23 生ける焔炎
ーー開け、地獄の門。
十六年間の時空を経て、この身に封じられし業苦を今こそ解放する時……!
足元に落ちていたデッキブラシを拾い上げ、背筋を伸ばして、ロザリアちゃんの前に立つ。
杖に見立てたそれを水平に構えた時ーー足元から、漆黒の風が巻き起こった。
……気がした!
「ーー常闇よりも暗き底。死よりも昏き静寂と、悠久なる深淵の宇宙に眠りし、爆炎の邪神よ! 虚ろなる魚の吼に囚われし旧支配者よ! 愛名を失いし迷い子に、汝が御名を授けたまえ……!!」
「は……あ!?」
薔薇色の双眸が見開かれ、彼女は火魔精霊獣を使役する手を止める。
「じ、自由形態詠唱だと……? 馬鹿馬鹿しい! そんなもの、旧時代に廃れた術法です。魔術での戦いに重要なのは行使速度の速さだ。戦いでは、刹那の遅れが命取りになる。無意味な言葉の羅列など、している暇はないのですよ! ーー退けよ、火魔精……っ!?」
ーーしかし、ロザリアちゃんは動けなかった。
彼女には見えないのだろうか。
私が発する無意味な言葉の羅列ーーその名を授かる神へと贈る言葉。
名を冠する精霊獣へと贈る言葉。
彼等の存在を讃え、敬い、請い願う言葉。
その一言一句を邪魔させるまいと、まわりにいる精霊達が寄ってたかって、彼女の手足や火魔精霊獣の身体に纏わりついているのが。
心のこもった言葉は、力になるのだ。
猫の身体は、私の身長をも超えるほどに大きくなっていた。毛足の長い毛並みはメラメラと燃え盛り、その姿は、まさに焔炎そのもの。
デッキブラシを高々と掲げ、私は言い放つ。
「爆ぜよ烈火! 燃え盛れ豪炎!! 生ける焔炎、至高なるものよ!! 今こそ汝、覚醒の時! 我が血に滾る未来永劫の力もて、這い寄る混沌をも闇に屠りたまえ……!! フングルイ・ムグルウナフ・フォーマルハウト! ウガア・グアア・ナフル・タグン・イア! ーー〝クトゥグァ〟!!」
瞬間、天空へと金色の火柱が吹き上がった。
クトゥグァとは、私の敬愛する至高なるSFーーもとい、コズミックホラー作家が創り出したクトゥルフ神話という創作物に登場する邪神である。
生ける焔炎とも呼ばれるその姿は、形状と色彩を変転する巨大な火の玉。または、超高熱のプラズマ塊。あるいは、小さな光の球の集合体。現れる際には、眷族である火の精霊を無数に従える。
人間など、戦うどころかその姿を見ただけで精神が崩壊してしまうというーー私の知る限り、最強無比の火の神性である。
上手くいくかどうかは、いちかばちかだった。
結果は、とても上手くいったらしい。
クトゥグァの名を冠した猫がその姿を焔炎に変えて顕現しただけで、火魔精霊獣は焼滅してしまったのだから。
「ばっ!? 馬鹿なあああああーーっ!? わ、私の火魔精霊獣は、火属性で最強を誇る精霊獣よりその名を譲り受けた守護精霊なのに……それなのに、何故……!?」
「上には上がいるということよ。ーー観念しなさい! 可愛い精霊達を餌にしてまで、自分の魔力を高めようだなんて、お姉様は絶対に許しませんからね!」
「ーーくっ……! 魔力も無い寵妃が私を下すなど……っ、認めない……まだ、認めるわけには参りません!!」
細剣を握りしめ、魔力を高め、ロザリアちゃんが前に駆け出す。
ーーしかし、私は微動だにしなかった。踏み出した彼女の足元を、岩のように大きなダンゴムシの精霊が、よちよちと歩いていたからだ。
「なあ……っ!?」
