32 二人の円舞曲
「陛下、どうして……?」
視線を少しずらせば、来賓達の挨拶に応じている彼がいる。
だが、こうして眼の前に立っているのも、間違いなく陛下だ。
不思議なことに、私の周りにいる貴族達は、誰一人として反応を示そうとしない。まるで、ここにおられる陛下の姿が見えていないかのようである。
「もしかして、幻惑系の魔術ですか?」
『いや。あそこにいる私は、護衛の精霊による影武者だ。ここにいる私が本物だが、皆に気づかれないよう、魔力の流れを操作して認知を変え、意識を逸らしている』
「さらっと仰いますけど、高等魔術ですよね!? す、すごいですね、陛下は……魔法も使えるし、魔術の腕も一流なんですから!」
興奮を隠さずに伝えると、陛下は少しきょとんとした様子で答えた。
『一応、魔法帝国と呼ばれるこの国を治めている身だからな』
そうでした……!
なんて間の抜けたことを言ってしまったんだ。
数多の精霊達を統べる王の寵愛を一身に受け、世界にその名を轟かせる大魔術師、魔帝ディートリウス・アウレリアヌス・バルハムートに向かって、「魔術が上手ですね」なんて、失礼にも程がある。
後悔の念と羞恥に悶える私の前に、すっと白い掌が差し伸べられた。
仮面の向こうに覗く眼差しは、とても柔らかい。
『ディアナ嬢。私と、踊って頂けないだろうか?』
「……よ、喜んで」
重ねた掌を、陛下は優しく握りしめてくれる。
包み込まれるように腕の中へと導かれ、腰に置かれる手を受け入れながら、私の心臓は爆発しそうなほどに高鳴っていた。
ダンスとは、こんなにも身体を密着させるものだっただろうか。
こんなにも顔を近づけるものだっただろうか。
こんなのはもう、抱きしめられているのと変わらないのではないか。
恥ずかしさと緊張で身体が固まって、上手く脚を運べずに焦っていたら、視線の先にある白い喉がくつくつと震えた。
『そんなに緊張するな。私と共にいれば、他の者達に気づかれることはない。気楽に踊れば良い』
「そ、それが……お恥ずかしながら、私、ちゃんとした場で踊ったことがないんです。父が、騒がしい場所が嫌いだったもので、こんな風に夜会に参加したのも、今夜が初めてで」
『そうか。それは光栄だな』
「え……、わっ!?」
ぐっと腰を引き寄せられ、驚きに息を飲む。
ゆったりとしたリードで、私の身体は瞬く間に、舞踏広間の中央へと運ばれていく。
陛下の言葉の通り、周りで踊っている来賓達は、私達の姿に気づかない。かといって、ぶつかったり、足を踏まれることもないので、姿が消えているというよりも、本人として認知されていないのだという意味が良く分かった。
美しい音楽と緩やかな流れに身を任せるうちに、緊張の糸がゆるゆると解けていく。
しなやかな腕に身体を預けていると、何か、とても温かなものが、私の中に流れ込んでくるのを感じた。
固まった心をふわりと柔らかくするその感覚は、夢の中で会った陛下を思い出させる。彼の腕に包まれている時、私は幼い子供の頃に戻ったように、素直でいられたのだ。
身体に覚え込ませた動きも徐々に思い出し、気がつけば、私は陛下と一緒に円舞曲を踊っていた。綺麗なターンとともに、銀紗のドレスが煌めきながらふわりと広がる。
『ーー落ち着いたか?』
「はい、ありがとうございます。陛下はダンスが……」
お上手ですねと言いかけて、いやいや失礼極まりないと飲み込んだ。これでは先ほどの二の舞だ。彼はこの国の皇帝なのだ。魔法や魔術と同じく、ダンスなんて踊れて当たり前、上手くて当たり前なのに。
駄目だ……何を言っても失礼にあたってしまう気がする。
会話の糸口が見つからず困り果てていたら、柔らかな声が降ってきた。
『気にせずに話せば良い。そなたの言葉は率直で好ましい』
「で、でもまた、失礼なことを言ってしまうかもしれません……!」
『ほう。私のことを大嫌いだと言い放ったそなたが、今更何を恐れる?』
「そ……っ!? それは陛下が、私の心を覗いたりするからじゃないですか!」
声を上げてからしまったと思ったが、返ってきたのは、クスクスと笑う楽しげな声だ。
黒衣の胸に寄り添ったまま顔を上げると、仮面に覆われた彼の素顔を、ほんの少しだけ覗くことが出来た。
「……あの、夜会に参加して下さったのは、私のためって……どうして」
『前にも言ったが、困っているそなたはとても可愛らしい。巣から落ちた雛鳥のように、つい手を差し伸べたくなってしまう』
「か……っ、可愛いくなんかないですよ……また、新手の冗談ですか? 陛下の冗談は、冗談に聞こえないんですから、やめて下さーー」
『冗談などではない』
曲に乗せて動かしていた足が止まる。
いつの間にか、整った口元からは笑みが消えていた。腰に添えられた掌に、身体を引き寄せられる。
『素直に恥ずかしがる姿も、率直な言葉も、ころころとよく変わる表情も、愛らしいと思う。そなたは、いつでも一生懸命だ。自分のためではなく、大切に想うもののために動いている。ーーその中に、私が入っているのであれば、とても嬉しい』
身動げば、すぐに逃れられる優しさで。
躊躇いのない、真っ直ぐな想いを突きつけられる。
宵闇色の眼差しに宿る挑むような光を、私はどこか不思議な思いで見つめていた。
夢の中でも、彼は同じ眼をしていたように思う。
皇宮に招かれ、父に見放されたあの日。
月の離宮で、初めて眠った夜に見た夢だった。
思えば、その時ではなかったか。
ヴェールの奥で、真っ赤になっていたのが可愛らしいと言われたのは。
ーーなら、あれは。
「……陛下、私ーー」
視線同士がたぐり寄せ合うかのように、距離が近づく。彼が長身を屈めて、吐息同士が交じり合った、その時。
会場全体を揺るがすような、けたたましい鳴き声が響き渡った。




