41 姫君の難題
あらゆる魔力を吸収する、龍頭の仮面……って。
「……ま、まさか、ディートリウス陛下が肌身離さず着けておられる、黒龍の仮面のことを仰ってるんじゃないですよね?」
『〝分かっておるのなら、話が早い。黒龍の君がそうであるように、妾も自身の魔力が上手く扱えぬことがあるのじゃ。故に、災いを招かぬよう、輿の中から出ることが叶わぬ。しかし、あの仮面さえあれば、自由に外に出ることが叶うのじゃ!〟ーーと、御姫様は仰っておられまする』
「む、無理無理! 無理ですよ! いくらなんでも、陛下の物を盗んだり出来ません! 殿下ご自身でお願いされたらいいじゃないですか。夜毎、陛下と会われて貢物を頂いておられるんでしょう?」
『〝断られたから、こうして申しておる! 無理であろうが、妾は条件を変える気はないぞえ。水の精霊共を解放して欲しければ、黒龍の君の仮面を妾のもとへ持って参れ!〟ーーと、御姫様は仰っておられまする』
「そんな……」
高台に鎮座する輿を、愕然と見上げた。
ディートリウス陛下の仮面を盗むなんて、そんなこと、出来るはずがない。
困り果てた私の肩に、ぽん、とクトゥグァの掌が置かれる。
『んな、情けない顔すんな。とりあえず、ディートリウスに会って事情を話してみろ。相手が姫さんなら、あいつも考えるかもしれねぇだろ?』
『ああ。いざとなったら、力づくという手もあるしな?』
不適に笑う二人の精霊達に、沈みそうだった心が軽くなる。
ーーしかし、パチン、と扇子が鳴るとともに、二人の背後に二体の水魔精霊獣が現れ、手元の鏡が不気味な光を宿した。
『〝清涼なる水魔精霊獣よ。清き水鏡の力を以て、その者達を捕らえよ!〟ーーと、御姫様は仰っておられまする』
『うおっ!?』
鏡の面に二人の姿が映り込んだ瞬間、その身体の輪郭がぐにゃりと歪んで、鏡の中に吸い込まれてしまった。本当に、一瞬のことだった。
「何をするんですか!?」
『〝条件は困難である方が、遊戯が盛り上がろうというもの。こやつらの助力は許さぬ。火と風の精霊獣は、こちらで預からせて貰うぞえ。ーーこれ、あれをここに!〟ーーと、御姫様は仰っておられまする』
女官型の自動人形がそそと動いて、睡蓮の花の形をした香炉を私に手渡した。
『〝この香が燃え尽きる明日の正午までに、望みの貢物をこれへ持て。頼みの綱の精霊獣を奪われし、力無き小娘よ。精々足掻いて、妾を愉しませるが良い〟ーーと、御姫様は仰っておられまする』
涼やかな哄笑が響き、私の身体は女官達によって、サロンから運び出されていく。暴れても叫んでも、彼女達の細腕はびくともしない。酒場で暴れた酔っぱらいよろしく、離宮の敷地の外へと放り出された私は、ぽつんと、その場に立ち尽くした。
「……どうしよう」
火と風の精霊獣、クトゥグァとハスターがいなければ、私には魔法が使えない。
ーーいや、たとえ使えたとしても、陛下に戦いを挑むわけにはいかない。どのみち、クトゥグァの言っていた通り、彼を信じてお願いするしかないだろう。
「やるしかないわ。確か、陛下の執務室は東の庭園の近くよね。何とかお会い出来ればいいんだけど……!」
ドレスローブをはためかせ、東の庭園を目指して駆けていく。しかし、数歩もいかないうちに立ち止まった。
数体の水魔精霊獣が、水の精霊達を追い回していたのだ。水の精霊は水性生物の姿を好み、空中を泳ぐように飛ぶことが出来る。身体は硝子質で透明であったり、鏡のように周囲の景色を反射したりするので目視しにくいのだが、水の高位精霊である水魔精霊獣は、追い詰めた水精に鏡を突きつけ、次々とその中に吸い込んでいく。
なるほど。水の精霊達がいなくなったのは、あの鏡のせいだったのだ。
