10 夢での逢瀬
頬にあたる夜風が涼しい。
閉じた瞼の向こうに、誰かがいるような気配がする。ぱら、と本の頁をめくる乾いた音が鼓膜をくすぐった。
髪を撫でていく長い指の心地よさに、夢心地だった意識が、ふわり、と浮上する。
寝台に横たえていたはずの身体が、温かいものに包まれている。
「……ん、ルシ、ウス」
髪を撫で、頬に触れてくる掌を、彼のものと思い握りしめた。少し体温の低い、柔らかな掌だ。
ーーしかし、くす、と頭の上から降り落ちてきた声は、ルシウスのものではなかった。
『……私の腕の中にいながら、その唇で他の男の名を紡ぐのか。ーー妬ましいことだ』
「え……っ」
絡みつく指の艶かしさに、慌てて飛び起きて見れば。
コツン、と鼻先が硬いものにぶつかった。
漆黒の魔龍の頭を模した仮面である。
「……ディー……トリウス、陛下……?」
途切れ途切れに名を呼べば、宵闇色の双眸が甘やかに細められた。
『寝入っているところを、起こしてしまったな。……すまない、アンブローズの娘』
「……いえ」
どうして、魔帝陛下がこんなところに。
朧げな思考を巡らせた私は、すぐにその答えに行き当たった。そういえば、昨日も似たようなことがあったはずだ。
そうだ、夢だ。
また例の、美味しい夢を見ているに違いない。
そうでなければ、私と魔帝陛下が同じ寝台の上でーーしかも、彼の腕の中に抱きかかえられる格好で、うとうとと微睡んでいる説明がつかない。
温かいのはそのはずで、私の身体には謁見の間で現実の彼が羽織っていたのと同じ黒貂のマントが、贅沢にも毛布がわりにかけてあった。毛の先は目に見えないほど細く、触れた指が蕩けてしまいそうなくらい、柔らかな毛並みだ。
「あ、の……陛下は、どうしてここに……? この離宮は、誰にも使われていない場所だと聞いていたのですが……」
『この〝月の離宮〟は、読み物が好きだった私の母のために、父が建てた場所だ。宮内のどこにいても、月の光が届くよう設計されているから、夜中でも少ない明かりで楽に本が読める。落ち着いて読み物をしたい時には、便利だ。時々こうして利用している』
「読み物……ですか」
その言葉の通り、魔帝陛下は私を腕に抱いたまま、読み物をされていた様子だった。
寝台の傍らに淡い紅水色の灯が点っている。洋燈かと思ったら、茎を長く伸ばした睡蓮の花だった。開花きかけの花弁は硝子のように繊細で、花芯が白く発光している。
「これ、綺麗ですね……ふんわり光って。まるで、魔法の花みたい」
『気に入ったか?』
うなずくと、彼は長い指を空にすべらせ、パチンと鳴らしてみせた。
途端、空中のいたるところに光る睡蓮が無数に咲き誇り、ふわふわと舞い降りてきた。
「すごい……! 術文も詠唱せずに、こんなことが出来るなんて。……魔法! 陛下は、魔法が使えるんですね……!」
魔法は精霊達が使う力だと言われている。魔術のように、ややこしい術文や形式に頼らなくても、描いたイメージがそのまま形になるという。でも、普通は人間に魔法は使えないはずなのに……ああ、でもこれは夢だから、こんなことが起こるんだ。
『……凄いことなど、なにもない。横暴で扱い辛く、煩わしいだけの力だ』
「そんなことないです……! 魔力の全くない私にとっては、とても羨ましいですよ」
『羨ましいだと? 奇怪な仮面をつけていなければ、人前に出ることすら危険となる力でもか』
「……ぁ、っ」
なにかが気に触ったのか、彼の声音に、わずかに不穏な響きが混じった。謝罪を述べられなかったのは、その前に、おとがいをすくい取られてしまったからだ。
龍の仮面の向こうで、宵闇色の双眸が冷たく底光りしている。
ーーこんな距離で見つめられると、嫌でもあの夢の逢瀬を思い出してしまう自分がいた。
思えば、つい昨日の晩のことなのだ。夢の中に現れた彼に、強引に唇を奪われてしまったのは。
誰かにキスをされたのは、初めてだった。
それなのに、唇同士を触れ合わせた時の、胸の中をきゅうっと掴まれるような、甘く切ない感覚が忘れられない。
