42 救済と奇策
『お帰り、ディアナ。遅かったね、すぐに夕食を温め直して……って、そんなどころじゃなさそうだね?』
出迎えてくれたルシウスに一目で見抜かれるほど、酷い顔をしていたらしい。彼は持っていたお玉をクルリと回してハンカチに変え、私に手渡した。
「……ごめんなさい、ルシウス。少し、一人にして欲しいの」
『それは構わないけど。でも、その水の精霊をどうにかしないといけないんじゃないかな』
ルシウスに指差され、腕の中の亀のことを思い出した。そうだ、早くしないと本当に干からびてしまう。
『水に戻せば蘇るだろうけど、今は離宮中の水が枯れてるんだったね。とりあえず、僕の魔力を分けてみようーーどうしたの、ディアナ?』
「ごめんなさい……なんでもないの。早く、助けてあげて。私には、何も出来ないから……」
亀を彼に託し、立ち去ろうとしたのだが、ルシウスの指が腕に絡んで離れない。驚いて振り向くと、思いがけず真剣な眼差しとかち合った。
『ーーディアナ。何があったのか、聞かせてくれるね?』
「……うん」
こういう時のルシウスは、物腰こそ柔らかいが、有無を言わせない気迫がある。中庭のテーブルに導かれ、私は躊躇いながらも、北の離宮での出来事や、陛下に言われたことを話した。
『ーーふぅん、陛下がそんなことを。彼にしては珍しい口ぶりだな。喧嘩でもしたのかい?』
「してないわ。考えてみれば、クトゥグァを助けた時も、レジーナの策略にはめられた時も、陛下に助けてもらってばかりだったもの。一人では何も出来ないと呆れられるのも当然だと思うの……」
ハンカチを手渡されたものの、使うまいと涙を堪えた。もう充分すぎるほど情けないのに、この上、ルシウスに泣き付くなんて惨めすぎる。
彼はそんな私を碧玉の瞳でじっと見つめ、そうかな、と首を傾げた。
『例えば、君は医者じゃないから、酷い怪我をしてる人を見つけても治療は出来ないけど、治せる人のところに運ぶことは出来るだろう? 君がしようとしたのは、そういうことだ。誰かのために、自分に出来ることを精一杯やろうとする行いは、恥じるべきことかな?』
「……!」
ルシウスの言葉に、ハッとする。心の中で無茶苦茶に絡まっていた糸が、スルスルと解けていくようだった。
『君の行いは間違いなんかじゃないよ。ーーでも、君が陛下の言葉に何かを感じて、頼ってばかりじゃいけない、自分で考えて解決しないとって思うのなら、僕は手を貸さないから、この水の精霊のことは君が何とかしてごらん? ただし、君は魔法使いなんだから、ちゃんと精霊達の力を借りるんだ。皆、君の力になりたいと思ってるのに、拒絶したら悲しむだろう?』
「皆……?」
うつむいていた顔を上げ、その時初めて気がついた。離宮中の精霊達が、所狭しと集まっていたのだ。西の庭園に棲まう鳥の姿の風精や、南の庭園の紅い獣の姿の火精も沢山いる。
「あなた達、わざわざ来てくれたの……? ありがとう……!」
『クトゥグァとハスターという高位精霊に名前を授けた君の危機だからね。眷属である火と風の精霊達は、特に好意的に力を貸してくれるよ』
「火と風……火と風の力を使って水を生み出すなんて、そんなこと出来るのかな」
風の精霊達に頼んで雲を運んでくれば、と考えたが、雨を降らすほどの雨雲を運ぶなんて大がかり過ぎる。
魔術学院で学んだ知識は山ほどあるけれど、その中にも火と風で水を生む方法なんてない。いや、魔術の原理に固執せず、もっと柔軟に考えてはどうだろう。例えば、雨が降ってもいないのに、濡れているような場所……いや、現象?
