12 精霊達のいるところ
ゆさゆさ、と。
誰かの手に身体を揺すられている。
ぎゅうっと閉じた瞼を透かして、差し込んでくる朝日が眩しい。薄っすらと目を開くと、天井に大きく取られた丸い天窓を背に、ルシウスの真珠色の髪がキラキラと光っていた。碧玉の瞳が、零れ落ちそうで綺麗だ。
『朝だよ、ディアナ。そろそろ起きて、朝ごはんを食べにおいで』
「んぅ……ぁと、少し、だけ……」
寝台に差す朝日の陽だまりが、ぽかぽかして温かい。それに、この腕の中にあるクッション……いや、抱き枕が、フワフワと柔らかくてとても気持ちがいい。
抱き枕……なんて、抱いて寝たっけ?
いいや、なんでもいい。
とにかく、気持ちがいい……。
『あとその子、抱き枕じゃないからね。苦しそうだから、離してあげて』
「……え、?」
パチッと目を開ければ。
イモムシと眼が合った。
それも、胴の太さや大きさが、私と同じくらいある巨大な虹色のイモムシだ。
「キャアアアアアアアアーーーーッッ!?」
『おや、その驚きよう。もしかして、本当に精霊の姿が見えるようになったのかい?』
「せっ、せせせ精霊!? こ、この巨大なイモムシが精霊……っ!?」
『うん。彼等は大抵、自分の好きな姿形になるからね。ここにいるのは、みんな何かしらの精霊だよ』
ルシウスの言葉に、閨を見渡してあんぐりと口を開けた。
部屋中、訳の分からないものでいっぱいだ。
床や壁、天井のいたるところにビッシリと生える、カラフルに光るキノコ。花弁を羽ばたかせながら、連なって空中を飛んでいく花々。トコトコと足音がすると思ったら、信じられないほど小さな鹿の群れが、寝台の周りを駆けていた。窓辺には鵲の頭をした黒猫がうずくまっている。開け放たれた扉の向こうを、触手のような脚がたくさんある、名状し難い冒涜的な何かが横切っていく……。
千とち……いや、不思議の国のアリスにでもなった気分だ。
「さ、触っても平気、なの?」
『大丈夫。ここには、君の害になるものは寄りつけないから心配しなくていい。ーーちなみに、このイモムシは昨日の夜に生まれた夢の精霊だよ』
ルシウスの言葉が終わらないうちに、イモムシの身体は乳白色の殻に覆われて蛹になり、背中が割れて、中から無数の、虹色の揚羽蝶が溢れ飛んだ。
ーーいや、蝶かと思ったら、翅も身体も透明な硝子で出来た妖精だった。ルシウスが開け放った窓から、笑いながら我先に飛び去っていく。
『いい夢を見た証拠だ。よく眠れたみたいだね?』
「……うん、すごく」
『それはよかった。朝食を用意しているよ。着替えたら、中庭においで』
ふわりと微笑って、去っていく彼を見送った後。
ワンダーランドな寝室にひとり残された私は、震える両掌を握りしめ、天に向かって、思いっきり叫んだ。
「……すごい。すごおーーいっっ!!」
ファンタジーだ。
これぞ、夢にまで見たファンタジーの世界だ。
魔力に恵まれなかったばっかりに、剣と魔法のファンタジーの世界に生まれながら、ファンタジーとは疎遠な暮らしをしてきた。
そんな私の十六年間のフラストレーションが、一気に解き放たれた瞬間だった。
きっと、昨日見た夢のおかげだ。
夢の中に出てきて下さった魔帝陛下が、私の願いを叶えてくれたのだ。
興奮に高鳴る胸を抑えきれないまま、いつの間にやら着せられていた夜着から、姿見の前に用意されたドレスローブに着替える。袖口や裾に薔薇の刺繍の入った、白銀色のドレスローブだ。
ウェディングドレスはどこにも見当たらず、そのかわりに、髪には可愛らしいコサージュが飾られていた。花冠を小さくしたような造りだ。
身支度を整え、言われた通りに中庭に赴くと、ルシウスが焼き立てのパンケーキを手に、微笑んでいた。庭園を臨む木陰に、白いテーブルや椅子が用意されている。
『そのドレスローブ、よく似合ってるね。さあ、こっちに来て、召し上がれ?』
「ありがとう! すごい、これ……ルシウスが作ってくれたの?」
パンケーキだけではない。サラダに、スープに、エッグベネディクト。デザートには宝石のような果実をふんだんに盛りつけたタルトまで用意されている。守護精霊というのは何でも出来るのだろうか。眼を丸くする私に、ルシウスは悪戯っぽく片眼をつぶってみせる。
