57 罪と贖罪②
「ソレイユ……ごめん。やり過ぎたって反省してる。もう二度としないから、許して欲しい」
「嫌よ!」
ピシリ、と言い捨てるソレイユには、取りつく島が微塵もない。
ロベルトは力無く肩を落とし、そんな二人を眺めるレジーナは、我関せずとばかりに絹の扇子で口元を覆っていた。どちらに詳細を聞いてもはっきりした答えは返って来なかったが、痴話喧嘩をしていることだけは確実だ。下手に首を突っ込まない方が得策と、レジーナは心の算盤を弾き、冷静に判断する。
精霊杯の前半戦が終わり、三人は観覧席に座って、後半の試合が始まるのを待っていた。当然のことながら、ムードは険悪そのものだ。周囲には、ソレイユの優勝を祝いたそうなご令息や、場外に投げ出されたロベルトを心配するご令嬢が集まっていたが、誰一人として彼等に声をかける者はいなかった。
ひとえに、ソレイユの発するすさまじい怒気のせいだ。
白熱する気迫に、屋外の異様な暑さは増すばかりである。
「全く。夫婦の喧嘩は犬も喰わないとはこのことですわね……」
やれやれと、レジーナが絹のハンカチで汗を押さえた時、能天気なほどに明るい声音が、険悪な空気を爽快に吹き飛ばした。
「ソレイユーー!! 優勝おめでとうっ! ロベルトも、お疲れ様っ!!」
三人はギョッとして声の方向を振り返る。
見間違いではない。純白のドレスを翻しつつ、軽やかに駆けてきたのは、さっきまで天覧席におられたはずの〝精霊王の寵妃〟様である。
「ディ……ッ!?」
「ディアナ!? 貴女、こんな所で何をしているの!」
七ツ星学級の生徒のために用意された観覧席は、豪華といえども一般席だ。そんな場所に、将来の皇妃様がルンルンと現れては、顔を売りたい者達が詰め寄せて大変なことになる。
ーーしかし、妙だ。
周りにいる生徒達は、ディアナの姿を見ても騒ぎもしない。何か術がかけられているのだ、と三人は瞬時に理解した。
ふふん、とディアナは得意気に言う。
「陛下に頼んで、認識を誤魔化す魔術をかけてもらったの。皆には、私が私だと分からないから、大丈夫だよ!」
「大丈夫って……」
大丈夫なのか? と見上げた天覧席では、かの魔帝陛下がうちの寵妃をよろしくとばかりに小さく手を振っていた。
ーー言いたいことは山ほどあったが、この寵妃様には彼女を加護する破壊と混沌の邪神達が四柱も五柱もひっついているのだ。そう滅多なことは起こらないだろうと、三人は喉から出かかった細かい突っ込みを全て忘れることにした。
「というわけで、後半戦は、私もここから観戦します! ルシウス達も、後から来るって」
「お父様達の気苦労が窺い知れるわ……でも、嬉しい! ありがとう、ディアナ! さっき、ものすごく腹が立つことがあったから、貴女が来てくれて良かったわ!」
「腹が立つことって…….もしかして、ロベルトとはまだ仲直りしてないの?」
「ええ! してないわよ!! それどころか、当分、話をするつもりもないわっ!!」
「……ロベルト」
これ以上なくキッパリと宣言するソレイユに、何をやっているのだとディアナから厳しい視線が飛ぶ。ロベルトは、面目ないと顔をしかめるばかりだ。
「そんなことより、後半戦にはアステルが出場するのよ! しっかり応援しないと……あら、そう言えばレジーナ、貴女の試合は?」
「前半戦の三回戦で無難に敗退致しましたわよ。観客に向けて販売しているアイスクリームやラムネの売れ行きが絶好調で、正直、試合どころではなかったのですわ!」
「そ、そう……相変わらず、貴女はブレないわね」
「なるほど! 観客相手に売り子を使ってワゴン販売なんて、ルシウスにしては商魂がたくましいと思ってたのよ。レジーナが一枚噛んでいたのね。暑いし、私も買ってこようかな?」
「買いに行っているうちに、始まってしますわよ。確か、アステルは一番手のはずですわ。よりにもよってと、蒼い顔をしていましたもの」
レジーナの言葉が終わらないうちに、後半戦の開始を告げるアナウンスが流れた。選手の名が呼ばれ、アステルの相手選手が闘技場に上がる。
ーーしかし、何度呼ばれてもアステルが現れない。
このままでは、相手の不戦勝になってしまう。
「おかしいわね。アステルは、どうしたのかしら?」
「ーーねぇ、ソレイユ」
ぽん、と肩に置かれたロベルトの掌を、ソレイユはカッとなって振り払った。
