15 秘密の庭
「……へ、陛下……? ……ど、して……」
ばくばくと、口から飛び出しそうな心臓が告げている。
夢ではない。
幻でもない。
目の前で椅子から立ち上がり、その身を包む漆黒の絹のマントを優雅に翻しながら振り向いた御方は、正真正銘、現実に存在している方の魔帝ディートリウス陛下、その人であった。
震える私を前に、彼は龍の仮面の奥から、ふ、と呆れたように息を吐く。
『どうして、か……それを尋ねたいのは此方だが。ふむ……』
一度言葉を切って、陛下は後方に向かい、ひらりと掌を払う仕草をした。駆けつけようとした護衛官を下がらせたのだろう。
『ーーここ、東の庭園は、私の執務室にほど近い場所だ。朝の執務を終えた後、束の間を気ままにくつろぐのが日課でな。先程は木陰で微睡んでいた。そなたがぶつかってくるまではな』
「も、ももも、申し訳ございません……っ!! わ、訳あって先を急いでおりまして、まさか、陛下がいらっしゃるだなんて思いもよらず……! どうか、ご無礼をお許し下さい!!」
『ーー無礼か』
ふむ、と思案げに、整った唇を指先でなぞりつつ、陛下。
『確かに気分を害された。私にとっては大切な時間だ。それを乱したそなたをーーさて、どうしてくれよう』
「……っ!」
仮面の奥に光る宵闇色の双眸が、獲物を狙う獣のような鋭さでこちらを見据えている。
白々とした腕が伸び、掌が無遠慮に頬を撫でてくる。
冷たい指先で、つい、と唇に触れられ、びくりと身を縮ませた。
くつろいでいた、との言葉通り、木陰には豪奢な黒檀造りのテーブルに椅子、ティーセットが置かれている。
要は、昼寝を邪魔されただけの話ではないか。こっちは初見殺し確定のボス級の守護精霊に追い回されて、それどころではないというのに。
魔帝というより、魔王だ、魔王。
現実の陛下は、とんだ意地悪大魔王なのだ。
息を切らせて駆け込んできた乙女を、こちらが抵抗出来ないのを知っていて、こんな風にネチネチといやらしく追い詰めるだなんて……やっぱり現実なんて、ろくなもんじゃない。
夢の中の魔帝陛下は、あんなにお優しくて知的で素敵なのに……!!
ぎゅっ、と瞼を閉じたその時、乱暴に身体を引き寄せられ、その腕に抱きすくめられた。頭の中で、ぷつん、と忍耐の緒が切れる。
ーーっ、もう我慢できない。皇帝だからって何やってもいいわけじゃないんだから! 突き飛ばして逃げてやる……!
しかし、掌で陛下の身体を押し退ける前に、私の視界は漆黒のマントに遮られた。
「……あっ、あ、あの……!?」
『静かにしていろ』
マントの中から覗いてみると、龍の仮面は先ほど私が飛び越えてきた薔薇の垣根を向いていた。
その向こうから、ヌゥ、と姿を現す巨大な影がある。
「ーーッ!?」
ロザリアが使役していた守護精霊、火魔精霊獣だ。
まさか、ここまで追ってくるだなんて。
蒼白になる私を腕に抱いたまま、陛下の態度は至って平静だった。黒衣を通して伝わってくる鼓動の速さも、落ち着いている。
焔炎の宿る灼熱の眼を、真っ直ぐに見つめて彼は言った。
『お前の望むものは、ここにはない。ーー去れ』
グルルル……、と刃物のような歯列を剥き出しに、火魔精霊獣は低い唸り声を発した。しかし、こちらに襲いかかってくることはなく、ゆっくりと背を向けて立ち去って行く。
たった一言。
たった一言で、陛下はあの巨大な炎の守護精霊を下がらせてしまったのだ。
危機を脱した私は、陛下の腕の中にいることも忘れて、へたり込んだ。
「あ……あり、ありがとう、ございました……! 助けて、頂いて……」
『あれに追われていた理由は、そなたの腕の中にあるそれか?』
手負いの精霊獣のことを指されている。こくん、と私はうなずいて、抱えていた精霊獣を見せた。
『……前寵妃がこの皇宮を去られた後、彼女を守護していた四柱の精霊獣も、姿を消してしまったのだ。この皇宮のどこかに眠り続けていると聞いていたが、今まで一度も姿を現すことはなかった。この精霊獣は、おそらく、そのうちの一柱だろう』
「前寵妃様の……? あ、あの、この子、さっきの守護精霊に襲われて、怪我をしているんです! 陛下のお邪魔をした償いには後ほど必ず参りますから、どうか、今だけはお見逃し下さい……!」
『ーー不死鳥華よ』
すっと目の前に差し出された拳が、開くとともに花が咲いた。白い掌に映える、深紅の極楽鳥花だ。
花弁の奥に溜まった金の蜜を、陛下は猫の背の傷へと降り注いでいく。
傷口はあっという間に埋まり、炎の色をした柔らかな毛並みに包まれて見えなくなった。深く、ゆっくりと呼吸をしている。眠ってしまったようだ。
『しばらく、月の離宮で休ませてやるといい。あそこは、精霊達にとって居心地のいい場所だ』
「ありがとうございます……!」
すっかり傷の治った精霊獣を腕に、感謝の気持ちでいっぱいになる。
現実の魔帝陛下も、存外、悪い方ではないのかもしれない。執務を終えて、ひと息ついていたところを邪魔した挙句、危険な目に巻き込んでしまったのに、何も言わずに助けて下さった。
しかも、傷ついたこの子の手当てまで。
うん……もしかしたら、現実の陛下も、夢の中の陛下と同じくらいにお優しいのかもしれない。
「えっと。それじゃあ、私はこれで……」
『それはならぬ。そなたはまだ、私の時間を乱した償いをしていない』
「え……っ?」
す、と、白い指先がテーブルを指した。
『ーー座れ。しばし、私の相手をしろ』
「……」
前言撤回である。




