22 火の精霊獣
緋色の髪を振り乱し、その怒りは烈火の如く。
庭園に敷かれた石畳を穿勢いで駆けつけてきたのは、深紅の騎士服姿のロザリアちゃんだ。
傍には、火魔精霊獣を従えている。浅黒い身体に深紅の焔炎を纏う巨躯からは、神々しささえ感じるほどだ。昨日見た時よりも、さらに大きさを増しているように見えるのは、気のせいではあるまい。
……どうしよう。
こんなに頑張って魔術紋を消しているのに、全く弱体化出来ている気がしない。一体、どれだけの精霊達を餌にしたのだろうか。
きちんと対策をした手前、自信はあったのに、こんなのと戦って本当に勝てるのかと不安になる。
と、とにかく、魔術紋を消していたのが私だとバレるわけにはいかない。デッキブラシで石畳を擦る手を止め、ほっかむりを深く被り直す。
「ち、寵妃様に置かれましては、ご機嫌麗しくーー」
「ーーっ、その声はディアナお姉様? 下手な芝居はおやめ下さい!」
バッ、と、あっという間にほっかむりを奪われてしまい、「わあっ!?」と悲鳴を上げる。
その間、わずか一秒足らずの早技である。
「どどどどうして分かったの!? わざわざこんな、変装までしてきたのに!」
「ディアナお姉様……」
黒い革手袋を嵌めた手でこめかみを押さえ、彼女は心底、頭の痛そうな顔をする。
そして、キッと薔薇色の瞳を上げ、
「ーー私は、この帝国の魔術犯罪を取り締まる、精霊騎士団への入団を志願しているのです。こんな粗末な変装一つ、見抜けないでどうしますか。舐めないで頂きたい!」
「精霊騎士団……? ロザリアちゃんは精霊騎士団に入りたいの? でも、寵妃に選ばれるために、魔力を集めてるんでしょう?」
「ーーっ、そのことは、貴女には関係ない!」
「うわっ!?」
言葉とともに、ロザリアちゃんは腰に携えた細剣を抜き放った。間合いには入っていなかったから、いきなり切り裂かれることはなかったけれど、放たれた怒気は熱風を伴う炎となって、私の身体を吹き飛ばした。
デッキブラシが手を離れ、カランカラン、と地面を打つ。
身を起こし、熱を帯びた頬を拭うと、真っ黒に煤けていた。
無詠唱魔術だ。
主に、魔法剣に代表される戦闘特化型の魔術で、濃縮させた魔力を一気に解き放つことで、術文を唱えずに瞬発的に攻撃系の魔術を行使することが出来る。
要は、魔力の量でもって術式を無視し、無理矢理に魔術を行使する力技だ。
人並外れた強い魔力を持つものでなければ、扱える技ではない。
どうやら、やっかいなのは火魔精霊獣だけではなさそうだ。
「〝精霊王の寵妃〟は、この帝国に棲まう数多の精霊達を総べ、傅かせる存在です! それには、より相応しき者が選ばれるべきだ。私の夢など、取るに足らない些末なこと! その座に就くのは力に優れた私が最も相応しいと、敬愛する父上も仰って下さっている。他の寵妃達の力が私に劣るのであれば、私がその地位に着かねばなりません……!!」
「そ、そんな……! 無理に夢を諦めてまでーー、ひゃあっ!?」
黙れと言わんばかりに、火魔精霊獣が雄叫びを上げた。空気を、地面を、身体の芯までも震わせる轟音に、ぎゅっと胸の奥を掴まれるような苦しさを覚える。
恐ろしいはずなのに、どうして。
「言ったはずだ。貴女には関係ないと! それよりも、自分の行いが恥ずかしいとは思わないのですか? 自分が寵妃になるために、私の邪魔をしていたのでしょう! そんな格好をしてコソコソと魔術紋を消しに来るだなんて、卑怯極まりない。見損ないました!!」
「ち、違うわよ! ロザリアちゃんの火魔精霊獣に襲われた精霊達が、私の暮らす月の離宮に逃げ込んで来たの! 怪我をしてる子もたくさんいる。だから、私はみんなを助けたくてーー」
「ほう? それは良いことを聞きました。ここにいる精霊は、方々狩り尽くしたところです。ーー月の離宮、という場所に、精霊達は集まっているのですね?」
「ーーへっ!?」
暗い微笑みを浮かべる彼女に、サッと蒼ざめる。
しまった……!