「ーーっ! ロベルト! わたし、貴方とは当分話をしないと言ったはずよ。あんなことをした上、せめて態度で詫びようとする誠意すらないのかしら!?」
「ごめん。でも、おかしいんだ。火の精霊達が騒いでる。今までよりもずっと酷い。何か、魔力の流れを乱すようなことが起こったのかもしれない」
「火の精霊達が……?」
ロベルトに嘘をついている様子はなく、彼の言葉を、ディアナがすぐに肯定した。
「本当よ、ソレイユ。なんだか、すごく慌てているみたいなのーー、わっ!?」
ディアナの眼の前で、不意に、金と紅の焔炎の渦が巻き起こった。中から現れた真紅の魔導衣姿のクトゥグァに四人は眼を丸くする。しかし、周囲の生徒達は無反応だ。精霊の姿は、普通は人間には見えない。だが、クトゥグァのような高位精霊になら、望むものだけに姿を現すことも可能なのだ。
「ク、クトゥグァ、どうしたの? そんなに慌てて」
『話は後だ! 姫さん、お前等も、俺と一緒に来てくれ!! アステルが大変なんだ!!』
「なんですって!?」
「アステルさんが!? 分かった! すぐに行くから、案内して!」
言うが早いか、クトゥグァは再び焔炎を巻き起こし、今度はこの場にいる四人の身体を包み込んだ。転移の魔術を行使するつもりかと、四人の魔術師達は眼を丸くする。ーーいや、この場合は魔法だが、触れたものを燃やし、ひと所に留まることを好む火属性の精霊達は、どこかに何かを運ぶことは苦手なのだ。
しかし、焔炎の転移は驚くほどスムーズで、気がつくと、四人は〝月の扉〟のキッチンに立っていた。
ソレイユ達には馴染みの場所だが、初めて来たディアナは物珍しそうにキョロキョロと視線を巡らしている。
「ここは……?」
「そうね、ディアナは初めてここに来たのよね。ここは、〝月の扉〟という、ルシウスが開いたティーハウスよ。ーークトゥグァ、アステルはここにいるの?」
『ああ、こっちだ!』
クトゥグァに続いてキッチンから出た面々は、店の床に力無く倒れているアステルを見つけ、駆け寄った。
「アステル、アステル!! お願いよ、返事をして!!」
ソレイユが抱き起こすが、その呼びかけにもアステルは目覚めない。顔も身体も、熱ぼったくて真っ赤だ。ジットリと汗ばんだ額に、癖のない黒髪が濡れて張り付いている。
ロベルトはアステルの身体に手をかざし、魔力の流れを探った。
「体内で、火の魔力が急速に高まっているんだ……クトゥグァ。火の精霊の祝福印の影響じゃないのか。君の力が、アステルの身体に負担をかけている可能性はないのか?」
『いいや、逆だ。今、この印を解けば、アステルの身体が燃え上がっちまうほど、火の精霊がアステルに対して攻撃的になってる。力づくでアステルを奪おうとしてるみたいだな。この学院にいる、火の精霊に大きな影響を与えることの出来る魔術師が、酷く心を歪めてやがるのが原因だ……俺の力で護れているうちはいいが、このままだと、アステルの身体が持たねぇぞ』
「そんな……っ!? ルシウスはどこ、彼の力でなんとか出来ないの!?」
『あいつは、この元凶を断つ方法を実行出来るよう、ディートリウスに直談判してる。クトゥルフの野郎を連れてこようと思ったんだが、どっか行っちまうし……! 俺達で、なんとかするしかねぇ』
「なんとかって言ったって……」
地の加護を受けるジブリール家の魔術師であるソレイユには、アステルを中心に巡る魔力の均衡の崩れが痛いほどに分かっていた。火の魔力が彼女を蝕もうとするのに、それを抑えるための水の魔力があまりにもか細いのだ。水の大国グランマーレ帝國出身の彼女は、水の魔力に恵まれているはずなのに。
「落ちついて、ソレイユ。アステルを助ける間だけでいい。僕に力を貸してくれないか」
「……勿論よ。何をすればいいの?」
「魔術紋を使って、火と地と風の多重結界を張り、火の魔力が彼女に流れ込まないよう抑制する。レジーナ、君も力を貸してくれ!」
「いいですわよ。お代は後ほどアデルハイド家にーーじ、冗談ですわよ!! 皆さま揃って、そんな眼で見ないで下さいまし!」
「冗談を言ってる場合じゃないんだ。クトゥグァ、アステルの周りの椅子やテーブルを退かしてくれ。ソレイユ、レジーナ。二人とも、対価魔術の行使は初めてか?」
