29 小さな歪み
ふわふわした足取りで月の離宮に帰り着くと、エプロン姿のルシウスがキッチンから顔を出した。煌びやかな金の薔薇が装飾された招待状を、ひらひらと振っている。
『お帰り、ディアナ。黄薔薇の寵妃からパーティーの招待状が届いてるよー……って、どうしたの!? 顔が真っ赤じゃないか!』
「…………ただいま……ルシウス……大丈夫……なんでもないの……」
ふらつく頭で答える私の肩で、ギャアギャアと鸚鵡が喚いた。
『ドドドドウシヨウ! ドウシヨウ!? ディートリウス陛下ニ、パーティーニ誘ワレチャッタアアアーーッ!!』
『えっ、陛下に誘われたのかい? あの子はそういう集まりには滅多に出ないのに……すごいね、よかったじゃないか』
「……良くな」
『ヨクナイワヨ! ダッテ、私、パーティーナンテ、ソレイユ達ノ誕生日パーティークライシカ、参加シタコトナイノニ……!』
『そうなんだ。大丈夫だよ、陛下がきちんとエスコートしてくれるからね』
『無理無理ッ! 大体、男ノ人ニエスコートナンテ、サレタコトナイモノ!』
「ルシウス! 鸚鵡と話すのはやめてっ! 貴方も、人の本音をペラペラ暴露しないの!」
捕まえようとすると、途端にパタパタと飛んでいってしまう。風の小精霊だけあってすばしっこいったらない。
鸚鵡はルシウスの人差し指に降り立つと、口を噤んで大人しくなった。羽根先を嘴で食み、手入れをする。流石に、高位精霊の心の中までは話せないらしい。
『ごめん、ごめん。……ふぅん。とまった者の心の声を話す鸚鵡か。これはまた、面白い精霊を連れてきたね』
「西の庭園からついてきたの。黄色い魔晶石の中に閉じ込められていたのを、クトゥグァが助けてくれたんだけど。こんなことなら、助けなきゃよかったのかもーーっ痛!」
コツン、と誰かに頭を叩かれ顔を向けると、いつの間にか隣に立っていたクトゥグァが、仏頂面で見下ろしていた。
『酷ぇこと言うな。ーーおい、ルシウス。俺が昼寝してる間に、人間どもはまた小賢しい魔術を生み出しやがったのか? 精霊を魔晶石に閉じ込める技なんざ、魔術紋以上に性質が悪ぃぜ』
『精霊を魔晶石に? いや……僕の知る限り、そういった魔術はないな。精霊石の類じゃないのか』
精霊石、というのは、魔力の濃い鉱脈に生じる精霊の宿った鉱石の総称だ。先日、陛下から頂いた金剛石精もその一種で、宿る精霊によって、身につけた際の加護が異なる。
対して、魔力のみを封じたものを魔晶石と呼ぶ。天然の物もあるが人工的に作ることも可能であり、天然物に限られる精霊石と比べると、ずっと安価だ。
ルシウスの問いに、クトゥグァは渋い顔で首を振った。
『違うな。結晶状の捕縛を解いて、出てきたのがあの風の小精霊だ。宿ってたんじゃなく、無理矢理中に閉じ込められていたようだったぜ』
『ふぅん……風の精霊を捕らえる、か。そんな事が出来るとしたら、それは高位の精霊の仕業だろうね。風は自由なものだ。どんなに強大な魔力を差し出されようが、自ら檻に囚われるようなことはない。人の技である魔術に為し得ることではないよ』
「高位の精霊……? クトゥグァのような……もしかして、風の精霊獣の仕業かもしれないってこと?」
『あー、あいつならあり得るな』
「あり得るの!? な、仲間同士なのに捕まえるの? なんで!?」
『前にも言ったろ、あいつはとにかく気まぐれなんだ。理屈や常識が大嫌いで、時々、わざと逆らったりするからな。絶対にあり得ないってことほど、やりたくなったりするんだよ。ーー面白い奴だろ?』
「う……うん……?」
聞けば聞くほど、やっかいそうな精霊だ。
クトゥグァの口ぶりからすると、彼は風の精霊獣のことを気に入っているようだけど……。
彼以上に、癖の強い精霊だったらどうしよう。
「そんな気儘そうな精霊に、力を貸してもらえるのかな。魔力のない私が頼んでも、無視されちゃうだけなんじゃないの?」
『ディアナ。魔力がなくったって、魔法は使える。忘れたのかい、君は魔法使いだ。君の言葉は、精霊達の力になる』
「ルシウス……そっか、そうだったよね。分かった、やれるだけやってみる!」
『その意気、その意気。さあ、お腹が空いてちゃ、頑張れるものも頑張れないからね。お昼ご飯をーー』
ルシウスが、キッチンの壁にあるオーブンから焼き立てのキッシュを取り出した時、悲鳴が聞こえた。
良く通るそのソプラノには、聞き覚えがある。
「今の声……ソレイユだ!」
離宮の外へと駆け出すと、門の前にいるソレイユの姿を見つけた。純白のドレスローブに、大輪のピンク色の薔薇のコサージュをつけた彼女の姿は、学院で過ごしていた頃を思い出す。
