17 魔帝の力
『お帰り、ディアナ。お昼ごはん、出来てるよ? ーーあれ、どうしたの。恐い顔して』
月の離宮に帰り着き、出迎えてくれたルシウスの顔を見た途端、ぽろっと涙が零れた。駄目だ。父のことで一度、堰を切ってしまってからというもの、涙腺が緩みきっている。
猫を抱いているので拭うことも出来ないでいたら、不満そうな鳴き声とともに飛び降りていった。可愛い顔をしているくせに、飄々とした青年のような口ぶりで話す。
『ーーおいおい、姫さん。泣くのはよしな。毛並みが濡れちまう』
『おや? その精霊獣。どうやら、無事に助け出せたみたいだね。ーーとにかく、落ち着いて。なにがあったのか話してごらん』
ルシウスに促され、中庭に用意されたテーブルについた。心配してくれているのか、離宮の入り口や庭にいた精霊達が、もそもそ、ふわふわと集まってくる。
姿形は奇妙でなんだかわからない、でも、とても優しい感じのするーーそんな、たくさんの精霊達に囲まれながら、私は一連の事情を話した。
『……なるほどね。陛下と喧嘩して、怒って帰って来ちゃったんだ?』
仕方ないなあと、ルシウスは苦笑する。しつこく眦に浮かぼうとする涙を乱暴にぬぐって、私はゆっくりと息を吐き出した。
「今日中に荷物をまとめて、学院に帰ろうと思うの。ーーとは言っても、ここには身一つで来たも同然だから、持っていくものなんかないんだけど。精霊王様には、ルシウスからよろしく伝えておいてね」
『待って。ディアナ、それは駄目だよ。君は選ばれた寵妃の一人なんだから。精霊王様の選定が終わるまで、皇宮にいないと』
ルシウスの言葉に、首を振る。
「あの魔帝陛下に向かって、大嫌いだって怒鳴りつけたのよ……? 遅かれ早かれ、御命令が下って追い出されるわ。追い出されるだけですめばいいけど……それに、私、魔術を使って平気で他人の心を覗くような人と、結婚なんてしたくないの」
『ディートリウスは魔術なんて、使ってないぜ?』
ひょい、と足元から膝を経由して、テーブルの上に猫が飛び乗る。弓形の髭を揺らして、慣れた様子で顔を洗い始めた。
「え……っ? だって、貴方がさっき」
『俺は、〝心を覗かれてる〟って言っただけだ。魔術じゃない。ディートリウスのあれは、生まれ持っての力だ。仮面のおかげで、抑えられてはいるけどな』
「生まれつき……!? 生まれつき、他人の心が覗ける力を持ってるってこと? そんなこと、あるわけない……!」
『どうしてそう言い切れる? 姫さんだって、精霊の見える眼なんて珍しいもんを持ってるじゃねぇか。ディートリウスは、魔力の申し子みたいな奴だ。生まれながらに持つ膨大な魔力を、うまく制御出来ないときがある。特に、強い感情が働いた時は最悪だ。ーー今日の場合、あいつは姫さんの心の内を知りたいと思ったのさ。そのせいで、知らないうちに心を覗いちまったんだよ』
「……本当なの? ねぇ、ルシウスはこのことを知ってたの?」
ルシウスは私の問いに、ただ穏やかに微笑むだけだった。肯定の意と捉えるには充分だ。
「どうしよう……私、そうとは知らずに、陛下に酷いことを言ってしまった……」
『ディアナ。理由はどうあれ、陛下が君の心を覗いたのは確かなんだから、君が怒るのは当然だ。非は陛下にある』
「ーーっ、でも」
『でも、もし、言い過ぎたと思ったのなら、謝って仲直りすればいい。幼い子供同士でも出来ることだよ。大丈夫。そのくらいのことで、陛下は君を追い出したりしない』
「……うん」
魔帝陛下は仰っていた。
生身の人間を傍に置くと、色々と支障をきたすのだと。
きっと、このことが原因なのだ。
顔を合わせて、初めて会話をする相手のことを、知りたいと思うのはごく当たり前の気持ちだと思う。でも、陛下には、そんな当たり前の気持ちを抱くことさえ許されないのだとしたら。
ーー横暴で、扱い辛いだけの力……か。
「……ルシウス。また、あの時間に庭に行ったら、陛下に会えるかな」
『会えるよ。執務を終えた後、あそこでくつろぐのは、彼の日課だからね』
よし、と、ルシウスの言葉に覚悟を決める。
気持ちが落ち着いたら、きちんと謝りに行こう。
『さ、元気を出して昼ごはんをーーって、よく見たら、なんだかお腹いっぱいみたいだね?』
「ごめんなさい。さっき、陛下とお茶した時に、ケーキやスィーツをいっぱい食べさせられちゃったのよ。レジーナっていう、謁見の間で、私に意地悪を言ってきた寵妃がいたでしょう? 彼女のお父さんが、山のように贈りつけてきたんだって」
『ああ、それでか。離宮にも届いてるよ。君の分は残してあるんだけど、残りは精霊達が食べちゃったんだ。彼等、甘いものには目がないからね』
