20 早朝の再戦
翌日の朝、猫のレベル上げを終え、装備を整えた私は、旅立ちの時を迎えていた。
「それじゃあ、ルシウス。行ってくるね!」
『気をつけて。くれぐれも、無理をしないようにね』
本当に危ない時には助けに行くから、という、ルシウスの言葉に笑顔でうなずく。
ルシウスは知識的なサポートや守護に長けているものの、戦闘には不向きなのだ。火魔精霊獣再戦の今日、彼には離宮に残って、怪我の治りきっていない精霊達を守ってもらう手筈である。
大丈夫。
昨日、ルシウスや猫と一緒に、火魔精霊獣攻略についての作戦は、しっかりと練ったのだから。
ーー上手くいくはずだ。
キュッと、ポケットに入れた小さな包みを、無意識に握りしめていた。それを見たルシウスが、碧玉の双眸を柔らかく細める。
『ーー陛下、きっと喜んでくれると思うよ?』
「なっ!? なななな、なん、なんなんなんのこと……っ!?」
『誤魔化さなくてもいいじゃないか。昨日の夜中、花摘み唄を歌いながら、精霊花を摘んでいたのを見たよ。精霊達に手伝ってもらって、昂った感情を抑える効果のあるお茶を作っていたんだろう? キッチンに茶葉の試作品も置いてあった。ものに込められた気持ちに対して、精霊はとても敏感なんだ。精霊にとって、強い気持ちの込められた贈り物は力になるからね』
それが物でも、言葉でもね、と優しく髪を撫でてくる彼に、隠せていたと思っていたことを暴露された私は大いに赤面した。
夜な夜なこっそり、バレンタインのチョコレートを作っていたことを、お母さんに揶揄われた娘の心境だ、これは。ーーちなみに、前世の私の場合、渡す相手は二次元の推しである。
「そそそんなことよりも! 今は火魔精霊獣よ!! ボス戦攻略の方が、仲直りよりも大事なの!!」
『でも、早く東の庭園にいかないと、陛下に会えなくなっちゃうよ?』
「分かってるってばっ!! もう、陛下のことはいいから、ルシウスは黙ってて……!」
『はいはい。頑張ってね』
くすくすと笑むルシウスは、二枚も三枚も上手である。これ以上は可愛がられるだけなので、火魔精霊獣討伐用の武器を手に離宮を出て、東の庭園に向かうことにする。
足元を猫がついてくる。
昨日の夕食で、畑に実った精霊果をたっぷり使ったルシウスの手料理をはち切れるほど食べた猫は、出会った頃よりもずいぶんと大きくなった。
ただ、魔力が回復したというよりは、単に太っただけのように見えるのは気のせいか。
『姫さん……今すげぇ失礼なこと考えてるだろう』
「かっ、考えてないってば! 貴方まで私の心を覗くつもり?」
『まさか。わざわざ覗かなくても、姫さんの場合、顔を見るだけで充分だ』
どちらが失礼なのだ、全く。
東の庭園の入り口に来たところで、猫は足を止めた。回廊から庭へと降りる階段に、くるりとうずくまる。
『じゃあな。俺はここで待ってるから、手早くすませてこい』
「……火魔精霊獣と戦うよりも、緊張するわ。なんで朝っぱらから、ラスボスとの対峙イベントをこなさなきゃいけないの。戦って負けないと進まないイベント戦闘なら、アイテムを使う前に教えて欲しい……っ!!」
『姫さんは時々、訳わからねぇこと言うよな』
いいから行って来い、と尻尾を振る猫に別れを告げて、荷物を置いて、庭園へと足を踏み入れていく。昨日は垣根を乗り越えたから、位置関係がいまいち分からないけれどーー空に水を吹き上げる、龍の噴水が目印になった。
白銀の薔薇の大木の蔭に、墨を垂らしたような純黒い人影がある。
「……ディートリウス陛下」
『ーーそなたか。ここで何をしている』
令嬢として朝の挨拶を述べられなかったのは、彼の纏う気迫がそれを許さなかったからだ。
言葉からも、こちらに向けられた視線からも、強い拒絶の意思を感じる。
出て行けと言われている。
それ以上、こちらに近づくなと。