もしかして、教えてはいけないことを教えてしまったんじゃないだろうか。
蒼白になる私の足元で、猫が深々とため息をついた。
『……姫さん。薄々感じてはいたが、お馬鹿さんだな?』
「だだだって、だって! ロザリアちゃんは私にとって、可愛い妹みたいなものなのよ!? 敵じゃあるまいし、ついうっかり油断するのは仕方ないじゃない!」
『いや、今は敵だろ。可愛い妹が剣を抜き放って、守護精霊をけしかけて来るのかよ? ーー来るぞ!』
火魔精霊獣が噴き出した火焔を、そのまん丸い(失礼)身体を挺して、猫が防いだ。
四肢を張り、毛を逆立てて威嚇する。
触れられないものを避けるように、炎は猫に寄り付けない。
「なにかと思えば、昨日取り逃した精霊獣か。捕らえて喰ってしまえ! 火魔精霊獣!!」
振り下ろされた豪腕を、猫は一飛びで躱す。火魔精霊獣の肩に着地した瞬間、その眼を狙って火球を放った。視界を奪われた火魔精霊獣は、身体全体を燃え上がらせて反撃を試みるーーが、猫も負けじと、その身を金色の炎で包み、攻撃を弾いた。
「すごい! い、意外と強いじゃない……!」
『失礼な姫さんだな! ーーチッ、駄目だ。力が上手く扱えねぇ……!』
ーートッ、と私の足元に着地した猫が言う。
『おい、姫さん! 名前だ!! 火魔精霊獣を超える、強いイメージを持った名前を、俺に寄越せ!!』
「な、名前!? そんなこと、急に言われても……精霊の名前って、サラマンダーとか、フェニックスとか?」
『蜥蜴や鶏でこのごついのに勝てるかよ! よく考えろ。アンタの心の中で、火を連想させる強い名前だ……!』
「火を連想させる……って」
そんなもの、急に思いつく訳がないーー弱気な思いを、心の片隅に現れた前世の私が一蹴した。
ーーいや。
いやいやいや!!
知っている。山ほど知っているぞ!!
なんたって、前世の私はファンタジーマニア。ゲームに漫画にライトノベルにTRPGにSFにーーと、とにかくファンタジーと名のつくファンタジーにハマりまくっていたのだから。
例えば……。
「火を連想させる、強い名前なら良いのね! それなら、〝スルト〟! ゲルマン、北欧の神話、エッダに出てくる炎の巨人! レーヴァテインと呼ばれる焔炎の剣を持ち、神々の黄昏の際には、その剣で世界を炎に包む。火の世界に住むといわれる、巨人族最強の王よ!」
『ほお! ーーなかなか良いが、駄目だ!』
「ど、どうして!?」
『そいつ、聞くからにごつい系のおっさんだろうが! 火魔精霊獣と被るし、俺の趣味じゃねぇから嫌だ!』
「はあ!? こんな時に我儘言わないでよ!」
火魔精霊獣が右手を薙ぎ払う。爆煙とともに生じた焔炎の壁に、猫が勢いよく体当たりする。小さな身体にもかかわらず、その一撃は金色の炎の波紋を生み、攻撃を相殺させた。『早くしろ!』と猫が怒鳴る。
「ーーそ、それじゃあ、〝ミスラ〟! イラン神話の神様で、光、太陽の神格を持ち、全てを見透かす凝視からは何者も隠れることが出来ない。力と知恵の両方を兼ね備え、一万の眼と耳があって」
『眼や耳がそんなにあったら困るだろうが!?』
「〝アイニ〟! ソロモン王に封印された72柱の魔神の一人! 「火炎公」、「破壊公」とも称され、蛇と猫と人間の頭を持った三つ首の姿で現れる。右手には決して消えない火の玉を持ち、世界を火炎地獄にするために、見るもの全てに放火する!」
『ただの危ない奴だよなあ!?』
「……〝プロメテウス〟。神々から火を盗んで人間に与えてくれた神様で、罰として山の山頂に磔にされ、生きながら肝臓を鷲についばまれる責め苦を強いられる。不死だから肝臓は夜中のうちに再生して、三万年もの間、拷問をーー」
『ドMか! お前、もはや悪意しかねーだろ!!』
「だって、文句ばっかり言うんだもん!!」
「ーーさっきから、何をごちゃごちゃと……! お前も、あんなタヌキに何を手間取っている! さっさと蹴散らせ、火魔精霊獣!!」
ロザリアちゃんの言葉に大きく雄叫びを上げ、全身に紅の焔炎を纏った火魔精霊獣が、猫を目がけて体当たりしてくる。
猫は軽々とそれを避け、少し気の毒そうに言った。
『ーーフン。なんとも色気のねぇこった。まるで、奴隷扱いじゃねぇか。敬称も無しじゃあ、ろくにやる気も出ねぇよなぁ、火魔精霊獣?』
敬称ーーそれは、術文の始めに唱えられる、精霊を称え、敬うための言葉だ。
〝猛き〟金剛石精。
〝温情と恵み深き〟地の精霊。
旧時代の術文では、この敬称部分がもっと長いのだが、多くの魔術師達に行使されるうちに、唱えやすいように徐々に簡略化されて、今の形がある。
無詠唱魔術では、敬称どころか術文の詠唱全てが省略されてしまう。ぞんざいに精霊を使役するかわりに、対価としての魔力消費が大きいのだ。
私には魔力がない。
こうして私を守りながら戦ってくれている猫に対しても、お礼として贈れるものを、何も持っていない。
ーーでも、もし、贈ることが出来るものが魔力でなく、言葉でもいいのなら。
その存在を讃える言葉が、彼にとって喜ばしく、力になるというのなら。
「……! ルシウスが言ってたこと、思い出したわ。精霊達にとって、思いの込められた言葉は力になるのよね?」
『ああ、そうだが。……姫さん、何を考えてる?』
怪訝に首を傾げる猫に、私は不敵に笑いかけた。