「そうなんだ。いいよ。私の分も、みんなに食べてもらって。畑仕事を手伝ってもらったお礼もしたいし」
『ーー姫さん、俺にも寄越してくれ。しばらく眠ってたせいで、すっかり力が弱っちまった。本当なら、あんな人間に使役されるしか能のない守護精霊、燃えカスにしてやるのによ』
「……燃えカス」
炎のような毛並みは毛足が長く、耳の先が少し垂れているのが非常に可愛らしい。そんな猫が、ケッ、とニヒルに悪態をついている。複雑な気持ちだった。
「それはいいけど。お腹が空いてるからって、離宮にいるみんなのことを食べたりしないでね?」
『するかッ!! 姫さん。あの赤薔薇の寵妃のしてることは、やっちゃいけねぇことだ。あんなことをすりゃあ、力が歪んじまう!』
『おや。まさか、その寵妃は自己の守護精霊の魔力を高めるために、皇宮内の精霊達を餌にしてるのかい? それはまずいなあ』
「そんなにいけないことなの? 確か、召喚学の授業で、自分が呼び出した守護精霊や、召喚獣の持つ潜在魔力を急速に高めるためには、そういう方法もあるってーー」
『えげつねぇな、人間』
『ディアナ。離宮の精霊達をよく見るんだ。一度だって、彼等が互いに食べ合っているところを見たことがあるかい?』
促され、中庭を見渡す。
硝子のように透き通った河馬が、噴水のある石造りの溜池の中で、水浴びをしている。瑠璃色の宝石が散りばめられた鳥達を、口の中いっぱいに留まらせたまま、潜水してしまうーーけれど、しばらくして水面に上がった泡の中から、鳥達が現れて羽ばたいていった。何事もなかったかのように、プカリと浮かんできた河馬の背に集まる。
大きな精霊は、小さな精霊を襲わないのだ。
彼等は好きに傍に侍らせるだけで、大木のように穏やかでいる。
『弱肉強食が自然の摂理なのは、人間の世界での理だよ。精霊達は精霊界の住人だ。個々にあるように見えて、実は繋がっている。ひとつの大きな力の流れの分身体だと表現することも出来る。それを故意に塞き止めたり、流れる力を無理に独り占めしようとすれば、当然、力の流れは歪んだり、澱んだりするんだ。そういう力の歪みから生じたものは、もはや精霊とはいえない。君達人間が魔族と呼ぶ、人間の心を蝕み、世界に害なす存在になる』
「魔族……精霊を喰い荒らすだけじゃなく、人間も餌にするような生き物ーーロザリアは、真の寵妃に選ばれるために、魔力を集めるのだと言ってたけど…… ロザリアの火魔精霊獣は、大丈夫なのかな」
『さてね。主がしっかり従属させているうちは、大事ないと思うけど。このままだと、どうなるかな……』
ピチチチドンドンドンパーンガシャーン!!
ーー離宮の入り口から、突如、わけのわからない騒音が鳴り響いた。演奏中のオーケストラに象が突っ込んで大暴れしているような喧騒は、精霊達が騒いでいる声だ。
駆けつけると、そこにはもう、本当に数えきれないほどの精霊達がごった返していた。某異世界の銭湯旅館も真っ青の、満員御礼である。建物の中には入りきれないので、精霊達の大半は周りをうろうろしたり、宙に浮かんだり。
怪我をしてうずくまっているものも、少なくはない。猫が負っていたものと同じ、えぐるような爪跡だ。
「まさか……! みんな、ロザリアの火魔精霊獣から逃げて来たの!?」
『そうらしいね。どうする? 邪魔になるなら、追い返そうか』
「そんな! この精霊達は、私を頼って来てくれたんでしょう?」
私のことを、必要としてくれているひとがいる。
彼等は人間ではないけれど、そのことは、今の私の支えだった。
さっきは、ここを出て学院に帰ると言ったけれど、そうしたところで、私にはすることがない。思えば今まで、父に認められることだけを目標にしてきた。愛されることだけを夢見てきた。だから、それを失った私は、情けないくらいに空っぽだった。
それを埋めてくれたのは、精霊達なのだ。私を寵妃と見染めてくれた精霊王や、迎えに来てくれたルシウスを含め、ここにいる精霊達のおかげで、ここにいてもいいのだと安心できる。
一度は折れかけた心の、添木だった。
「なんとか出来ないの、ルシウス!? 私に出来ることがあるなら、なんとかしてあげたい……!」
『御心のままに。ーーじゃあ、なんとかしてみようか。精霊獣くん、君にも協力してもらうよ?』
『ああ? なんで俺が……』
『ご飯代はきっちり働いてもらわないと。……それに、君だって、いつまでもそんな姿じゃ困るだろう?』
ニヤリ、と、ルシウスが珍しく意地の悪い笑みを浮かべる。猫はぷい、と明後日の方向を向いて悪態づいた。




