35 黄衣の王
まさか、この封印を再び解かねばならない時が来ようとは。
私は大きく深呼吸して、心の奥底に封じておいた地獄の門を引っ張り出し、開け放った。
風の精霊獣に相応しい名前ーー例えば、ギリシア神話に伝わる四柱の四方風精。
または、アステカ神話の羽毛のある蛇、ケツァルコアトルの一側面である風神エエカトル。
あるいは、インド神話における風と雷の神ヴァーユ。
季節を運び、雨を運び、大地を育て。
船を動かし、風車を動かし、人間の生活を潤すーー風。
かと思えば、時に嵐や暴風となって、その全てを壊してしまう非情さを兼ね揃える力。
ひとところに留まらず、立ち止まることを好まない風の精霊達は、常に前に歩み進むものを好むという。商人、旅人、冒険者達の守神だ。
自らの身体を黄色い鸚鵡という風の小精霊に分散し、他人の心の中を暴露するというトリッキーさ。事態という事態を引っ掻き回すトラブルメーカー。
自由気ままで、気まぐれな風の精霊獣の名前は、もう決めていた。
「ーー汝、曠劫の時を眠りしもの。蒼古なる星の檻に囚われし虜囚。静謐なる湖底に棲みし旧支配者よ! 我ここに、黄金色の蜂蜜酒を捧げたまいて、大いなる力の復活と解放を希いたり! 名を手放したる愛子に、汝が御名を授けたまえ!!」
鸚鵡の群は風琴を滅茶苦茶に弾き鳴らすような声で嗤いながら、私の周りを取り巻いて飛ぶ。渦巻きながらひと繋がりになり、黄金色をした衣を織り上げていく。
「イア! イア! ハスター! ハスター! 名状しがたき星間宇宙の帝王よ! 数多の姿を持ちたる自由なるものよ! いざ、煌ゆき黄衣を纏いて、我がもとへ訪く来れ! クフアヤク・ブルグトム・ブグトラグルン・ブルグトム! アイ! アイ! ーー〝ハスター〟!!」
クトゥルフ神話において、ハスターは「風」の神性の首領である。
〝名状し難きもの〟、〝名づけざらりしもの〟の異名の通り、ハスターがどのような姿をしているかは不明確で、風のように目に見えない力であるとか、蚯蚓のような触手に覆われた蜥蜴だとか、あるいは異星の湖に棲む、蛸に似た巨大な生物などと言われている。
本体の姿も定まらないながら、人間の前には全く別の姿として、様々な化身となり現れる。中でも最も好むのが、身体をすっぽりと覆う黄色い導衣を纏った姿ーー〝黄衣の王〟と称される姿だ。
天井高く舞い上がった鸚鵡の群は、ひと織りの美しい黄衣と化していた。同色の錦糸で呪術的な紋様がびっしりと縫い込まれた、魔術師の長導衣を思わせる装束である。目深に被ったフードの中には暗闇しか覗いていないが、それは、中に何かが潜んでいると嫌でも分かってしまう、強烈な恐怖と存在感が凝縮した闇だった。
黄衣を纏った闇は風魔精霊獣の目前にフワリと降り立ち、その片腕を彼女に向けた。
そしてーーズルン、と袖口から這い出た粘液まみれの無数の触手を、小柄な身体に絡みつけ、締め上げたのだ。
『ーーヒギィッ!? イヤアアアアアーーッ!! 触らないでッ! 触らないでええええっ!! イヤアアアアアアアアアアアアアアーーッ!!』
黄玉石の瞳が白目をむく。
触手に絡まれた彼女の身体がガクガクと痙攣し始め、急に糸が切れたように、ガクッ、と項垂れて動かなくなった。
どうやら、気を失ってしまったらしい。
ーーと、思いたい。
「レジーナ……!!」
流石にこれはヤバい、と駆け寄ろうとした私を、クトゥグァが引き留めた。
『まだだ、姫さん! まだ終わってない』
「えっ?」
途端、気を失った彼女の身体から、白い煙のようなものが大量に吹き出した。レジーナに宿っていた風魔精霊獣だ。
弱っているのか、苦し気に身を捩っている。ふいに、その全身が風船のように膨らんで、四肢が肥大化し、やがては鱗に覆われて、骨がなくなったようにグニャグャになり……最後は、パンっと破裂した。
「さ……流石、クトゥルフ神話の旧支配者。クトゥグァの時は火柱だったから、魔術師には見慣れたものだったかもしれないけど、現実なハスターの造形は、この世界の人達にも受け入れがたい冒涜的な存在なのね……気をつけないと」
およそ健全な眼にはつぶさに把握出来ない一連の光景を、黄衣の王、ハスターはフードの奥の闇からじっと見つめていた。しかし、ふと、背後にいる私の存在を思い出したかのように、振り向こうとした。
「ままま待って、待ってーーッ!! 振り向く前に人間の姿になってお願い! でないと、SAN値が、SAN値が……っ!!」
せっかく風魔精霊獣を倒したのだ。こんなことで、大切な心のHPを吹っ飛ばされるわけにはいかない。
ハスターは動きを止め、ちょっと考え込むようにうつむいた後、ゆっくりとこちらを向いた。
フードの中の闇は変わらないが、袖口から覗く腕は人間の男性のもので、レジーナの身体を抱いている。彼女の金の巻髪を飾る黄薔薇のコサージュが、風に舞うようにひらひらと散り、いつしか消えていった。
豪華なドレスに包まれた胸が、微かに上下しているのを確認し、ほっと息をつく。
「気を失っているだけみたいですね。無事でよかった……」
『そうだな。ーーまあ、この状態を無事と言っていいのかは微妙だが』
「えっ?」
苦笑混じりの陛下の言葉に、どうしてですか、と振り向いた私は、そのままの姿勢で凍りついた。
舞踏広間に集まった来賓達が、顕現したハスターの姿を目の当たりにして、一人残らず気を失っていたのだ。
血の気の引く音が、大音量で鳴り響くようだった。
「あーーっ!?」