『趣味でね。僕は、人間の作る料理が好きなんだ。食べるのも好きだけど、作るのも好きだ。誰かに食べてもらって、喜んでもらえるのが一番愉しい。ここにいる間、付き合ってもらえるとありがたいんだけど』
「大歓迎よ! こんなに美味しそうな料理なら、いくらでも食べたいわ!」
『それは良かった。おかわりもたくさんあるからね』
ルシウス手作りの朝食をたっぷりと堪能した後、彼は食後のお茶を淹れてくれた。珍しい香りのフレーバーティーだ。薔薇や林檎、シャンパンを思わせるような、良い香りがする。
一口飲んで、眼を見開いた。
「ーー、これ……!」
『どうかな? お口に合うかは、分からないけれど』
「美味しい……! それに、この味、なんだか懐かしい。昔、どこかで飲んだことがあるような気がする」
見つめる水面から、立ち上った湯気が薔薇の形になる。緩やかに流れながら、蔓を伸ばし、いつしか消えていった。
「……精霊って、不思議なものなのね。どうして急に見えるようになったのかな」
『この帝国に生まれた人間は、人間ならざる〝月の娘〟の血を引いているとされている。古来より、月の光の中では精霊の姿を見ることが出来ると言われているんだ。この離宮は、月の魔力の濃い場所だから。ここで過ごすうちに、君の眼にかけられた魔法も薄れるんじゃないかと思っていたんだけどね。ーー右眼だけ、もう解けているよ。急に精霊が見えるようになったのは、そのせいだ』
「魔法……それって、もしかして、《霧の眼》という名前の魔法?」
はっと、ルシウスが私を見た。
『どうしてそれを?』
「昨日の晩……ディートリウス陛下が、私に会いに来て下さる夢を見たの。夢では優しいのに、現実の陛下は意地悪だと言ったら、誠意のしるしに魔法を使えるようにしてくれると言われたわ。そのために、私の眼にかけられた魔法を解いてあげるって……不思議な夢だった」
『夢の中に陛下が……? ふぅん……そんなことが』
ふたたび、ティーカップに口をつける。ルシウスの淡い色の唇が、ほんの少し笑っているように見えた。
『ーーそれで、夢で陛下に会ってみたご感想は?』
「すっごく素敵で格好良かった!! 物静かで、知的で、魔法が使えて、おまけに、すごく優しいの。帝都で流れている噂ではもっと恐ろしげな感じだったから、びっくりしたわ。あと、あのお声が……!」
『声? 確か、巷では耳にするだけで魂を抜かれるとか、命を奪われるって言われてるみたいだけど』
「ある意味では正しいわ……私の心は奪われたも同然だもの。低くて、滑らかで、美しい弦楽器の音色みたい。あんな最高の低音美声で優しく寝かしつけてもらえるなんて、本当にいい夢だった……! ああ、陛下、また夢に出て来てくれないかな」
『君が望むなら、きっとまた会えるよ。ーーというか、そんなに陛下に会いたいのなら、会ってくればいいのに。彼は、この皇宮内にいるんだからね。朝の執務が終わったら、東の庭園内でお茶を』
「現実は嫌っ!! 本物の陛下は意地悪だったもの! 誰もいないから遠慮なく言わせてもらいますけどね。か弱い乙女をあんな場所で辱めるだなんて、男として最低よ! ちょっとくらい庇ってくれたっていいじゃない。夢の中の魔帝陛下なら、絶対そうしてくれると思う!!」
『おやおや……第一印象、最悪だね。じゃあ、ディアナは寵妃になりたくないんだ?』
「……わからないわ。寵妃になっても、お父様が振り向いて下さらないことは、はっきりしたし。それに、精霊は見えるようになったけど、魔法が使えるようになったわけじゃないんでしょう? 魔力ばかりが持て囃される、魔力実力主義の魔法帝国だもの。私が寵妃になったって、出来ることはなにもないと思うの。誰かに必要とされたいって、思う気持ちはあるけど……」
『今はそれで充分だよ。誰かに必要とされたい、か……少なくとも、ここに集まった精霊達は、君のことを必要としているみたいだけどね?』
「精霊達が、私を?」
『そう。月の離宮に新しい寵妃が来てくれたと、喜んでる。しばらく、ここで彼等とともに過ごしてみてはどうかな。君は間違いなく、彼等に望まれているんだからね』
「……うん」
望まれて、必要とされている。
唯一の家族である父に見放された私にとって、その言葉が、今はただ嬉しかった。