地面に尻餅をついた彼女の前には、金色の巨大な蚯蚓が大蛇のように蜷局を巻いていた。畑の手入れを担当してくれている地属性の上級精霊だ。
大きな翠緑の瞳を見開いて、ソレイユは眼の前の蚯蚓を凝視している。
「ソレイユ! 久しぶりね、元気にしてた?」
「ディアナ……! 気をつけて、今、ここにーー」
大きな、と言いかけて、彼女は慌てて口を噤んだ。おそらく……いや、間違いなく、ソレイユにはここにいる精霊の姿が見えているのだ。
「大きな蚯蚓だよね! すごい、ソレイユにも精霊の姿が見えるんだ」
「精霊の……? え、ええ……皇宮に来てから、急に見えるようになったの」
尻餅をついた彼女に手を貸して、立ち上がらせる。金色の蚯蚓は、それを見届けてからズルズルと畑の方へと這っていった。
「あれって……精霊なの? 魔族ではなくて?」
「うん。この離宮で、畑の世話をしてくれている地属性の精霊なの。他にも、色んな姿形の精霊達がいるから、紹介するね。守護精霊のルシウスが昼ごはんを作ってくれたところだから、ソレイユも一緒にーー」
「わ、私はいいの! お腹は空いていないから、遠慮しておくわ……それより、ディアナに話したいことがあって」
「私に?」
ソレイユはこくん、とうなずいたものの、そのまま口籠ってしまった。
ロベルトが、何か悩んでいるようだと心配していたけれど、確かに、言いたいことをはっきり言わないのは、彼女らしくない。
「ソレイユ、どうしたの……?」
「ーーディアナは、ディートリウス陛下のこと、どう思ってるの」
「陛下のこと? そうね……」
返答を考えながら、ソレイユにしてはずいぶんと曖昧な質問をするなと意外がった。
普段なら、自分がどう思っているかを明確に述べた上で、意見を求めて来るはずだ。
「最初にお会いした時は、意地悪だし、偉そうで苦手だなって思ったんだけど。話してみたら、そうでもないのかなって思えてきたわ」
「陛下と、お話を?」
「うん。東の庭園で、お茶を飲みながらゆっくり過ごすのが好きみたい。たまに冗談を言ってくれたりもするし、あの仮面さえなければ、意外と普通の人なのかもね?」
「普通……? あんな恐ろしい魔力を持っている人が、普通なわけないじゃない!」
「ソ、ソレイユ?」
「ディアナはおかしいわよ! どうして陛下のお傍にいて平気でいられるの……? あの方が発せられる魔力の影響で、心が乱されて仕方がない。抑え込もうと思っても、身体の奥底から恐怖が引き出される。恐ろしくて、私には近づくことだって出来ないのに……!」
「ど、どうしてって……だから、私には魔力がないからだと思うんだけど」
「違うわよッ!!」
白刃を抜き放つような言葉とともに、ソレイユは鋭い眼差しで私を射抜いた。
彼女は幼い頃からの友達だ。言い争いや、喧嘩をしたことだって沢山ある。それでも、こんな眼を向けられたことは、今までに一度だってなかった。
ーー敵意の込められた視線だった。
「魔力がない、魔力がないって、ディアナはいつもそればっかり……! もし、魔力がないことが原因なら、どうして、私は、ーーっ!」
「ソレイユ……」
ソレイユは頭がいい。理性的で、理知的で。彼女の考案する緻密に計算され尽くした術式には、学院の教授でさえ舌を巻くほどなのだ。
しかし、それ故に、物事を全て理解することで平静を保とうとする癖がある。
だからこそ、今回のことは、彼女の精神に自覚している以上のストレスを与えているのだろう。
ある日突然、精霊王という目に見えない存在によって、皇帝陛下のお妃候補に選ばれてしまうという事態。それはきっと、ソレイユの理解の範疇を超えているのだ。
今までの日常から切り離され、放り込まれた皇宮での生活も、いきなり見えるようになってしまった、精霊達の存在もーー全て、それまで完璧に築き上げてきた彼女の世界を、壊してしまうものだから。
「ソレイユ、落ち着いて……! 悩んでいることがあるんだよね? 落ち着いて話して。必ず力になるから……!」
差し伸べた手は、しかし、彼女に届くことはなかった。
ソレイユはきつく瞼を閉じて、私から遠ざかる。
ごめんなさい、と唇から漏れる小さな声。
「……ごめんなさい、取り乱したりして。慣れないことが続いたものだから、少し、混乱したの。帰って、頭を冷やすわ」
「ソレイユ……」
去り際に微笑んだ彼女の表情は、それ以上の詮索を拒んでいた。
それはまるで、心に近づこうとする者を拒絶する、堅固な壁のようだった。




