ御渡りの最中にお会いした時、弱っていた水の精霊を助けて欲しいとお願いしたら、魔力が無い上に一人では何も出来ないのか、私を助ける義理なんかないって……!」
『……ふむ』
陛下はしばらく考え込んだ後、いたって冷静に答えた。
『夢でも見たのだろう。ーーと言いたいところだが、そなたが皇女アルテミシアの掌の上で踊らされていたのだとしたら、その時の私は彼女の所有する自動人形だ。今日、私とそなたが会ったのは、今この時が初めてだ』
「え……?」
瞬間、頭が真っ白になる。
言われたことが唐突すぎて、理解が追いつかない。
「自動人形っ!? でででも、お付きの人も沢山いたんですよ!? 皇女様への貢物を持った従者が、二十人以上!!」
『以前に話しただろう。私は人間の従者は付けぬ。荷があるなら、魔術で転送すれば良い』
「そんな……嘘……あれが人形だったなんて……!」
しかし、陛下に嘘を言っている様子はない。
彼の話が本当なら、私は陛下の一分の一スケールの等身大フィギュアに対して、盛大に焼き餅を焼いていたことになる。
ーーは、恥ずかしい! 恥ずかしいっ!!
「で、でも、皇女殿下が、陛下が毎晩貢物を持って会いに来て下さると仰ってました!」
『ほう? 私の言葉よりも、彼女の言葉を信じるのか。ーー信じられないなら、信じさせてやろう』
「えっ?」
ぎゅっと抱きこまれ、そのまま横抱きにされた。なめらかな掌が髪を撫で、頬に触れてくる。少し体温の低い柔らかな感触が、不思議と懐かしい。
「あ、あっ、あの、陛下……?」
『もう気がついているのだろう? 月の離宮でそなたと出会った夜のこと。あれは、夢ではない』
静かに囁かれる言葉が、あの夜の記憶を呼び覚ます。交わした言葉、触れ合った感覚をありありと思い出してしまい、あまりの恥ずかしさに、掌で顔を覆い隠した。くつくつと、頭の上から楽しげな微笑みが降り落ちてくる。
『これ、隠すな。無断で私の素顔を見たのだから、そなたの恥ずかしがる顔を見せよ』
「どういう理屈ですか! へ、陛下だって、あの夜は寝ていた私に添い寝して、無断でキ……キ……」
『……』
「キスを、したじゃないですか……」
消え入りそうな声で伝えると、陛下の顔から笑みが消えた。
『ーーそれについては、私に非があるな。ではこうしよう。皇女アルテミシアに囚われた、水の精霊達を助けたいのだと言ったな。そなたを助ける代わりに、このまま一晩、私の傍で休んでいけ。今夜のことも、それで全て許そう』
「……はい?」
つまり、魔帝陛下は添い寝をしろと仰っているのだ。
「むっ!? むむむ無理です! 無理無理無理、絶対無理ですから!!」
『無理か。ならば、他のことで償うか? 私はそれでも構わないが……』
指の先で唇に触れ、首筋から鎖骨をたどり、悪戯に夜着の襟首をなぞりながら、実に妖艶に、妖しく微笑む陛下である。
気が遠くなりそうなほどの壮絶な色気に、目眩がした。
「そそ添い寝します! 添い寝させて下さい!!」
『ーー、ふ、はははっ!』
楽しげに笑われて、揶揄われただけなのだと知る。
キスのこともそうだ。彼にとっては大したことではないのかもしれないが、こちらはどれだけ心を乱されたことか。
ただ、添い寝のことだけは本気らしく、彼の腕は優しく私を包み込んだまま放そうとしない。
諦めを嘆息に交え、私はあの時と同じように、彼の横顔を見上げた。
「……陛下、揶揄うだけのおつもりなら、こういうことはやめて下さい。それが割り切れるほど、私は大人ではありません」
『ディアナ』
「ーー、っ!」
宵闇色の双眸が、触れそうなほど近くにあった。
陛下との間を遮り、その心の内を隠してきた仮面はもうない。
だからこそ、彼が今までどんな表情で、どんな気持ちで、私のことを見つめてくれていたのかが、充分すぎるくらい、分かってしまった。
『揶揄うつもりなどない。分かっているのだろう?』
「陛下……」
『私の気持ちは、今は伝えることは出来ぬ。ーーだが、覚えておいて欲しい。そなたがいるべき場所は、ここであると』
髪を梳いていた指が、さらりと前髪を持ち上げる。
優しく、そっと触れるように押し当てられた唇は、額に小さな熱を生み、名残惜しそうに離れていった。