眼差しに挑むような光を湛えたまま、龍の仮面が近づいてくる。
脳裏に浮かぶのは、昨日交わしたキスの記憶。
唇の合わせ方も、舌の迎え方も。
あのたった一晩で、全て教え込まれた。
ーーだから、今更、近づいてくる唇を拒む術なんて、持ち合わせていない。
また、あんなふうに頭の芯まで蕩けるようなキスをされてしまうのだろうか。
そんな、背徳的な期待に反して贈られたのは、ほんの少し重ねられるだけの優しいキスだった。
「……ん、んぅ……」
唇同士を触れ合わせ、離れる瞬間、互いの吐息が微かに交わる。
紅い舌の端で唇をなぞり、魔帝陛下は少し不満気に呟いた。
『……少しは避けられるものと思ったが。存外、抗わぬのだな』
「……? だって……嫌では、ありませんから。夢の中に現れて下さる陛下は、とても優しいですし……」
『夢……?』
宵闇色の双眸が一瞬だけ、困惑気に瞬く。ーーしかし、それで機嫌が治ったのか、彼は愉し気に問いかけてきた。
『……ふふ。そうか、夢の中の私は優しいか。その言いようでは、現実の私は違うようだな』
「……今日、お会いした、陛下は……っ、あ……、い、じわる、で」
『意地悪?』
頬や、額に。啄むようにくちづけながら、彼は何故と問う。
「だって……っ、み、みんなの、前で……馬鹿にして、笑われ、ました……」
『馬鹿にしてなどいない。ただ、ヴェールの奥で真っ赤になって震えるそなたが、なんとも可愛らしいと思っただけだ』
「そ、なの、嘘です……!」
『嘘ではない』
「嘘です……!」
『……困った子だ。言葉で伝わらぬなら、行いによって誠意を見せるしかないな』
ーードサッ!
視界がくるりと回転する。
気がついた時には、私の身体は寝台の上に縫い止められていた。
彼はその上へ、影のように覆いかぶさってくる。
「……へ、いか……?」
『そなたの望みを、叶えてやろう。魔法が使えるようになりたいと言ったな』
「い、言いましたけど……でも、無理ですよ。私には生まれつき、魔力がありません……だから、父にも……いえ、私が父に嫌われている理由は、魔力とは関係ないんですけど……わっ!」
スッ、と伸ばされた陛下の掌が、視界を塞いだ。
『アンブローズのことは、今は忘れておけ。ーーまずは手始めに、そなたの眼にかけられた魔法を解いてやろう。《霧の眼》と呼ばれる古い魔法だ。これにかかると、その者は生まれた世界に存在するものしか見えなくなる。特に、もとは精霊界の住人である精霊の姿は感知出来ない……全く、何故このような真似をしたのか』
「……《霧の眼》?」
『そう。ーー私がいいと言うまで、瞼を閉じていろ』
言われた通りに眼を閉じる。
魔帝陛下に魔法を解いてもらうなんて、つくづく変な夢だ。
父に言われたことが、よほどショックで、響いているのだろうか。
そんなことを考えるうち、閉ざした瞼の向こうが、ほのかに明るくなった。
銀色の、綺麗な光が揺れている。
深い水面の底から、月を見上げているような。
瞼を開いて見たくなるのを必死に我慢するうちに、『終わったぞ』と、陛下の声がした。
途端、瞼を開ける間も無く、急激な眠気が押し寄せてくる。
「な、ん、です……これ……」
『言い忘れていたが、魔法を解くと、反動で魔力が奪われる。魔力のないそなたは、体力を消耗してしまう。ーー心配ない。そのまま眠ってしまえ』
「……っ」
掌に触れた彼の服を、ぎゅっと握りしめる。
ここで眠ってしまったら。
この夢はきっと、そこで終わってしまう。
ーーもう、こうして陛下が逢いに来てくれることは、二度とないかもしれない。
そのことが、とても寂しくて、悲しかった。
「……へ、いか……嫌です……行か、ないで」
『そなたが眠るまで、こうして抱いていてやる』
「また……逢いたい、です」
『……そんなことを言われたのは、初めてだな』
夢現に最後に聞いたのは、仮面の中からくすくすと響く、愉しそうな笑い声だった。
『ーーゆっくりお休み、愛しい寵妃』