分かりやすい証拠に、私と陛下の間には、あの三人の精霊執事達が立ちはだかっていた。彼等が現れたのは、昨日のようなもてなしのためではない。
護衛ーー私を、陛下に近づけないためだ。
しかし、彼等が本当に守っているものは……守れと命じられたものは、陛下の御身ではなく、別のものだということが、私には理解出来ていた。
ルシウスや、猫の言葉があったからだ。
「ディートリウス陛下。ご配慮頂き、ありがとうございます」
『……配慮など、していない』
「いいえ。陛下は、私の心を覗かないように、距離を取って下さっているんですよね? 魔術を使わなくても、知りたいと強く思っただけで、相手の心を覗いてしまうから」
テーブルに腰掛け、静かにカップを持ち上げていた彼の手が、動きを止めた。
「……私、陛下に謝らなくてはいけないと思って、ここに来ました。ーー魔術を使って、故意に心を覗かれたのだと勘違いをしました。酷いことを言ってしまって、本当に申し訳ございません……!」
『私のことが嫌いだというのは、そなたの本心だろう。むき身の剣を振りかざすそなたは、いっそ潔い。鞘に仕舞ったり、懐に忍ばせるよりはましだ』
「……鞘、ですか?」
いきなりの例え話に困惑する。
要するに、建前を言われるよりも、本音の方がましだと仰っているのだろうか。
それが、相手を傷つける刃のような言葉でも。
『昨日の一件について、そなたを罰する気はない。また、寵妃の権限を奪うつもりもない。安心して過ごすがいい。ーー話は、これで終わりだ』
カップを置き、ディートリウス陛下は席を立つ。
淡々とした態度だった。
その眼はもう、私を見てもいない。
純黒のマントを翻し、この場を立ち去ろうとする彼を、私は引きとめた。
「ちょ……、ちょっと待って下さい!!」
具体的には、マントの裾を掴んで引きとめたのだ。とんでもない不敬である。でも、仕方ない。言葉では立ち止まってくれないと直感したからだ。
『……無礼な』
「無礼で結構です!! 陛下こそ、私のことを、平気で他人を傷つける人間みたいに言わないで下さい! 私はあんなこと、言うつもりはなかったんですから。本心が剣だと言うのなら、勝手に鞘から引き抜いて、怪我をしたのは陛下です!」
『……』
龍の仮面がこちらを向く。
彼の感じている怒りと、苛立ちが、ピリピリと肌を刺すように伝わってくる。その身から滲み出す魔力が、影響を及ぼしているのだろう。
無言の睨み合いが続いたが、先に動いたのは陛下だった。マントを掴んだ私の手を、さっと払い除ける。
『……そんなもの、大差はない。口に出さぬだけで、思っていたのは確かだ』
「思っていることを言葉にするのと、しないのとでは、全然違いますよ……!」
正面から食ってかかる私に、陛下は静かに息を吐く。言いたいことがあるなら言えと言われているような気がしたので、構わず言葉を続けた。
心を覗かれているわけではない。
私の意思で、彼に気持ちを伝えたいだけだ。
「私には、魔力がありません。でも、魔術が好きで、いつかは使えるようになりたくて、魔術学院に入学して、必死に学んできました。私には二人の友人がいます。幼い頃からの親友達ですが、二人は猛勉強する私の姿を見て、きっと、一度は思ったことがあるはずです。そんなことをしても無駄だ。生まれつき魔力のないものが、何をしたって無意味だって……でも、二人はそれを、一度だって口にしたことはありません。ずっと鞘に仕舞い込んだまま、絶対に、これからも抜くことはない。それは、私のことを傷つけたくないと思っているからです。大切に思ってくれているからなんです。ーーだから、同じじゃありません」
仮面の奥の。
暗い影の中で、宵闇色の双眸が私を見つめている。夜を固めたような瞳の色は、朝日が差し込むと、虹彩だけがわずかに銀色の光を帯びて輝くのだということに、初めて気がついた。
夜天に煌く、星のようだ。