案の定、ダンゴムシにつまづいて、ロザリアちゃんが見事にすっ転ぶ。転んでも、一流の剣士はその手から剣を離すことはけっしてないので、私はデッキブラシをゴルフクラブのように振り抜いて、彼女の手から剣を叩き飛ばした。
思いっきり、遠くへ。
「……あ、あり得ない……! 火魔精霊獣が敗れただけでなく、こ、この私の剣が……デッキブラシなどに…………」
ガク……ッ、と脱力した彼女は、もう流石に起き上がる気力も魔力もないようだ。無詠唱魔術をあれだけ行使したのだから、無理もない。
「デッキブラシを甘く見ないことね。跨れば、空だって飛べるんだから!」
『いや、無理だろ』
轟々と燃え盛っていた火柱が霧散して、中から現れた人影に、私の思考は停止した。
褐色の肌に、金の短髪と猫眼を持つ青年ーー美しい筋肉の浮き出た身体を、呪術的な紋様が金細工によって描かれた深紅の魔導衣に包んでいる。身体の線に添うようなデザインもさることながら、胸元の露出が目に眩し過ぎる。
どうして精霊というのはこぞって美形になりたがるのか。
猫はどこへ行ったのだ。
あの、ぽっちゃりとした可愛らしい体型の猫は!
『〝クトゥグァ〟か……いい名前だ、気に入ったぜ。ただ、あの姿じゃあ動きにくいから、普段はこの姿でいさせてもらう』
「そ、そそれは勿論、構わないけど、心の準備が……あっ!?」
倒れたロザリアちゃんを助け起こそうとして、はっとする。
彼女が髪に挿した深紅の薔薇のコサージュが、ハラハラと散っていく。
「花が……! ど、どうしよう……!?」
『どうにもならんさ。精霊王が、そう決めたんだ』
「そんな……!」
「ーー良いのです、お姉様」
薄っすらと瞼が開き、薔薇色の瞳が私を映した。止めどなく散る花弁の一枚を、彼女の指先が拾い上げる。花弁は音もなく、紅の炎となって消えていく。
「私は、〝精霊王の寵妃〟として、誰よりも優れた力を手にすることを望みました。しかし、精霊達を守護精霊の餌として与えれば与えるほど、増していく力に溺れてしまった。魔力を得るほどに、新たな魔力を求めて飢えていく自分を止められなかったのです。欲望を自制できない者に、〝精霊王の寵妃〟など、務まるはずがない。……酷いことをしてしまって、ごめんなさい。ーーディアナお姉様」
「ロザリアちゃん……」
その後、私は皇宮付きの女官達を呼びに行き、魔力と体力を消耗した彼女を賓客室へと運んでもらった。
そして彼女達に、メイドの格好をしたことを大いに驚かれ、煤だらけになっていることを指摘され、とっ捕まって無理矢理お風呂に入れられて、ピカピカに磨き倒されてしまった。
そのまま賓客室へ引きずられかけたのを何とか逃げ出して、月の離宮への帰り道を急ぐ。
いつの間にか、空は夕刻の茜を過ぎて、澄んだ菫色に染まっていた。
少し欠けた丸みのある銀の月が、皇宮の尖塔にひっかかっている。
「ロザリアちゃんのこと、これで良かったのかな……」
『赤薔薇の寵妃は、精霊騎士になりたかったんだろ? なら、寵妃にならなくて良かったんじゃねぇのか』
「……そっか。そうだね、ずっと小さい頃からの、夢だったから」
叶えたい夢を持ち続け、その夢を叶える力を持っている彼女が、羨ましい。
そう呟いたら、隣を歩いていたクトゥグァが、つと足を止めて、金色の眼で私を見つめた。
『姫さんだって、叶っただろう』
「え……?」
『〝魔法〟を使えるようになりたかったんだろう? ちゃんと使えたじゃねぇか』
ゆらり、と微笑うように息を吐いて、彼はそんなことを言う。