「ーーそうだ! あの方法なら、もしかしたら」
風の精霊は大気、つまりは空気の精霊だ。
そして、火の精霊は熱を司る精霊でもある。
『何か思いついたみたいだね?』
「うん! ルシウス、花茶を淹れるガラスのポットを貸して欲しいの!」
お安い御用、と微笑んだ彼の手元にそれらが現れた。ガラスのポットを手に、私は深く息を吸い込む。
「ーー海より来たる、たおやかなる風精よ! 一迅の風を我に授けたまえ! 勇猛なる火精よ! 熱く燃え盛りて、汝が血潮となりし熱力を、器より奪いたまえ!」
風精によりポットの中に吹き込まれた海上の空気が、火精によって熱を奪われ、急激に冷却される。すると、それまで空気に含まれていた水蒸気が冷やされて露点に達し、水滴の状態になるーーいわゆる、凝結という現象だ。
飽和数蒸気量のグラフから露点を求める問題が、前世の私は大嫌いだった。当時は、こんなもの勉強して何の役に立つのかと思っていたらしいが、いやいや、ものすごく役に立った。真面目に勉強してくれて、ありがとうと言いたい。
ポットの口から亀の甲羅へと滴っていく水滴に、ルシウスは目を見開いた。
『驚いた……! 風と火から水を生み出すなんて、どんな魔法を使ったの』
「空気の中には、眼に見えない水が含まれているの。ほら、海風って湿っぽいでしょう? そういう空気を冷たく冷やすと、含まれていた水が水滴になって、硝子なんかにひっつくのよ。冬の寒い日に、窓硝子に息を吹きかけると曇るのも、この原理ね」
『なるほど……! 水そのものの特性を利用したというわけか!』
子供のようにはしゃいだ彼だったが、ふと考え込むように沈黙した。ややあって、静かに問いかけてくる。
『ーーねぇ、ディアナ。火と風の精霊獣に与えた異星の邪神の御名といい、今の知識といい、君は時々、僕も知らないような不思議なことを知っているよね。アンブローズに教えてもらったのかい?』
「父は、私には何も教えてくれないわ……私ね、自分が生まれる前の記憶があるみたいなの。前世っていうのかな。こことは全く違う世界で生まれた時の私が、寂しいときや、困ったときに、心の中に現れて助けてくれるのよ。彼女がいなかったら、私、とっくの昔に駄目になっていたような気がする。ーー信じられないでしょう?」
『いいや。僕等は長生きだからね。昔、友人だった人間の生まれ変わりに出会うこともある。でも、別の世界からっていうのは珍しいな。前世の君は、どんな人間だったんだい?』
「覚えてるのは、私と同じくらいの女の子だった時の記憶ね。日本っていう平和な国で、学生として学校に通ってた。剣や魔法が出てくるお話の世界が大好きでね。ーーだから、すごく申し訳ないの。ここは彼女が憧れていたままの世界なのに、私は、こんなだから」
『ディアナ。気がついていないだけで、君は君にしか出来ないことを、沢山やり遂げているんだよ。足りないのは、自分を肯定することだ』
「……ありがとう。そんな風に言ってくれるなんて、ルシウスが私のお父さんだったら良かったのに』
いや、エプロン姿が似合うから、お母さんでもいいかもしれない。
そんな冗談を笑ううちに、干からびかけていた亀はすっかり元気になっていた。灰がかり、ひび割れていた甲羅は瑠璃色に輝き、蒼い手足をオールのように動かして、ふわりと浮遊する。
「よかった、元気になってくれて。そうだ、水の精霊達を解放したら、この月の離宮で暮さない? 中庭の噴水池にーーわっ!?」
『ディアナ!?』
驚いた。空中を泳いでいた亀が、いきなり私の顔に張りついたのだ。それだけのことなのに、ルシウスが珍しく血相を変えている。
『ディアナ、どこに行ったんだ!? 何が起きた!?』
「どこにって、私はここにいるわよ! ……もしかして、姿が見えていないの?』
『あ、ああ……声は聞こえるけど、姿は見えない。突然、消えてしまったように見えたよ』
もしかして、と考えるまでもない。黄色い鸚鵡が人の本音を話せるように、この亀はきっと……!
顔に張りついた海亀を、べりっと引き剥がし。
「ひっついた物の姿を消すことが出来るのね! ……そうだ、いいこと考えた!」
さっきまで落ち込んでいたことが嘘のように、頭の中で面白いように計画が組み上がる。
この亀の力を借りれば、水魔精霊獣に囚われた、水の精霊達を助けることが出来るかもしれない。