陛下はしばらくの間、黙って言葉を反芻していたが、やがて、口元に手を当て、ふむ、とうなずいた。
『ーーつまり。そなたには、私を大切に思う気持ちがある、と?』
「…………はい?」
『違うのか?』
低音美声が一層低まる。不穏な気配を感じ取り、否定しようと思った言葉を即座に否定した。
「違……っ!? いえ、ち、違わないこともなくはないと言えないこともないんですけど!」
『ディアナ・ゾディアーク。そなたには、私のことを傷つけたくないと思い、大切に思う気持ちがあるのだな』
「…………はい、そうです」
自棄である。
やけくそである。
途端、陛下の唇がゆるりと弧を描きーーそれだけではすまず、長身を震わせて笑い出した。謁見の間で嘲笑われた時のように、不快感も羞恥心も感じないのは、なんだかその姿が年端もゆかない子供のようで、可愛らしいと思ってしまったからだ。
彼と私を遮っていた精霊執事達は、いつの間にかいなくなっている。
ポケットに入れていた包みを、私は彼に差し出した。
『ーーこれは?』
「お茶です、陛下。昨日の晩、精霊達に手伝ってもらって作りました。昂った感情を落ち着ける効果があるので、よかったら飲んでみて下さい」
本当は、缶や瓶に詰めるのが良いのだろうけど、見つからなかったので、レースの綺麗なハンカチに茶葉を包み、リボンを結んでみた。
布の目を通して、ポプリのようにいい香りがする。
陛下の白い手が、それを受け取った。
『ありがとう』
「ーーっ!? ど……っ、どう、いたしまして」
そんな、ストレートにお礼を言われるとは思っていなかった私は、不意を突かれて赤面した。
現実の陛下が過去最高の笑顔を浮かべている。
ずっと夢に出てきたーー二次元の彼に対して淡い恋心を抱いていた私に、三次元の彼が甘やかに微笑みかけているのである。
ハードルが高い。
前世の恋愛対象がことごとく二次専だった私には、転生したってハードルが高い!
お茶の包みを手渡す際に、そのまま優しく握り込まれてしまった掌を、一体どうすればいいのか……!!
「ぁああああーーっ! と、そ、そそうだ、陛下がお悩みだった、ケーキの山なんですけど!!」
『ケーキ?』
「は、はい! 月の離宮にいる精霊達なら、きっと喜んで食べてくれるんじゃないかなって思って……みんな、甘いものが大好きなんです!」
『そうか。では、今日中に運ばせよう。ここにもまだ、沢山ある。よければ、このお茶と一緒にーー』
陛下が私を誘った、その時だ。
突如、辺りの空気を震わせるような咆哮が轟いた。思い切り吹き鳴らした管楽器のような喧騒で、鳥の姿の精霊達が飛び立っていく。
『南の庭園からだな』
「火魔精霊獣が暴れているんです……! 陛下、お父様はーー宮廷魔術師団は、このことを知っているんですか?」
『無論、把握している。しかし、精霊王が手出し無用と申して来たのだ。これも選定の一環なのだと。この件に関われるのは寵妃だけだ。とはいえ、他の寵妃達は気にも留めていない様子だが……そなたは、違うようだな』
「火魔精霊獣に怪我を負わされた精霊達が、月の離宮に避難してきたんです。捕まって、餌にされている精霊も沢山います。なんとか、彼等を助けたいと思って」
『そなたには関わりのない話ではないのか? 何故、危険を冒そうとする』
「私は……ここに棲む精霊達に助けられたも同然なんです。行き場を無くしてしまった時に、彼等は私に、ここにいて欲しいと言ってくれた。彼等を守ることは、私の居場所を守ることと同じなんです」
『……そうか。では、私からも一つ、加護を贈ろう』
「贈り物……?」
陛下の掌が、私の髪に伸ばされる。
右耳の上を飾るコサージュに触れ、彼は囁いた。
『猛き金剛石精。我が愛しき者を護るがいい』
「……っ!?」
い、愛しき者……って。
『ーー武運を』
「あ、あり、がとうございます……」
やっぱり現実は色々と、ハードルが高い……!