「こらーっ! やめなさいっ!」
ーーと、威勢よく飛び込んでから、しまったと思った。
今はクトゥグァもハスターもいない。
魔術も魔法も使えない私が、水の高位精霊相手に戦えるわけがない。……いや、なら、戦わなければいいのだ。
「い、言っておくけど、私を攻撃して怪我をさせたりしたら、皇女様のせっかくの暇つぶしが台無しになるわよ! それでもいいの!?」
我ながら強引で滅茶苦茶な脅しだったが、意外と効果があったようで、水魔精霊獣達は互いに困り顔を見合わせて、サアッと北の離宮の方向へ去っていった。
「よかった……! とは言え、助けられたのは一体だけだったけど」
足元に、小さな海亀がひっくり返っている。甲羅はひび割れて灰がかり、力を吸い取られでもしたのか、手足が干からびてカラカラだった。
なんとか助けてあげたいけれど、月の離宮に帰っても水の精霊達はいないし、自慢の畑は砂の山だ。亀を拾い上げて、どうしたものかと悩み込んでいた私は、ふいに聞こえてきた大勢の足音に振り向いた。
夕闇に烟る回廊の向こうから、宮廷付きの従者達が列を成してやって来る。
黒衣を翻し、彼等を率いるのは、仮面の魔帝ディートリウス陛下だ。陛下が皇宮内で人間の従者を連れているのは珍しい。仰々しい雰囲気で近寄り難かったが、構わず駆け寄った。
「陛下、あの……!」
仮面のこともあるけれど、今はそのことよりも。
「ディートリウス陛下! 訳あって、今は魔法が使えないんです。お願いします、この水の精霊を助けて頂けないでしょうか?」
私の言葉に、陛下は足を止める。
思えば、火魔精霊獣に襲われて怪我をしたクトゥグァを助けてくれたのも陛下だった。
彼ならきっと助けてくれるに違いない。
ーーしかし、期待をすれどもいつまで経っても返事はなく、訝しげに顔を上げた。
「陛下……?」
その時眼にした、私を見下ろす視線の冷たさに、心臓が凍りついた。
苛立ちと、煩わしさの入り混じった、冷酷な視線。
この眼には見覚えがある。
ーー父が、私を見る時の眼だ。
ふ、と陛下の紅唇が歪み、嘲りを含んだ溜息が零れた。
『呆れたものだな。そなたは魔力が無いばかりか、誰かの手を借りねば何も出来ぬのか?』
「そ、れは……」
『私には、そなたを助ける義理などない。ーーそこを退け。私は、北の離宮におわすアルテミシア姫の元に行かねばならぬ。そなたに構っている時間はない』
「……!」
列をなす従者達が手にしているものは、沢山の豪奢な品々だ。きっと、皇女殿下への貢物なのだろう。
声が震えそうになるのを必死で堪え、頭を下げる。
「……失礼を、致しました。御渡りのお邪魔をしてしまって……申し訳ございませんでした」
陛下は無言で通り過ぎていく。
彼が行き過ぎた瞬間、亀を抱いたまま走り出した。
息が詰まって、胸が苦しい。
陛下に会えて嬉しいはずだったのに、すぐにでもこの場から消えてしまいたかった。
魔力がないから、魔術が使えないから。
精霊獣達がいないから、魔法が使えないから。
だから、他の誰かに頼ることしか出来ないのだと考えていなかった自分が、恥ずかしくて堪らなかった。
陛下はきっと、そんな私を見透かしておられたのだろう。
ーーだから、見限られてしまったのだ。
世にその御名を轟かす魔帝ディートリウス陛下と、絶世の美姫アルテミシア皇女殿下。
ともに、強大な魔力を有する優れた魔術師である御二方。
精霊王の選定を待つまでもない。
両国にとっても、陛下ご自身にとっても、これ以上素晴らしい縁談など他にはない。
美しい低音美声に紡がれた言葉に苛まれながら、私は、逃げるように月の離宮へと駆け戻った。