上着を脱いで敷き、アステルをその上に寝かせたロベルトは、ソレイユとレジーナの前に鞘付きの短剣を差し出した。引き抜かれた刃の白さに、ソレイユとレジーナは息を飲む。
「は、初めてに決まってるでしょう!? 方法は授業で習ったけれど、戦闘訓練でも使用は禁止されているわ。代償の伴う魔術は、禁術に通じる邪法だとも言われているのよ?」
「むしろ、あんな公然の場で堂々と行使したロベルトには、後で学院側からこっぴどいお叱りがありそうですわね?」
「覚悟してるよ。でもね、対価魔術と呼ばれているこの術法は、そもそもその名前自体が誤認されているんだ。精霊達は、術者の血が欲しいから力を貸すんじゃない。術者が血を流すことで、ことの緊急性を彼等に伝えやすくするだけなんだよ。特に、精霊の加護を受けた家の者の効果は絶大なんだ」
言いながら、ロベルトは右手に持った短剣の先で、左薬指の爪の下を軽く差した。ジワリと滲んだ血液を、右手の親指で拭う。
「血判を押す程度の血でいい。あとは、これを床に押しつけながら術を行使するだけだ。ーー情け厚き火の精霊達よ。我が願いに添いて、この者を護りたまえ」
ロベルトの親指が触れた部分から、金色に輝く唐草に似た模様が現れ、アステルの身体を丸く取り巻いた。光がおさまると、それは真紅の魔術紋になる。
「驚いたわ……高等魔術級の複雑な魔術紋が、こんなに簡単に印せるだなんて」
「このことは、前にルシウスに教えてもらったんだ。精霊騎士として、誰かを守るために身を犠牲にしようとする僕には、向いているだろうってね。大きな傷をつけないように、気をつけて」
うなずいて、ソレイユとレジーナも順に短剣を受け取り、ロベルトに倣って、地と風の防御系結界を施した。真紅、深緑、黄金の、三重の魔術紋に囲まれて、アステルの呼吸が楽になっていく。その顔色から、少しずつ赤みが引いていくのが分かった。
「ーーこれで、ひとまずは安心かな。後は……」
「ロベルト、ロベルト……!」
「まずいですわよ……!!」
小声で訴える二人の声に何事かと振り向くとーー紫水晶の瞳にいっぱいに涙を溜めて立ち尽くす、〝精霊王の寵妃〟の姿があった。
「ごっべぇえんっっ!! わだじに魔力がないばっかりに、なんにも力になれなぐでええ……っっ!!」
「違っ!? 違うよ、ディアナ!! ただ、寵妃である君に、軽々しく力を借りることは不敬だとーー」
「そういうのはやめてって言ったじゃないーーっ!! ロベルト達と友達として付き合えないなら、寵妃なんて今すぐ辞めてやるんだからああーーっ!!」
本気だ、と三人は直感する。こういう時のディアナは、やると言ったら本当にやってしまう。恐るべき行動力を秘めている。
「わ、分かったよ!! なら、遠慮なくお願いする。ディアナ、精霊達の姿がはっきりと見えて、彼等と心を通わせることが出来るのは君だけだ。彼女を奪おうとする火の精霊達を退けて欲しい。これは、君にしか出来ないことだ」
「私にしか……? ーー分かったわ!! さっきから、真っ赤で大きい魔鬼みたいな火の精霊達が近づこうとしてるの。こいつらを追っ払えばいいのね!! クトゥグァ、力を貸して!!」
『おう、任せろ姫さん! つーかこいつら、この国で生まれた精霊じゃねぇな。しかも、上級精霊ばかりだ。しゃらくせぇ! 他所もんに俺のシマで好き勝手させてたまるかよ!!』
怒鳴るや否や、クトゥグァは灼炎の火柱と化して燃え上がる。ロベルト達には、ディアナのいう火精の姿は見ることが出来なかったが、強力な火の魔力の塊が、いくつも押し寄せて来ているのは分かった。
「悔しいわ……! わたしにも、精霊を見る力が残っていたなら、ディアナと一緒に戦えるのに!」
「やれることはあるよ。ソレイユ、レジーナ! 結界の範囲を強化して、僕等の力でディアナを守るぞ!!」
ロベルトが剣を抜き放つ。ソレイユとレジーナも杖を構えた。
ディアナが銀の髪から白銀の薔薇のコサージュを抜き放ち、煌めく晶杖を掲げて息を吸い込むーー
「イアイア!! クトゥルフ・フタグン! 死と混沌の闇をも焦がす、業炎の邪神よ!! 今ここに、汝が力を虚なる星の封印より解き放ちたもう!! 我とともにその力を奮いたまえ!! フングルイ・ムグルウナフ・フォーマルハウト! ンガア・グアァ・ナフルタグン・イア! ーー〝クトゥグァ〟!!」




