11 花嫁の父達
「陛下、お待ち下さい……!」
朝日溢れる早朝の皇宮内に、精悍な男の声が響く。鳶色の髪に深紅の瞳。長身で、筋骨隆々とした体躯を純黒の騎士服が際立たせている。
精霊騎士団長のローゼンハイツ・フリードリヒ・アデルハイドだ。
彼は、午前の執務のために執務室へ向かう途中だった魔帝ディートリウスを、中央庭園に面した回廊の半ばで呼び止めた。
「このままでは、納得が……! 国民も我々も、納得がゆきませぬ!!」
『ーーローゼンハイツ。〝あれ〟にも考えがあるのだろう。しばらく好きにさせておけ』
「……っ、し、かしながら」
魔力の強い者の言葉には、ただ話すだけでも他人の心を掌握し、平伏させる力がある。仮面によって力を抑えているとはいえど、ディートリウスの秘める力は凄まじく、並の人間ではこうして普通に会話をすることすらままならない。
まして、意見できる強者はごく少数だ。
皇帝直属の精霊騎士団、その長であるローゼンハイツは、そうした数少ない人間の一人である。
「しかしながら、複数の寵妃が選ばれるという事例は、どの時代の記録にも御座いませんでして……!」
ディートリウスが足を止め、ローゼンハイツを振り向く。彼が口を開くよりも先に、ローゼンハイツの後方から宮廷魔術師の証である導衣、叡智の銀衣に身を包んだ優面の男が現れ、美しい金蜜色の髪を揺らして挨拶を述べた。
宮廷魔術師、第二席。副師長のオルカナ・ラファエラ・ジブリールだ。
そして、さも呆れたと言わんばかりに、翠緑の双眸を眇めてローゼンハイツを見下した。
「おやおや? 朝っぱらから騒々しいと思えば、やはり貴公ですか、精霊騎士団長ローゼンハイツ。耳障りな怒鳴り声が、帝都に建つ私の屋敷にまで届いていますよ?」
「副師長オルカナ……! 貴師には関係なかろう! 引っ込んでいろ!!」
「いいえ、引っ込みません。大体、そのような剣幕で陛下に物を申されるのは、些か不敬ではありませんか? 余程、ご自分の娘を寵妃にしたいと見える!」
「そ、そのようなこと、親ならば当然のことではないかッ!! オルカナ、貴師とて同じであろうが!!」
「強欲で低俗な貴公と一緒にするな!! 私の娘が寵妃になることは分かりきっているのだ! それなのに、ローゼンハイツ。貴公は学院時代から何かにつけてわたしに張り合ってーー」
「ーーやめろ、ガキども。鬱陶しい」
ドスの効いた低音に、二人の高位官職は凍りついた。
一体、誰がこの場に〝彼〟がいたことを予測できただろうか。
それまで、壁に映ったディートリウスの影だとしか認識していなかった部分から、ズルゥ、と朝日の中へ身を滑らせたのは、宮廷魔術師長アンブローズ・メルリヌス・ゾディアーク、その人であった。
蒼い、月影に照る刃の如き眼光に貫かれていなければ、二人は今ごろ声を揃えてギャーッ!! と叫び、長い回廊の果てまで仲良く全力疾走していたかもしれない。
オルカナにとって、アンブローズは魔術全般の師。
ローゼンハイツにとっては、魔術式剣術ーー魔法剣の師範である。
ともに、物心ついた時から魔術と剣術を鬼のように叩き込まれて育った手前、双方、いい大人になった今でも、とてもではないが頭が上がらない。
ローゼンハイツは喉元に剣の切っ先を突きつけられた心持ちで直立し、オルカナは別の意味でも蒼白になった。
「し、師長……! 貴方はまた、陛下の御前で、そんなだらしない格好をされて……!」
朝のアンブローズは特に酷い。研究室にこもっていた時などはもう最悪で、寝起きのままの御髪もさることながら、とにかく着衣が乱れ切っている。叡智の銀衣の荘厳さは見る影もなく、襟元の合わせが大きく着崩れ、魔術師という職業には不釣り合いなほど鍛え抜かれた肉体美の一部が、艶かしく覗いていたりするのだ。
昨夜に至っても、やれ式典服はきつい、重い、ダサい、と終われば即行で着崩す癖も、オルカナが何度注意しても聞き入れようとしなかった。
おまけにーー
「お、おおお恐れながらっ!! 皇宮内で煙草をふかすことなど、あってはなりませんっ!! し、しかも、陛下の御前でーーっゲフ、ガフ!?」
ふーーっ、と、なんら躊躇いなく、アンブローズはオルカナの顔に紫煙を吹きかける。「おやめください!」と涙目で訴えられても、アンブローズは不遜な態度を1ミリも崩さない。
「喧しい。こいつは、吸引系の幻覚醒しだ。深呼吸してよく吸っとけ。大体、お前らが自分の娘の花嫁姿にみっともなく号泣していたせいで、行使された魔術を見落とした挙句、ネズミの侵入を見逃したんだろうが。誰のおかげで発覚したと思ってる」
「ゲホッ、ウェホッ!! ネ、ネズミ……?」
「アンブローズ殿、魔術とは……!?」
