25 霧の日
父の横顔を眺めるのが好きだった。
机に座って書き物をする父の顔は、魔晶石の洋燈の仄かな明かりに照らされて、夜闇の中に浮かび上がる。
冴えた蒼い瞳の色は、窓から差す月の光を受けて濃さを増していく。
夜闇の中には色んなものが潜んでいて、姿を消したり、現したり。ときには耳元で囁いたり、髪に触れたりと、悪戯をする。
宵闇に輝く月のように、静かに光る父の眼は、ひそやかに息づくそれらのものを、捉えることが出来ているようだった。
この世のものでない奇妙なものたち。
ろくに言葉も通じないそれらが、幼い私は苦手だった。
でも、父の傍に行けば、それらは途端に大人しくなり、よく慣れた猫のように、足元や膝の上に蹲る。
だから、怖いものを見たり、眠れない夜は、いつも寝台を抜け出して、書斎にいる父のもとへと急いだ。
私がドアを開けることを、父はいつも心得ている。
部屋を覗き込む気配に気がつくと、書き物をする手を止めて、優しく微笑みかけてくれるのだった。
『ーー眠れないのか、可愛い月の娘。こちらへおいで。お前の好きな、薔薇の香りのする花茶を淹れてやろう』
❇︎❇︎❇︎
「ーーッ」
寝台から飛び起きた瞬間、それまで見ていた光景が、跡形もなく霧散した。
ーー奇妙な夢だった。
「私、どうしてあんな夢……夜中にお茶を淹れてくれるだなんて、お父様はそんなこと……してくれたことがないのに」
ただの夢だと割り切ってしまうには、あまりにも鮮明な感覚だった……しかし、そんな考えを即座に否定する。
それでも、あれが自分の記憶であるはずはない。
高台に建つ父の屋敷に、血の通った人間は私一人しかいなかった。幼い私の身の回りの世話をしてくれていたのは、父の命令で動く使用人達だ。表情に乏しく、必要以外の言葉を持たないーー魔力を込めた魔晶石を動力源に動く自動人形達だった。
私の世話の全てを彼等に任せ、父自身が屋敷に帰って来ることは滅多にない。
たまに帰って来ることがあっても、彼は書斎にこもりきりで、私と顔を合わせることはなかった。
あの重い書斎の扉は、拒絶の意思そのものだ。
幼い頃の私にはーーいや、今の私にだって、それを開く勇気はない。
触れれば傷つけられると分かっていて、剥き出しの刃に手を伸ばすことは、一度たりとも出来なかったはずだ。
「……この前、あんなことを言われたからかな」
祝福名を持たない私は、望まれて生まれた子供ではないと。
「……」
重たい気持ちを抱えたまま、寝台を起き出した。
今日はいつもよりも、漂う空気がひんやりとしている。
のそのそと身支度をしているうちに、中庭の方から、私を呼ぶルシウスの声が響いた。
『ディアナ、そろそろ起きて! 朝ごはんを食べにおいで』
はーいと返事をした私は、フライパンを手に、フリル付きのエプロン姿の彼を想像しておかしくなった。
寵妃として、この皇宮に招かれて一週間。
まるで本当の母親のように甲斐甲斐しく世話を焼いてくれるルシウスも、すっかり日常の一部になっている。
ドレスローブに着替えて中庭に出ると、思いもよらない光景に迎えられた。
「すごい霧……ミルクみたい」
中庭どころか、月の離宮全体が雲に呑まれてしまったかのようだ。すぐ近くに立っているはずの、ルシウスの姿さえ霞んでいる。
『昨日の夜から、出始めたみたいだ。おかしいね、今はそんな季節じゃないはずなんだけど』
今は、年の始めの初花月から数えて五番目の月にあたる。
風精月、または薔薇月と呼ばれるこの時期は、広い空を海からの大きな季節風が吹き渡る、爽やかな季節だ。これだけ濃い霧が立ち込めるのは、珍しい。
霧の中で食べる朝食は、なんとも幻想的だった。
精霊果でこしらえた砂糖煮がたっぷりかかったパンケーキを楽しんでいたら、霧の向こうからクトゥグァが現れた。あくびまじりに、寝癖の残る金の髪をかき上げている。
『鬱陶しい霧だな。皇宮中の水精が騒ぎ立ててやがる。この間の名付けの影響か?』
『かもしれないね。君のような高位の精霊は、他の同属性の精霊達に大きな影響を与えるから。新たな名前を得たことで、皇宮内の火の精霊達の力が増したんだ。それに対抗しようと、水属性の精霊達が無理矢理に力を高めているんだろう』
火と水は、互いに均衡を保とうとする性質があるからね、とルシウス。
要するに、仲が悪いのだ。
「ーーつまり、精霊達の勢力抗争が起きてるってこと? じゃあ、この霧はクトゥグァが急に強くなったせいなんだ」
『おいおい、俺だけのせいにすんなよ。俺だって、まさか異星の邪神なんて凄ぇもんの御名を授るとは思ってなかったんだからな。九割九分は、姫さんのせいだぞ』
「それって、ほとんど私のせいだって言ってるようなものじゃない。ーーそうだ。離宮にいる水の精霊達に頼んだら、この霧をどうにかしてくれないかな?」
水辺を好む彼等は、中庭の溜池に集まっていることが多い。前に見た、硝子のように透明な河馬がもっとも大きな精霊で、碧い宝石を散りばめた鳥達や、鏡のような鱗を持つアロアナが、その周りに戯れている。
水の精霊達が騒いでいる、とクトゥグァは言うが、彼等に限ってはのんびりしたものだ。ただ、いつもよりも群れている精霊達の数が多いような気がした。
『上級精霊達の力では、難しいかもしれないね。もっとも効果があるのは、他の精霊獣の力を取り戻すことだ。クトゥグァと同じように、彼等と信頼関係を築いて、名前を与えることだよ』
「他の精霊獣達の力を……? 彼等も、この皇宮内に眠っているの?」
首を傾げる私に、クトゥグァがうなずいた。
『ああ。俺と同じで、前寵妃が精霊界に召される際、愛名をお返ししたからな。それぞれ好きな場所で、眠りについてるはずだ』
「探してみようかな。ずっと離宮にいるのも、退屈だし」
『お昼ごはんまでには戻って来るんだよ。あまり、危ないことはしないようにね。クトゥグァ、彼女の護衛を頼む』
『ああ? ……ったく、仕方ねぇな』
紅玉色のような精霊果のコンポートをふんだんに盛りつけたパンケーキをちらつかせるルシウスに、クトゥグァはやれやれと苦笑した。