「精霊王が、寵妃をこの皇宮へ導くために用意した路は四本だった。ーーだが、実際に集まった寵妃は五人。調べたところ、具現化系の効果を持つ魔術の痕跡が見つかった。構造的に、偽の五本目の路を作るためのものだ。……つまり、寵妃の中には偽物が紛れ込んでいる」
その言葉に、二人の面持ちはますます蒼白になった。
「そんな、寵妃になりすますなど!」
「帝国の伝統を愚弄し、精霊王様や陛下をはじめ、我々までもを欺く行為! とんでもない不敬ではありませぬか!」
「不敬か無礼かはこの際、どうでもいい。重要なのは、ネズミが紛れ込んだその目的だ……妙なことにならなきゃいいがな」
「アンブローズ殿! 精霊騎士の名誉にかけて言わせて頂きますが、ロザリアではありませんぞっ!!」
「無論、ソレイユでもありませんとも!! 花の路の出現も、娘の姿がひとりでに花嫁衣装に変わる様も、全てこの目で見たと屋敷のものがゲフンゴフンガフッ! し、師長、やめ……っ!?」
「阿呆。それを偽るための魔術なんだろうが。わずかに残っていた痕跡を解析してみたが、いい腕をしてやがる。解析系魔術に反応して消滅が早まる仕組みだ。ーーよって、魔術を行使した魔術師の特定は難しい。極めて高度な技だ。よほど長けた者の仕業だな」
「ーーでは、魔術を行使したのは寵妃自身ではなく、その乙女を寵妃にと目論む者の仕業であると……?」
「ああ。お国がらみの謀略陰謀が絡んでいるなら、グランマーレ帝國の皇女殿下。そうでないなら、お前ら二人が一番怪しい」
「そんなっ!?」
「あんまりです、師長!! それを仰るなら、師長だってご自分のご息女を寵妃に……!」
「俺はあいつを自分の娘だとは思っていない。寵妃になろうがなるまいが、どうでもいい」
アンブローズの言葉から、すっと、感情の全てが抜け落ちていく。彼が娘について話すときはいつもこうだ。彼が二人の師であった頃から、その態度は変わらない。
師としての彼は厳しくも愛情深く、故に、どうして実の娘にだけこんなにも冷たい態度を示すのか、二人には長い間、ずっと疑問だった。若かりし頃、寂しげな彼の娘のことが不憫でならず、その疑問をぶつけてみたこともあったが、満足な答えが返ってくることは、けっしてなかった。
二人に出来たことといえば、自分の娘や息子達を、彼女の良き友人として、そばに置いてやることくらいだ。
「……」
「……師長」
石を飲むような重苦しい空気を、静観していたディートリウスが、平静な声音でさらりと崩した。
『ーーアンブローズ。〝あれ〟はこのことについて、なにも言っては来ないのか』
「精霊王の性格は、陛下もよくご存知でしょう。精霊王は寵妃が偽物と知った上で、皇宮内に招き入れた。その時点で、彼女も寵妃の一人として正式な資格を持ったと言っていい。ーーまあ、そう考えると、少なくとも陛下に害をなす目的で潜り込んだという線は薄いでしょう。もしもそうなら、あいつを精霊界から引きずり出して、殴りつけてくれる……」
『穏便にな。ーーそうか。〝あれ〟が許したのであれば、大事はあるまい』
「加えて、昨晩から皇宮内を巡る魔力のバランスが崩れているようです。おそらく、これも精霊王が意図的に崩しているのでしょうが……一体、なにを考えているのか」
『信じよ、アンブローズ。疑いは時として運命をも歪ませる』
「……は」
「お、恐れながら、陛下。ーー側室を持つべきというお告げでは……?」
オルカナの言葉に、ディートリウスは静かにかぶりを振った。
『寵妃は唯一人だ。私も、それを望んでいる』
「陛下……であれば、真の〝精霊王の寵妃〟は、どのようにして選ばれるおつもりか?」
『選ばれた寵妃が複数人だとしても、選定の権限がこちらに委ねられた訳ではない。乙女らをここに集めて、〝あれ〟は何かをしたいのだ。しばらく、したいようにさせておく。それに、たとえこちらの都合で寵妃を選んだとしても、〝あれ〟がそれを受け入れるとは限らない。精霊とはそういうものだ。人間側の都合など意に介さぬ』
話は終わりだと、ディートリウスは回廊の残りを歩み始める。二、三歩進んだところで、つと振り返り。
『ーーそうだ、アンブローズ。お前の探し物だが』
「……探し物?」
『ああ。月の離宮に落ちていたから、拾っておいた。ーーお前がどうでもいいというのなら、私が面倒を見よう』
くすり、と仮面越しに宵闇色の瞳が細まるのを、アンブローズは無言のまま見返した。
そして、ディートリウスと元弟子達が立ち去った後、手元の巻魔薬をすうと吸い込んだ。長く、足元に向けて紫煙を吐き出す。
「ーー、犬ども」
言葉のままに、紫煙は渦巻きながら姿を変える。現れたのは煙色をした三匹の魔犬である。主人の命を待つように、並んで座り、黒い鼻先をアンブローズに向けている。
「……探れ」
瞬間、犬達は姿をかき消した。
薫風が大きく渡る回廊の彼方を、アンブローズは見つめ続ける。




